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第12次(1994)日喀則〜拉薩


<待望のチベット入り>

僕たちの乗った飛行機は、海抜3,700メートルの空港に滑り込んだ、富士山の頂上と同じ高さだ。飛行場は、それほど高くない岩肌の丘陵で取り囲まれている。空は青く、ひんやりしていてとても気持ちが良い。空気が薄いせいか深呼吸をしても何か物足りない。これが、初めてチベットの首府ラサ(拉薩)に入った時のことである。あの阪神淡路大震災の前年、1994年夏のことだ。
 チベットには、チベット仏教の聖なる山カイラスに源を発し、インドまで達しているヤルツァンポ川が流れている。シガツェ(日喀則)までバスで移動し、その後、この川に沿う国道をラサまでサイクリングで戻ることになっている。

<バスで出発地シガツェへ>

高山病の症状のある3名をラサのホテルに残して出発。バス移動は、途中にカンパラ峠、カロラ峠などの標高5,000メートル近い峠越えの道をとった。こんな高地にまで電線が通っており、人が住んでいる。チベットの人が信仰のために紐に経文が書かれた布切れを結びつけたタルチョも見られる。チベットの人は一生に一度はラサにある大昭寺へ巡礼をし、五体投地する(全身を地面につけて祈る)ことを夢見て暮らしていると聞く。
 カンパラ峠からは青く澄んだヤムドク湖が真下に見える、寒い。峠からずいぶん下りても樹木はなく、少しの草が足元にあるだけだ。途中、バスを降りて弁当を食べ出すと、どこからともなく子どもたちが集まってくる。みんな黒い顔をしているが目が澄んでいる。その後、マイクロバスは、がたがた舗装の曲がりくねった道をものすごいスピードで走って行く、すごい振動だ。ようやくホテルに到着した。

メンバーの間で、頭が重い、偏頭痛がする、手足がしびれる、胸がムカムカする、体がだるい・・・などの話が出ている、軽い高山病にかかっているようだ。部屋の割り当て、僕は最上階の3階だ、エレベーターはない。大きなリュックを持って階段を上がるが、これが大変だ。いつもの調子で動くと息切れをする、手すりにつかまりながらあえぎあえぎやっと部屋に着く。しばらくすると係が酸素の入った空気まくらを配ってくる。聞くと頭痛などの高山病の兆候が出たときにゴム管をほどき、鼻の穴から酸素を吸うのだそうだ。食事の後1室に集まり、高所のため禁酒だが、持参したウイスキーをこわごわ飲みながらの日々交流でチベットでの初日は更けていった。

<サイクリングでシガツェからラサへ>

翌日、いよいよ出発だ。高山病の兆侯が出て嘔吐や下痢の数人を除いて総勢41名のメンバーで一列になってスタートだ。医師も同行しサポートしてくれる。チベットTVのカメラマンも同行する。地元の人の激励の、爆竹の音と煙のトンネルだ。大きなヤルツァンポ川に沿った舗装道路を走るが結構起伏があって大変だ。それに高度に体が慣れないうちに過激な運動をすると高山病にかかるのでスローなペースで走り始める。1時問走って10分休憩のペースだ。走り出すとマイクロバスの窓から見たのとは違い、まちの人が身近に感じられる。
 途中は野営や招待所に泊まりながら4日間をかけラサまでサイクリングだ。4日後、ラサには市内手前で合流した高山病でラサ残留組のメンバーも含め、全員で一列になり祝福の爆竹の音と煙の中、無事ゴールすることができた。歓迎の少年少女鼓笛隊の演奏が流れる中、ラサ市長の歓迎の挨拶があり、メンバー同志が熱い思いで握手を交わしたのである。途中の道端では地元の人が「タシデレ(こんにちは)」と声をかけてくれたり、実際に民家を見せてもらい、そこでおばあさんにヤクの乳のチーズと羊羹を交換してもらったり、チベツト馬に乗せてもらったり、なかなか貴重な体験ができた。このチベットヘの訪問は一人一役で、一団となってし終えた満足感でいっぱいである。

(M.K 12,16,19次訪中)

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