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同期生の部屋

世界遺産山行記  笹野成男(旧3-8) 山本安伸(3-9) 角谷淳二(3-2) 根来俊彦(3-6)

はじめに…奥駈道縦走のいきさつ

世界遺産 熊野古道には 5 本の参詣路がよく知られている。 中辺路、小辺路、大辺路、 伊勢路、紀伊路。そしてあまり知られていないのが奥駈道。奥駈道とは 1300 年前、役行者 によって修験道の修行場として開かれた道であり、他の参詣路とは違い参拝するというよ り修行をする道である。全長約 90km、登り合計高度 7,747m、下り合計 7,919mで紀伊半 島ど真ん中の 1200m~1900mの急峻な山岳が連なる尾根筋を辿るルートである。稜線を辿 るだけに巻道がなく水場もとても少ない過酷な縦走路だ。
かねてより縦走をしてみたいと思いつつその機会が半世紀近くなかったが、何かの機会 に同窓生に声をかけてみたところ賛同者が 2 名出てきて山行基本計画があっという間にで き上った。今思えばこの軽いノリは危険である。3 月に下見にも行き計画を練るほどに難し く感じられる。大学の先輩である山岳ガイドにも相談したが、難しい。テントを担いで一気 に 100 km 行くのならともかく、まだまだ現役の身で長くは休めないし、そもそもそんな体 力もない。日帰り、1 泊を繰り返しながら何度かに分けていくにはどうすればいいのか。Y 君N君と悩んでいるところにもう一人Su 君が参加表明してくれた。Su 君は部分的に何度 か奥駈道を登っていて言わば経験者、強力な味方である。即刻計画書作成リーダーを彼に任 せ、本来の他人任せの自分に戻る。しかしリーダーが変わっても基本的な問題はさすがに解 決しないがとりあえず始めようとなり、奥駈道縦走を計 6 回に分け 1 年かけての完全踏破 を開始することとした。まだ軽いノリは危険であると気が付いていない。

第 1 回目 2019.5.18-19 吉野~山上ケ岳~洞川

朝 6:30 に天王寺駅集合。6:50 発の急行でいざ吉野へ。吉野でバスに乗り換え、桜で有名 な奥千本口まで。

ここからはいよいよ歩くことになる。9:20 いよいよ 世界遺産完全踏破に向けて登頂開始。先の苦難も知らずわくわくした 気分で 4 人は歩き始めた。最初は林道を歩くも本格的登山道に入った あたりから徐々に登りがきつくなってくる。青根ケ峰 858m を超え四 寸岩山 1236m を越える頃は急な登りとは言え 4 人とも全く平常。

と ころが 14:00 大天井ケ岳 1439mを超えたあ たりから何やら私の右ひざに違和感が出始 めた。とは言えあまり気にせずひたむきに登る。14:36 五番関にあ る最初の女人結界門をくぐる。現在ではここ大峰にしか残ってい ない女人禁制の地に踏み入った。

女人禁制 一般的には男性が世俗の欲望を断ち切る修行の場に 女性がいると妨げとなるという考えと、女性特有の出産や月経に 伴う出血を『血の穢れ』として不浄視するという説明がされるが、 日本では古来、多くの山が信仰の対象となり、もともとふもとの 人間も立ち入ることが出来なかった。しかし、遥拝するだけでな く、山に立ち入って霊力を得ようとする修行者や僧侶が現れ、山自体が修行場となって

俗人 の立ち入りが禁止される境界が生まれた。そして修行の地が危険でか 弱い女人を守るためとの説もあり、いずれにせよ長い歴史の中で宗教 的伝統として作り上げられた考え方である。16:30 洞辻茶屋を過ぎる といよいよ足の具合が悪くなってきた。途中よろめいて体重が掛かり すぎ折れてしまった 1 本のポールがここにきて恨めしい。
山上ケ岳近くになると整備された階段が現れ始める。もうこの頃は 全く言うことを聞かぬ足となっている。皆に迷惑を掛けながら片脚で 必死に登り続ける。途中いい景色もあったはずだがそれどころではない。とにかく痛い。よ うやく 18:00 宿坊にたどり着く。部屋に上がるのもお尻から這うように這い上がる。なんと も情けなや!!ところで 5 月 18 日の 標高 1700mの宿坊は予想以上に寒い。ちなみに宿坊 ではお風呂もあり、ビールも買える。350ml 500 円とちょいと高いが・・・。寒いので防 寒具を着込んで寝たがNなどは寒がって非常用のアルミ箔にくるまって寝る。おかげで朝 までカシャカシャと箔の音がうるさい。
翌朝膝のほうはかなり良くはなっているものの、若干の痛みと違和感はそのままである。

