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第10次(1992)蘭州〜西安(本隊)
葡萄の美酒

         涼洲詞
                           王翰
   葡萄の美酒 夜光の杯
   飲まんと欲すれば 琵琶馬上に催(もよほ)す
   酔うて沙場に臥す 君笑うこと莫(な)かれ
   古来 征戦 幾人か囘(かへ)る 
                            (唐詩選)

 (葡萄酒を夜光杯で飲もうとしたら、馬上で誰かが弾く琵琶の音が聞こえてきた。興にのって杯を傾けるほどに、酩酊して、砂漠の上で臥してしまった。この酔態を笑うことなかれ。古来征戦の人、幾人本国に生還しているであろうか。わが身のつつがなきを思えばどうして酒を飲まずにいられようか。)

 一昨年(1990)中国シルクロードの最初のサイクリングの出発式で、パンパンと爆竹の鳴る中、ウルムチの大勢の観衆に送られた時、ふるまっていただいたのは一杯の葡萄酒であった。それは遠くシルクロードの砂漠を横断して旅をする旅人への安全を願う古来の習慣であったと言う。また昨年(1991)カシュガルでの出発前夜、月光に映える葡萄棚の下で舞ってくれた舞姫の頭上の杯に入っていたのはやはり琥珀色の葡萄酒だった。過去3回のシルクロードサイクリングを振り返るには、夜光の杯と葡萄の美酒がなんともふさわしい気がする。

出発
 8月13日、不安と期待の入り交じった気持ちで蘭州からのサイクリングが始まった。昼食は田圃の中でのんびりととれたし、木蔭もあり、去年ほどの猛暑がなかったのも幸いした。食事の内容も豊富でまた食べやすい献立であり、量も申し分なかった。 午後の景色は広大な黄土高原をだんだんに切り開いた雄大なパノラマ写真に最適のものであり、緑も豊かで安らぎを与えてくれた。上りと下り坂があまり無理なく配置され、第1日目の行程としては絶好のものであった(114km、定西泊)。

踏み残した40km
 8月14日の行程は定西から党家岼までの102kmの予定だったが、定西から180km先の静寧まで宿舎がなく、今日はとにかく静寧まで行かざるを得ない、そして翌日平涼まで約100km走り、そこで観光のため1日休養をとると中国スタッフから提案があった。従来、中国サイクリングでは何回も計画の変更はあったが、これほどの大幅な変更はあまりなかった。しかし宿舎がないとなればそれに従わざるを得なかった。1日で180kmの走行はとうてい無理なので、健脚の何人かを選抜し、その人達に完走してもらい、残りの人は走れるところまで走り、後はバスに乗ってもらうとのM団長の結論に落ち着いた。
 さあ、大変なことになった。せっかく昨日完走の感触をつかんだのに、どう考えても180kmは無理だ。しかもどれだけの上り坂が待っているか知れたものではない。とにかく走れるどころまでペダルを踏むしかない。しかしなんとしてもバスに乗りたくない、なんとしても自転車の上に残りたい。悲壮な覚悟で1本目に臨んだ。 景色は依然として黄土高原の段々畑の大パノラマである。2本目はかなりきつい上り坂を登りきった峠で、39km地点。スピードの遅い人は自転車をトラックに積んでバスに乗るようにとの通達あり。何とか先頭グループにくっついて少しずつ自信が湧いて来る。3本目のきつくて長いアップダウンを乗り越すと58km地点での昼食。ゆで卵、魚の缶詰、果物が美味しい。 
 午後3時半、5本目101km地点で、団長から緊急の話あり。このまま静寧まで走るとすればおそらく暗くなって危険だし、かと言って選抜隊だけの完走では、せっかく参加した他の人も残念であろう。したがってあと2本、40km自転車で行き、そこで中断、明日その地点へバスで引き返し、あらためて自転車で出発することにする。これで元気百倍、ペダルをこぐ脚にも力がこもってきた。6本目、7本目アップダウンの多い段々畑の見える道を走りきり、午後6時141km地点(312号線の1958の石の標識あり)で大休止をとる。
 自転車をトラックに積み、全員バスに乗って出発。明日走ることになる静寧までの道をバスから下見する。1958地点からの下りは大変道が悪い。かなり慎重に走らなければならない。小さい集落を過ぎてからの約5kmの上りも非常にきびしい。7時40分静寧招待所着。 楽しい夕食後また話が二転、三転した。平涼までは約100kmで、下り坂傾向の道と聞いていたが、実は100km以上あり、しかも六盤山という海抜2800mの山越えがあることが分かった。またバスのUターンする場所もないので、安全を考えて、明日は1958地点へ引き返さず、静寧から出発することに決着した。かくして残念だが今日の約40kmの走行を断念する。つまりシルクロード1958地点〜静寧の区間を断腸の思いで踏み残すこととなったのである。

