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第4次(1986)大連〜天津
4年間で3000km走破

 「サイクリングを通じて、日中交流を」という運動は、尼崎を中心とする自転車愛好家グループ「石子路之会」によって1977年より始まりました。当時は観光旅行もなかなか自由に出来ない時代で、「開放都市」のみならず、その都市間の移動は一切許可されていませんでした。その後、尼崎市などの応援も得て中国人民政府との粘り強い交渉の結果、1980年に外国人として初めてサイクリングが許可されました。
 こうして、ほんの点にすぎないサイクリングだったのが省越えを含む線となり、本格的になったのは、1983年の済南(黄河)から南京(揚子江)までのサイクリングでした。この時、初めて「神戸石子路之会」として参加し、これが大連〜上海3000kmサイリングの発端となりました。翌84年から「神戸石子路之会」独自で毎年、夏に中国大陸を自らの足で走り、いろいろな形での友好交流を持ちました。また、この年からバス移動はなくなり、すべて自らの足で走ることが許可されました。この間に「明石石子路之会」も加わり、参加者も東は京都から西は姫路まで広がって、名前も「兵庫石子路之会」となりました。
 今夏、大連〜天津1100kmを12日間で走破し、4年がかりで大連〜上海3000kmを走りぬきました。この距離はおよそ日本列島縦断に匹敵し、それも異国のことだけにいろいろなことがありました。
 真夏のサイクリングにとって、まず、第1に問題なのは暑さによる疲労です。照り返しも含め40度は超すと思われる猛暑の中を走り続けるため、日射病にかかったり脱水症状を起こす者もでました。それに、朝・昼・夕の食事は毎回中華料理。来る日も来る日もとなればたまりません。また、連日の運動でおなかもすきますから、つい食べ過ぎて胃腸はびっくり。団員のほとんどが下痢を経験し、入院した人もでたほどです。また、風邪を引き、40度に近い熱をだした人もいました。ひどいどしゃぶりの雨の中、全身ズブぬれになって、それでも走りつづけるのです。
 こんな時、仲間(団員同士)のファイトコールがかかります。沿道の住民からは「加油(頑張れ)」と、盛んに声がかかります。土地の人から「熱烈歓迎」を受け、ペダルに力を入れなければしょうがな状態が続きます。もう、疲労度が最高に達すると、なぜ、こんなしんどいことをしているのだろうという迷いも出てきます。
 それが、4、5日もたち、身体もサイクリングに慣れ、内臓も食事に慣れてくると様子は一変します。サイクリングが実に楽しいものに変わってくるのです。中国人の気遣いが、よく分るようになってきます。身振り・手振りのゼスチャーに筆談を加え、ほんとうに言葉を越えた交流になってきます。
 ゴールが近づくと、力が自然に入ってきます。みんな時速30km近くで踏み込んで、しかも落ちこぼれは一人もいません。もう、風も熱も吹っ飛び、全員が元気に走り続けるのです。いろんな思いを込めてゆっくりとペダルを踏み込む者、猛烈に飛ばす者、中にはもっと中国を走りたいと引き返すものもいます。それぞれが、そんな思いをかみしめながら、いよいよゴールへと突入していくのです。そして、ゴール。やった 3000kmを走り抜いたのだ 握手をしだすと自然に涙が出てきてとまりません。ただ、黙って抱き合っている者もいます。
 私たち「石子路之会」が、中国人民政府からのサイクリングの開放を得ながら、知事・市長の親書を携えて訪問地の人民政府を表敬訪問したり、幼稚園で園児に遊戯を教えたり、人民公社の農家では、文字通り寝食を共にして農作業などもし、サイクリングならではのいろいろな交流がありました。帰国後、文通する団員もいます。こうして一生の思い出として心に刻むことができたましたのも、兵庫県・神戸市・明石市、そして、多くの関係機関の応援があったればこそと感謝しています。

(1986年 石子路之会文集 小池 啓納 文より抜粋)

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