まぁ今日は洞川温泉へ下るのみ。頑張ろう。朝一にまずは 世界遺産 大峰山寺に参拝。令和改元祝いにとご本尊が開 帳されていた。今シーズンはずっと御開帳との事。めった に見られないものを拝ませて頂いた。ここで折れたスト ックの替りに金剛杖を購入。名前を記入していただき帰 りはこれにすがって帰ることに。1719m山上ケ岳を通っ て頂上お花畑(と言っても花はなく笹の原っぱ)を抜け、 日本岩の横を抜け、西の覗きでちょこっと覗いてみた。

幸い ガスっていて底まで見えないんで恐怖感はない。鷹ノ巣岩、 鐘掛岩、昨日は意識することもできなかった有名な場所が 続く。
西の覗きと言えば、我々が小さいころ、ある程度の年齢に なった男の子は親に連れて行かれた。ここから安全具を身につけてもらうものの、覗きから ほぼ突き落とされかけ、『親孝行するか? 勉強するか?』と呼びかけられる。大きな声で ハイと言わない限り引き上げてくれない。違った言い方をすれば脅迫して親孝行を迫るわ けで(笑)まぁそういう風習だったんですね・・。そういえば最近行ったとか連れて行ったっ て話あまり聞かなくなった。 清浄大橋にある女人結界門をくぐった後、林道を歩き 10:15 洞川温泉に到着。3 月の下見 の際覗いたバス停近くにある温泉に浸かろうと思ったが、疲れを癒すことできず。やむなく ビール付きの昼食をとった。もう 1 本ビール追加してその後満足してバスに揺られました。 やはり乗り合いバスは乗っている時間長いし、疲れた体には辛いものがある。そういえば足 の痛みも消えている。ビールのお陰か?
今回の歩行距離 22.2km 登り合計 2,050m 下り合計 1,841m
今回宿坊で今後のことを相談した。どう考えても公共機関を利用しての移動は難しい。最 悪のところでは 1 日に 2 本しか走っていないバスに乗り遅れない為、山の中を走らねばな らぬケースが生まれたり、それでも万が一バスに乗り外せばそこでビバークするかヒッチ ハイクするか・・。ヒッチハイクする車が来なければ翌朝までどうすればいいのか? 行き 帰りとも移動だけで 1 日必要と考えねばならぬ。次回から運転手を雇い登山口まで送って もらい、下りたところへ迎えに来てもらう案を提案。それができるのならということで皆の 合意を得た。相手と予算は私に一任され、移動手段は我社の社用バスを提供することとした。 今回帰宅後弊社出入りの運送屋に、こちらサイドで車を提供するので、専用ドライバーを雇 いたいと申し入れ、優位的地位をフルに乱用することで移動手段を獲得した。あとで思った ことだが、この交渉が決裂していれば世界遺産の完全縦走は不可能であったと思う。 優位的地位乱用 万歳!

第 2 回目 2019.6.15-16 洞川~山上ケ岳~大普賢岳~行者還岳~奥駈道出合~トンネル西口

前回の反省を踏まえ、サポーターや痛み止め薬などを持ち気合を入れる。前回打合せ通り 7:30 日根野駅に集合し、雇いのドライバーに洞川の母公堂まで送ってもらう。集合場所に 私の里帰り中の娘が孫を連れて現れ、見送りを受けた。この娘何故か昔から Y と仲がいい。 知らぬ間にメル友になっていたりする。別にやきもち焼いているわけではないが。Y の見送 りに来た訳で私ではなかった。
9:55 登攀開始。薄日が差す程度の天気。法力峠を越え 12:20 稲村が岳山荘着。WEB 上で 見た山荘とはずいぶんイメージが違う。無人であるし、中も覗けない。WEB 上では格好良 かったんだが・・。また天気の方もおかしくなってきた。雨が降り出しガスも出てきた。と もあれ軒下で雨を避けながらのお昼をすまし奥駈縦走 3 つ目の女人結界門レンゲ辻を通過。 あと一息で山上ケ岳奥駈道に復帰できる。この辺りから風も出始めた。強風、いや暴風、ま るで台風の中を歩く感じ。吹き飛ばされそうになって 15:10 宿坊到着。N などは全身どころ かパンツまでずぶ濡れ。山では綿のパンツはいかん!と気づき、一つ賢くなった瞬間である。 明日の天気が気になる。