影を見つめて
  8月15日、踏み残した40kmに後ろ髪を引かれる思いで静寧招待所を出発、ゆっくりした登り坂の後、長い下り坂を慎重に下りると右側に大きい湖が見えてきた。昨年の土色の砂漠地帯と比べると、景色がバラエティに富み気分爽快である。2本目、湖を後に村落に入ると道路に麦藁が干してある。道路を通る車に麦をひかせて麦の脱穀をしているのである。麦藁をチェーンに巻き付けて立ち往生したり、麦藁にハンドルをとられて転倒したりする人もあったが、向い風ながら登り坂もなく快調にサイクリングをして六盤山の見える田園地帯で小休止(海抜1790m)。3本目、ダート混じりの坂を登ると六盤山の登り口(海抜1790m)に着いた。
 昼食をさきのばしにして午後1時10分いよいよ六盤山の登りが始まった。つずら折れの急坂が果てしなく続く素晴らしい(しんどい)登り坂であった。ペダルをこげどもこげどもなお続く登り坂であった。ペダルをこぐ自分の影が道路上に映り、その影に額から流れ落ちる汗の一しずく、一しずくが道路に濃く残る斑点がはっきり見えるほどのスピードしか出ない一筋の道であった。一つのカーブを登りきると、また次の登りが始まる長い、長い一筋の道、ローマから長安に続く一筋の絹の道であった。  約30分の悪戦苦闘の末、ふと見上げるとそこに四角形のあずま屋風の建物が目に飛び込んできた。そこが六盤山の峠(海抜2540m)であった。 
 苦しみの後の昼ご飯は格別であった。冷たい一迅の風が吹き付ける中で飲むビールの味はまさに値千金、葡萄の美酒に劣らぬ味わいがあった。六盤山からの下り坂は雄大でブレーキをかけ続ける腕はまったくガタガタになるほどだった。その急坂を下るとあとはゆっくりした坂で午後6時45分に平涼賓館に到着、本日の健闘をたたえ合って三三三拍子で締めくくった。

花の長安 選抜隊と合流
 サイクリング5日目(8月18日)
 午後3時20分、サイレンを鳴らす公安の先導車に続いてK団長を先頭に選抜隊がわれわれ本隊が待っている咸陽に到着した。どの顔も日焼けして、たくましく見えた。にぎやかに本隊、選抜隊の交歓後、いよいよゴールの西安に向けて出発。西安が近づくにつれ、交通量も増え華やかな雰囲気が漂って来る。5時55分西安着。選抜隊は4000km、本隊は681kmを走破しての感激のゴールインだった。 
 シルクロードを西に向かう旅人が必ず通った西門跡に作られた記念広場では、西安の小学生達が手に手に色鮮やかな旗を振り、にぎやかなブラスバンドで迎えてくれた。なんとも晴れがましい気分だった。西安市の代表者による歓迎式典が華々しく挙行された。その後、恒例の団長、副団長の胴上げ、みんな輪になっての感激の握手が続いた。苦しかったこと、楽しかったことがぐるぐると頭を駆け巡る感激のひとときであった。それぞれの人がそれぞれの思いを抱いてお互い健闘をたたえあった。

旅の終わりに

1回目(1990)ウルムチ〜ハミ間630km、2回目のカシュガル〜アクス間527km、3回目のこの年の681km。それぞれにそれぞれの思い出多いほんとうに楽しい旅だった。1回目は初めての経験で、何もかも珍しく大いに驚かされた。中でも、砂漠の中のテント生活、砂嵐、星空、オアシスの冷たい水、トルファンのミイラ、敦煌莫高窟の色鮮やかな壁画などが心に残る。2回目は、灼熱の砂漠、照りつける太陽と道路の照り返しの暑さ。意識もうろうの中、玄奘三蔵を思い、般若心経の世界を見た。シルクロードの古都カシュガルでの優雅な舞姫の舞い、幼稚園児の天才的なリズム感に古代ペルシャの市場の面影を見た。今年は、どこまで行ってもなお続く黄土高原の段々畑と起伏に富んだ道、裾野のでっかい山の塊、なかでも六盤山のとてつもない広さと重量感に圧倒された。またシルクロードで初めての雨らしい雨に出会った。そしてシルクロードの起点の街、いにしえの、あおによし奈良の都のモデル都市西安を見ることができた
 日本に帰って、阿倍仲痲呂が西安で見た月を眺めながら中国の旅を思い起してみると、私をひそかに中国シルクロードへと駆りたててくれたのは、西域シルクロードに関する幾多の書物であったと思う。なかでも故井上靖氏の西域紀行文は私のこの旅のガイドブックであり、また座右の銘であった。そのほか、NHK取材班によるシルクロード、中亞探検(橘瑞超)、敦 物語(松岡譲)、長安の春(石田幹之助)、陳舜臣のシルクロード紀行文などが私の中国への旅を育ててくれたのだと思う。

(S.N  8〜11,14,16,19次訪中)

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