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第5次(1987)ハルビン〜上海

「ツール・ド・中国」選抜9名で挑戦

ハルビン〜上海3000キロ  隊長 小池啓納

  1975年から「シルクロードを自転車で!」と夢を抱き、出発した「石子路の会」の草の根運動。1983年に、外国人として初めてサイクリングの特別許可を、中国人民政府からいただき、以来、毎年夏に友好訪中団を送り出した。最初はほんの点ですぎなかったサイクリングが、省越えを含む線となり、4年間かけて中国の沿岸線沿いの都市を結び大連〜上海3000キロを走破した。     
 そして、それまでの訪中サイクリングの集大成として、今年の夏は「ツール・ド・中国」ハルビン〜上海に選抜隊9名が挑戦することになった。総走行距離3000キロ。これは、日本で言えば最北端の稚内から鹿児島の最南端佐多岬までに匹敵する距離である。これを何日で走ることが出来るか。
 とは言っても、団員もみんな仕事を持っており、休暇の都合もあり、出来るだけ短期間で走らねばならない。いろいろ検討した結果、実質15日間で走破することになった。3000キロを15日間。1日平均233キロ。これは10年ほど前の日本記録にも匹敵する厳しいスケジュールであり、しかも異国でのこと、水も違えば食事も違う。加えて気温40度を越す真夏のサイクリングである。そこで、過去の訪中サイクリング参加者延べ110名の中から健脚組が選抜された。ヨーロッパラリーの参加経験者、アメリカ大陸自転車横断した者、全日本トライアスロン年齢別3位になった者など、そうそうたる面々、女性2人を含む9名で訪中団が組織された。
 こうして今年の『ツール・ド・中国』ハルビン〜上海3000キロのサイクリングはスタートした。                    
 予想通り毎日が、ハプニングの連続であった。走行予定距離が一夜にして30〜40キロ延びることもある。広い大陸に住む中国人にとっては、それくらい延びたところで大したことはないであろうが、自転車旅行をする者にとってはこれ程辛いことはない。距離210キロのうち30キロの工事中の所があった。バス移動を断り、自転車を押しての走行も覚悟し朝6時の出発となった。「パンクしないでくれヨ!」と祈る思いも、勝手な時だけの神頼みでは効き目はない。まるで「ドンパン節」のように次から次へとパンクし出す。やがてスポークまで折れ、とうとうガタガタ道(中国語で石子路)には負けた。もうたまらず自転車から降り、担いで歩き出す。日本ではめったにパンクしないツアーガードの新品のタイヤ80本が、道にまかれたガラスやバラスで、ズタズタに切れ、突然「バン!」と大きな音を立てバーストするのである。総計100回以上のパンクに見舞われるとは、一体誰が想像出来たであろうか。
 雨の日はガラスが浮きパンクも増える。タイヤの張り替え時間の3分間、じっと待つ間の寒さは骨身にこたえる。だんだんと手足の感覚がなくなって来て、やがて体がブルブル震え出す。修理完了を待ちかねて一斉に走りだす。東北地方は寒かった。また、雨降りが多かった。一日中雨の日もあった。時速30キロ以上のスピードで全員が一丸となって突っ走る。下着まですっかり濡れ、休憩する場所もなく、立ち止まるとかえって寒いので連続走行が続く。どしゃ降りの中を、シャーッと車輪が回転音をたてながら走る。団子になって走っていた時、突然アヒルの子が飛び出し、急ブレーキで3名が転倒。腰を痛打。冷えきった膝が痛み、加えて痛打した腰が痛んでくる。体が温まってくるまで痛みに耐えながらペダルを踏み続けるが、一度冷えきった体はなかなか元には戻らない。自転車のスピードが増すにつれ、まるで扇風機に当たっているようで体はますます冷えてくる。それでも頑張るより仕方がない。前方に下りの道があると、みんな何かに取りつかれたようにビュンビュン飛び出す。
 まるでロードレースのように9人が抜きつ抜かれつ突っ走って行く。日本では、石畳のような走りにくい所ではスピードを落とし自転車をいたわる。ところが今回の訪中ではどうだ。自転車をいたわり一瞬ペダルをこぐのを緩めようものなら、たちまち集団から引き離されてしまう。一瞬のうちに前方へ遠ざかって行く集団に追いつくためには猛烈にダッシュをかけねばならない。愛車には申し訳無いが、半分開き直って一気にドッドッドッと走り抜ける。今度は上り坂になる。みんなでファイトコールをかけながら、必死にペダルを踏み続ける。