翌朝 5:10 に出発。天気悪し。濃いガスの中を歩き始める。大峰山寺か ら山上ケ岳を超え、小笹の宿跡から 4 つ目の最後の女人結界門のある阿 弥陀が森へ。6:55 女人結界門を通過。
大峰にある女人結界門は4つ。この4つはそもそも今ある場所になく、 昔の女人結界エリアはもっと広かった。時代の流れの中で未だに女人禁 制とは何事か!!という人もあれば、伝統文化を大切にという人もいる。 何年か前大相撲の土俵に女性が上がったことで大きな反響を呼んだことがあった。どちら の考え方に与するかはともかくとして、そうした時代の流れの中で少しづつ狭まってきて いるそうだ。今回の登山口である母公堂には、もともとここが女人結界の門があったところ であるとの石碑が建っている。
ところで、昨日登り始めた今回の登山口である母公堂では面白い伝説が残っている。大峰 山を開いた役小角(役行者のご本名はエンノオヅヌと言う)が母を伴ってここまで来た際、こ こから先は急で、とても女性の足では登れないと思い涙を呑んで分かれた場所というもの。 そして母は息子(役小角)の無事を祈る為小さなお堂を作ったとされる。また、一方で母が役 小角を案じて訪ねてきたとき、この場で一匹の大蛇が行く手を塞いでおり、困った母は洞川 の里に引き返し大峰の山に手を合わせると一条の光が輝き阿弥陀如来が現れ『小角はまだ 難行苦行を重ねております。修行が終わるまで山に入ってはなりません。小角が下山するま で、里の人々を助けて待ちなさい。』とお告げがあり、

母は里の人々に仏の教えを説きなが ら、里の女の出産を手伝ったりしながら小角の帰りを待ったとい う。その場所が母公堂のある場所というのだ。 いくつかある役行者にまつわる伝説の一つだが、母が出てくる のが面白い。役行者のイメージで、母を連れて歩き別れに涙を流 すというマザコンぶりが

私の頭の中で はうまく噛み合わない。母を含む女性には目もくれずひたすら修 行に励む今の私のような姿が似つかわしい。
阿弥陀が森を通過すると次は大普賢岳を目指すことになるが相 変わらず天気は悪い。雨具を着た体は外からの雨と中からの汗に悩まされる。景色も悪い、 天気も悪い登りは急だ。なんでこんなことしているの俺たち?今思えばぼちぼちそんな考 えが沸き始めた頃であった。8:05 大普賢岳 1780m 到着、今回の最高峰だ。残念ながら最高 峰からの景色はなし。次は七曜岳となる。この山に至るには 2 か所鎖場を通過する。その一 つの名前は薩摩転げ。ふざけた名前付けやがってと思ったところで急な斜度は何ら変化し ない。行くしかない。悪戦苦闘の末 10:28 七曜岳 1584m 到着。

相変わらず急な道以外の見える景色なし。少し雨が少なくなり歩 きやすくはなっているが・・。
悪天候にうんざりしながらも次の行者環岳(ぎょうじゃがえり だけ)を目指す。修験者ですら辛くて帰ってしまうというきつい 登り下りをやっつけて 11:44 行者環岳 1547m にたどり着く。

