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第2次(1994) 〜 天津
成功してよかった

 昨年(1983)4月から計画し、我々の受け入れ省である山東省旅游局に申請を出し、主旨を説明してきた。また、天津市旅游局副局長の来日の折にも直接会ってお願いし、神戸市からも外事課を通して強力にプッシュしてもらったが、結果、今年1月の“自転車による通行は不可”という回答であった。日本人がまだ誰も入ったことのない河北省の未解放地区などは、ある程度想像できたが、河北省すべてがバス移動というのである。それでは自転車旅行としての魅力がなくなるばかりでなく、旅行の主旨が根底から覆される。とても譲れることではない。
 今まで中国側から回答がある度に旅行社の担当者と相談してきたが、遂に行詰った。別のコースも考えてみたものの、やはり未解放地区を通ることになり、どちらにしてもサイクリングコースは我々が開拓せねばならない。困難さは同じということで、再度、交渉を強めることになった。以来、神戸市の応援とともに、旅行社の担当者の熱心な取り組みには頭が下がる思いがした。手紙だけではなく国際電話をかけ、粘り強い交渉の結果、遂に41年がかりでOKの回答を引き出した。それも、ほぼこちらの希望どおり〜天津まで自転車旅行を可能としてくれたのである。
 5月に新聞発表すると同時に定員(25名)に達し、神戸石子路之会主催・神戸市後援の自転車旅行友好訪中団が結成された。以来、毎月の中国語学習会の他に、自転車の組み立て・分解の講習、そして、試走会を通して、単なる観光旅行団ではなく、神戸市の代表の友好訪中団として行くのだという意識を高めつつ出発したのである。

/11(土)滄州〜静海〜天津

 雨が降れば交通遮断され50kmも遠回りしなくてはいけない地区に来た。一昨夜の打ち合わせの時、滄州からわざわざ徳州まで迎えにきてくれた科長が説明してくれた。
 しかし、ここまで来たら何としても全員で走りたいものだ。一部の者だけの完走では意味がない。しかも、天津郊外が通行可能かどうか未だ分からないが、今回のサイクリングの締めの意味でも完走し、みんなで中国大陸をサイクリングしたんだ という実感を味わいたい。この思いが通じたのか、大雨という天気予報もはずれ、みんなで走れてほんとうに嬉しかった。
 出発前は女性が多いのを心配していたが、今は女性陣の方がすばらしい。平均時速25kmで走っている先頭集団11人中、9人が女性で、快調に飛ばしている。しかも歌声までとびだしているではないか 後方集団もそれ程離れれることなく、みんな最後だという思いか頑張っている。
 河北省と天津との省境に来た時、天津からたくさんの人が迎えに来ていた。新聞記者やビデオを持った放送関係の人達までもがマイクロバスで来ている。会見後、ほんとうによく冷えたビールを飲みながら道端で弁当昼食。あまり食欲も誘われないが、ビールはうまい。きょうはゴールのために、朝からビールも飲まずに来たが、ここではやはり1本は
 天津まであと40km。これで、すべての道程が終わる。フリーランで先頭を行く者。ゆっくりかみしめてペダルを踏んでいる者。休憩地点に着くとこんな素晴らしい道は日本にないからと言って、もう一度後方へ戻っていく者。兎に角みんなで完走しようと、転倒・ケガ・下痢・発熱をしながらもファイト・コールで疲れを乗り越え走る者……
 いよいよ天津へ突入 天津賓館の手前1kmのところで1列縦隊5m間隔となりゴール天津へ! 
 着いた やった やったぞ 完走したお祝いに冷やしていないビールで乾杯だ。このビール、振れば泡がでるからとと言いながら70本すべての栓を抜く。
 「 …… 乾杯」一斉に泡がとびだし、忽ちビールで体中ずぶぬれ、頭から、耳から、背中からどんどんかけられる。もう誰が誰だか分らない。……「バンザイ、バンザイ、バンザァ〜イ」握手をしだすと自然に涙が目に溜まってくる。
 天津で自転車をたたみ、その後、観光した万里の長城・故宮・パンダはあまり記憶にない。観光バスの中では疲れのせいもあるが、みんな昼寝。観光地に着いても感動の声も聞かれない。天檀公園では建物の見学もせず、そこにいた幼稚園児の横に座りこみ話しかけている。サイクリングならではのその土地の人々との交流と汗をかき苦しさを乗り越える喜びを参加者全員が得たサイクリングではなかろうか。自転車に乗っているいる時は苦しかった。しんどかったが、確かに みんな生きていた!

(1984年 石子路之会文集 小池 啓納 文より抜粋)

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