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第1次(1983)斉南〜南京
黄河(済南)から揚子江(南京)まで、1000km走破

 当時、民間(日本)人の中国旅行には、まだかなりの制限があった。 こんな中、尼崎市の青年が6年前からコツコツと、中国側と交渉を重ね、ついに1980年には、中国人民政府の許可を得て、江蘇省の南京〜揚洲間、無錫〜蘇洲間をサイクリングできるまでにこぎつけたのである。
 そして‘82年には、山東省の済南〜青島間500km走行を行った。ここまでは1省内の都市走行であったが、ついにこの年、省越えを許され、黄河のほとりの街、済南市から、揚子江(長江)のほとり南京まで、1000kmを走ることになった。

先導車の露払い、信号は全部青で快走
 83813日、晴れ渡った大陸の夏の朝、「第3次尼崎市自転車旅行友好訪中団」(神戸石子路之会参加)は、済南市を後に、南に向って走行を開始した。台の先導車で交通整理される中を、日本人団員25名、通訳の徐さんほか名の中国人の銀輪が軽快に回る。さらにその後ろに、お茶や果物などを積んだジープ、リタイヤする人が出た場合に積んでくれるバスが続く。沿道にはたくさんの見送りの人たち...。
 信号の多い街中といえども、先導車と人民政府の計らいで、ノンストップだからじつに走りやすい。なにしろ「済南市から南京市までの信号は、すべて青に」という、人民政府の取り計らいが徹底しているそうなのである。ともあれ、政府がこのような援助をしてくれるくらいだから、訪れる先々での熱烈歓迎ぶりが分ってもらえるだろう。
 最初に、済南市の工場(従業員7万人)と、工場内の幼稚園を訪ねた。ここは前年にも訪れている。そのときにわれわれが教えた「むすんでひらいて」などを園児たちが歌ってくれた。工場を去るときは1千人を超す人々が沿道を埋め、ドラや太鼓、爆竹を鳴らして見送ってくれた。 道は、ほとんど舗装され、車が少ないので快適そのものである。道の両側には、みごとなポプラ、柳、プラタナスの並木が続き、まっすぐ、地平線のかなたまで伸びている。左右には見渡すかぎり水田が広がっている。いかにも中国らしい。
 4日目までは、快晴に恵まれ、暑い日差の中を走りつづけた。気温は、午前10時を過ぎると、どんどん上昇する。おそらく道路では、40℃を超していたのではないか。道路のコールタールが溶け、タイヤにくっついてくるほどだ。
泥水流れるデコボコ道を、カンを頼りに完走  

 8月16日、午後になってスコールにあう、滕県から徐洲に向う途中のことだ。日焼けで手袋のあとがクッキリつくほどの快晴つづきだったので、雲は大歓迎 ―― と喜んだのも束の間、ザーと降り出した雨のすごいこと。8名を残し、あとは全員トラックに自転車を積み、バスに乗り込んだ。8名は次々とスタートしていく。雨はだんだん強くなってきた。風は横から吹きつける。雷も鳴り出すわで、心細いことこのうえない。そのうち、ほとんど視界がきかなくなり、雨は顔に痛いほどだ。おまけに、これまでとは違って道路が未舗装、工事中の部分もあったりで、あちこちに水たまりができている。その水たまりさえ、激しい雨で道路そのものが見えなくなるのだ。

通訳と手をつなぎ、長江大橋にゴールイン

 最終日の8月19日は、120km走って南京長江大橋(670m)にゴールインだ。そしていよいよ、南京まで5kmという地点からは、リタイヤしてバスに乗っていた者も降りて、全員、列縦隊で長江大橋を渡った。わたしは、通訳の徐さんとつないだ手を高く掲げバンザイのしるしとした。戦争体験のある団員は「おわびの気持で走る」と言っていたが、おそらく、万感の思いが迫ったことだろう。つないだ徐さんとの手のぬくもりは、そのまま、平和のぬくもりなのである。サイクリングができる幸せを、これからも中国のひとたちとともに、分かち合っていきたい。

(サイクルスポーツ 1983 小池 啓納 寄稿文より抜粋)

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