気が付 けばこの頃は雲も高くなって来ており時折遠くの山並みが見えるよう になっていた。今回残すは下りのみ。一の峠経由して奥駈道出合から 行者環岳トンネルの西口に向かって下りていく予定。一の峠の手前か らトンネル西口に下りていく道は地図には出ているものの危険な臭い のする道。やはり 1 時間 40 分余計にかかっても安全に行こうという ことで奥駈道出合を目指すも、近道の分岐まで来たところ、そこには トンネル西口に下りる道だという立派な看板が建てられていた。こんな立派な頑丈な道標 が建てられているということは当然皆がよく通る道であり心配することなかろうと皆合意 し、急遽この道を下ることとした。暫く行って判断に誤りがあったことに気づくも時すでに 遅し。ここまで来たら戻れない。進むのみ。あるような無いような道で踏み固められていな いから地滑りはするわ、急すぎて転んでしまうわ・・・。天気が悪いながらも順調に来たは ずの山行も最後に呪われてしまった。看板が立派で頑丈というだけで行こうと、またここで 軽いノリが出てしまったことになる。下ること、否滑り落ちる事約 2 時間行者環トンネル 西口 14:44 到着。先頭を歩いていた私が道に出るなり突風が。大事にかぶっていた帽子を一 瞬で吹き飛ばされてしまった。あぁ踏んだり蹴ったり飛ばされたり・・・・。
今回の歩行距離 21.5km 登り合計 1,693m 下り合計 1,478m

第 3 回目 2019.8.25-26 トンネル西口~弥山~八経ヶ岳~釈迦ケ岳~前鬼


台風などの理由で 7 月に予定していた通りには行かず、第 3 回は伸びて 8 月に。 山行を待つ間にメンバーの一人は里帰りしていたかわいい孫と遊んでいた。お盆は 14 日、 孫のために確か屋根裏にあったはずの積み木を捜しているとき、梯子がズルっ! ドン! うっ!鉄製梯子の上にモロに落ちた爺さんはそのまま暫く呼吸困難に。何とか呼吸回復し たものの胸が痛い。

お盆の最中、医者は休みではないのか・・?爺さんは 同窓生の外科医に TEL し自分の様態を説明したところ骨折だろうとの 事。近くのクリニックへ行けと言われた。電話してみたところ診察はや っているということで早速病院へ。肋骨の第 9 番が折れているとの事。 肋骨の場合これといった治療法はなくサポーターを巻く程度しかない。 あとは自然治癒。次回まであと 10 日しかないぜ。まぁ普段の生活に支障 ない程度になるなら強行や。
てな事あったものの 8 月 25 日 朝 8:30 日根野駅に全員無事集合。傷は何とか山に入る 程度には癒えたらしい。今日はトンネル西口から奥駈道出合に出て、弥山まで。弥山の山小 屋で一泊の予定。珍しく天気がいい。

やはり天気がいいだけで気分がこんなにも違うものだ。 11:00 西口登山口を出発し奥駈道復帰を目指す。12:10 奥駈道出合に着く。ここから奥駈道 再開である。13:16 弁天の森を超え、13:50 聖宝ノ宿跡到着。ここには役行者様が腰を掛け ておられる。15:00 弥山小屋到着。荷物を置きそのまま弥山山頂へ。弥 山神社鳥居の前で珍しく 4 人で記念撮影。

思えば 4 人そろった写真が意 外と少ない。撮影を頼む相手がいないこと もあるが、きっとこの四人心の中の本音で は一緒に写りたくないのであろう。
明日は大峰山系最高峰八経ヶ岳 1916m を超え仏生ケ岳、釈迦が岳から前鬼まで。 約 10 時間の旅。ゆっくり休んで明日に備えることとする。 翌朝 5:30 出発。天気のいい朝焼けを見ながら進むことしばし。5:50 には最高峰に到着し た。

近畿の最高峰にしては頂上は少し寂しい。

錫丈が1本刺してある だけで大したことはない。まぁ昇る朝日はきれ いではある。
3回目にして初めて手に入れた天気を近畿最高 峰でしばし楽しんだ後、つぎの目標 仏生ケ岳。ここから 3 時間程度の 距離のはず。八経ケ岳前後は有名な

オオヤ マレンゲの生息地である。7 月ならきれい な花をこれら群生地の中で鑑賞できたの だろうが、残念ながらこの時期はない。群生を保護すべく道沿い はフェンスに囲まれているのが、やや残念。心無い登山客がいる ということなのだろうか、自然のままで鑑賞したいものだ。