 「チャーユー、チャーユー」と沿道の市民から声援が飛び、列車の機関士が汽笛を鳴らしてくれる。みんな手を振り叫んでいる。人間の力は不思議なもので、雨降りのように条件が悪ければ悪いほどよけいに力が湧きだし、気合が入る。それに、一定限度を越すと、それ以上は疲れれば疲れるほどプラスαの力が出てくる。そうした力は、一人ではなかなか発揮しにくいものだが、集団の力というのは偉大なもので、そのプラスαの力をさらに倍加してくれる。
 今回の旅行で、もう一つ学んだことがある。人間の適応能力である。前述したように「千里の道も一歩から」、まさに自転車でも毎日200キロを走り、3000キロでも4000キロでも行けるものである。さらに、それを支えるためには「食う、寝るの法則」が大切である。まず、食事、そして夜は熟睡である。
 ハルビンを出発して1週間が過ぎ、中盤に入ると、あれほど悩まされた下痢が一人また一人と治っていった。同時に食事がとても美味しく感じ、次第に猛烈な食欲を発揮し始めた。何と言っても1日200キロを越すサイクリングでは、普段の3倍も4倍ものエネルギーを必要とする。食事の時間は、中国料理がどれもこれも本当に美味しい。いくらでもどんどん食べられるのは不思議である。朝食を食べ、2時間も走っているとおなかがすき始める。栄養補助食品やカロリーメイトを補給する。食卓から失敬した饅頭や揚げパンの配給が、サポーターから渡される。お母さんからおやつをもらう子供の顔を思い出す。まさに実によく食べ、よく走る集団へと変身して行ったのである。どこまで出来るか不安と体力の限界、雨やパンクなどの困難を乗り越え一歩一歩ゴールに近づき、もう少し、あと少し頑張ればゴールに到着出来るという時、その喜びと感動はゴールまでの距離の短縮と反比例して大きく膨らんで行くのである。 
 一日の走行距離が、270キロという日もあった。天気予報通り雨で、時間を節約するため弁当を伴走車に積み込んでいる。しかし雨では道端で弁当を広げる訳にも行かず、結局昼食時間は取らず、パンク修理や小休止のつど、少しずつつまむことにした。少しでも速く、少しでも長く走り、一刻でも早くゴールに到着したい、みんなそんな事ばかりを考えている。「休憩しようよ」と弱音を吐ける雰囲気ではない。そこで助かるのが(?)パンクである。パンク休憩の時、サポーターから出されたチキンラーメンの美味しかったこと。少し食べて仲間に回すのだが、その口元を注視して食べ方が多いと「ピピッ!」と交通整理する者もいる。チキンラーメン一つでこれだけ賑やかになるのも不思議だ。
 激しい雨で道路は水浸し。路面の凸凹が分からない。転倒の危険も出て来て、バス停で停車する。停車すると寒くてたまらない。手は真っ白でシワくちゃになっている。感覚もなく、自分の手ではない。唇を真っ青にし、歯をガチガチ鳴らしながら寒さに耐えている。休憩は取りたいし、止まると寒い。走っても止まっても膝は痛いし、まだ修行が足らないのか!  朝から9時間位が経ち、200キロを走り抜いたが、まだ残りが70キロ。トイレ休憩で男性は一列に並んで放水。女性はそうもいかず、民家に駆け込んだ。言葉が通じずゼスチャーを交えて一生懸命話しかける。何かを探しているのはすぐに分かってもらえたが、肝心の事がなかなか通じない。そう具体的なゼスチャーをするのもはしたない。そこで手のひらに「厠所」と書いて、やっと通じて案内された所は、間違いなく中国式トイレであった。
 疲労が極限に達するゴール直前で、上り坂が待っていた。雨の中、中国人スタッフも伴走車のバスから身を乗り出し、「ファイト、ファイト」と励ましてくれる。その声に合わせ、私達も最後の力を振り絞ってファイトコールを繰り返し、雨の中を疾走して行く。沿道の声援にも応え、ついにゴールの済南市内に突入した。街に入ってからホテルまでの長いこと、長いこと。さらにこれでもかと言わんばかりに急坂が現れる。その坂を上り切った所に宿舎のホテルがあった。爆竹が響き渡り、ドラや太鼓が打ち鳴らされ、2年前の中国人スタッフも迎えてくれた。がっちりと握手して、無言で見つめ合うと改めて喜びが込み上げて来た。抱き合って肩をたたき合っている団員の目には涙が光っていた。本当に長い長〜い一日であった。朝6時に出発してから、実に14時間走り続けたのであった。
  かくして、1987年8月21日、ゴールの上海に到着した。書き出せば切りがない大変な試練とその感動。苦難が大きければ大きいほど、それを乗り越えた時の達成感、充実感、感動は大きかった。素晴らしい体験が出来たことに心から感謝し第5次の報告とさせて戴きます。なお、この時の記録を「ツール・ド・中国」神戸新聞出版センターから全国出版しました。日本図書館協会の推薦図書にもなっています。関心のある方は是非ご一読ください。

(石子路之会会長 小池 啓納 1〜19次訪中)

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