道の 反対側の草丈も背が高く、やや歩きづらい状態が続いている。明 星ケ岳を過ぎたころ、何かおかしいことに気づく。なんというこ とはないのだが雰囲気的に道を間違っていないか?いったん立 ち止まり地図、登山アプリなど確かめた上、少し戻ってみること に。ほんの数分だったと思うが戻ってみるとそこに違う方向を 指した奥駈道に標識がある。道脇の草丈は背が高かったとはいえ、まだまだ朝早く元気はつ らつの 4 人が 4 人とも見落とすという不始末。遭難とはこういうものなのか。あのまま進 んでいたらと思うとぞっとする。
相変わらずの登り下りを続けるが、やはり快適。天気の良いのはこんなにも気持ちのいい ものか。1600~1800m程度の場所だけに暑くもない。道に迷いかけぞっとしたことなど、 とうの昔に忘れ去っている。ただ上り下りがきついので思いっきり汗はかく。五鈷峰、舟ノ 垰、楊枝ノ森を抜け楊枝ケ宿小屋跡に 9:15 到着。仏生ケ岳はもう目の前だ。
仏生岳 1805m を超えさらに孔雀岳 1779m を超え、釈迦ケ岳 1780m に着いたのは 13:25 になっていた。コースタイムからすると遅れ気味である。山頂には 2 グループの何人かが いて割と賑やか。写真を撮っていただき(数多くある写真の中では貴重な 2 枚目の 4 人の写 真である)、いろんな話を聞かせて頂いた。我々が奥駈道縦走を 6 回に分けて進んでいるこ とを話すと、次回から始まる南奥駈の情報をご親切に話してくれた。

曰く、南はヒルが多いので気を付けろ。今から降りていく前鬼あたり は特に気を付けろ。蛇もいっぱいいる。笹の葉の上を大勢で泳ぐように 滑っている。等々。有難い情報であるが、これがこの後物議をかもすこ とになる。

今回、最終的に前鬼に下りていくのだが、 1300 年前、前鬼はもちろん後鬼もいた。伝説に 前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)夫婦は、生駒山地に住み、人に災いを なしていた。役小角は、彼らを不動明王の秘法で捕縛した。彼らの 5 人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを 訴えた。2 人は改心し、役小角に従う様になったと言われている。義 覚(義学)・義玄(義賢)の名はこのとき役小角が与えた名である。今回の最終地 前鬼にある お堂は、役小角と仕えた前鬼・後鬼をまつっており、伝承ではこの鬼夫婦の 5 人の子が 5 軒の宿坊を開き、その子孫が代々営んできた。幕末に残されたとされる系図の写しによる と、前鬼と後鬼を示す義覚(ぎがく)と義賢(ぎけん)に始まり、義達(ぎたつ)、義卒(ぎそ つ)、・・・『義』の字が受け継がれて来た。義覚は 195 歳、義達は 147 歳まで生きたと 伝えられている。1300 年前に開かれた道、奥駈道。まぁいろんな話があるもんだ。 14:50 太古の辻到着。ここが北と南奥駈けの境となる。一般的に奥駈道に行ったという人 は多いが、北奥駈のことが多く、南に行った人は少ない。アプローチが遠いのが最大の要因 だが、北よりさらに

水場や施設が少ない。次回からに対する不安が つのる。
太古の辻を過ぎれば下るだけ。コースタイムによれば 1 時間半。 16:30 には着けるはず。前鬼の小仲坊近くにお迎えを頼んでいるの が 16:00。少し遅刻するがやむなしか。二つ岩を過ぎたあたりから長 い整備された階段が続く。このあたりからどうも膝の調子が悪くな ってきた。階段が終わっても急な下り坂は続く。第 1 回目のことが あるので、少しペースを落としてもらったが、おかげで時間もかか る。このままではお迎えの時間には到底無理であるが、連絡しようにも電波が届かない。お 迎えの者が根気よく待っていてくれることを願いつつ必死に下りていく。だが、そうは言っ てもこのままのペースだと待ち合わせ場所には 17:00 を回ってしまうこと間違いない。連 絡がつかない不安もあるので、もうすぐ小仲坊って辺りでNとYに先に行ってもらいドラ イバーに現状を伝えてもらおうって事になり二人に先行してもらった。残るSu に付いても らい、私は負担がかからぬようマイペースで下りていく。小仲坊 17:00 通過。ここはオーナ ーはもちろんの事、宿泊する客も車止めゲートを外して車で入って来れるが、今日は無人。 ひっそりとしたものだ。現在の 61 代目オーナーは大阪在住で宿泊客ある時と土曜日は大阪 から通勤しているそうな。今日は日曜日だがもう帰られたのだろう。ここから車止めゲート までもう少しある。暫く行くと突然Yが座り込んでいる。どうした?聞けば勇んで進んだも のの古傷の膝が痛み出し痛くて・・・ってことだ。でNは? 仕方ないので先に行ってもら ったとの事。えらいこっちゃ。とんでもないことや!などと呟きながら車止めまで来ると、 今度はそこにNがポツンと座っている。おい!お前もか?ここまで来たがお迎えがいない ので、がっかりしていたとこだとか。待ち合わせ時間を大幅に遅れたので帰ってしまったの だろうか?どうすればいいのか・・・。連絡しようにも電波が届かない。仕方がないのでと りあえず全員電話を片手に電波をひらった瞬間に電話する事申し合わせ林道を歩くことと した。最悪は国道につながる前鬼口まで約 8km ある。

幸か不幸か docomo au softbank Yahoo そろい踏みだ。とは言えいくら歩いても繋 がらない。一瞬つながる瞬間はあるのだが長く続かずもどかしい。電 池も心配になってくる。Nの持っているバッテリーに電池が残ってい たのでそれに繋ぎながら歩く。途中で暗くなり全員がヘッドライトを 着用する。前鬼口までの半分くらい来ただろうか本来なら感動するは ずの不動七重滝も暗くてよく見えない。何てことだ。行けども行けど も電波は来ない。もう 19:00 廻ってるぞ。と、突然先頭を歩いていた私とYに猛然と突っ込 んでくる黒い物体。Yは大きな声を上げ手に持つストックで身構える。敵は間一髪我々の横 をかすめ走り去っていく。イノシシだ。牙があったかどうか見えなかったが激突していたら どうなっていたんだろう?後で思えばもしあの時・・していたらどうなっていたんだろうっ てのがとても多い。今日だけで 3 回目だ。 奥駈完走。軽いノリから現実に動き出した今回 の計画。軽いノリが恨めしい。
「繋がった!」うれしい悲鳴とともに電話を掛けると当然ながらドライバーに繋がった。 聞けば先週の大雨で土砂崩れがあり、前鬼口から先は通行止めとなっているとの事。とりあ えず通行止めガードが外せるのなら、進入禁止の看板無視し慎重に入れるところまで来て ほしいと要請し、さらに進んでいく。そこから 30 分も歩いたろうか?確かにブルドーザー が道をふさぐように止められており、その横の崖はえぐれている。土砂崩れの跡だ。幸いそ のブルドーザーのところまでお迎えは来てくれていた。有難い!!もう歩かなくていい。時 間は 20:00 過ぎ。朝歩き始めて 15 時間になる。呪われた奥駈道だ。 車に乗り、前鬼口の通行止めを元に戻し、横にあった自販機でジュース購入。旨いことこ の上なし。あとは帰るだけ。ん?待てよ。こんな時間 Y 君家遠いのに帰れるのか?ってこ とで下市口まで飛ばしてもらい。無事帰還できたとさ。
今回の歩行距離 20.3km 登り合計 1,522m 下り合計 2,052m
翌日、Y より膝が駄目なのでリタイヤする。幸い北奥駈完走できたし、あとは 3 人で頑張 ってくれとの LINE。ちょっと待てとの説得も聞かない。医者にも行ってきたとの事。とり あえずは 9 月の日程計画を立ててあるもののどうしたものか。 9 月になれば今度は N がリタイヤ表明。理由は『わし、蛇大嫌いやねん。』 Su が新宮に あり南奥駈けの道を整備してくれているボランティア『やまびこグループ』に問い合わせて くれそんな話聞いたことないとの情報を N に伝えても頑として『わし、蛇きらいや』。N の 曰く、2 回目の山行のあと、奥駈経験者の話を聞いた際、先達もなく、また嵐のような日に 山に登る無謀さを指摘され、その時に蛇がいて恐ろしかったという話を聞いていたという。 釈迦ケ岳山頂での情報収集の際この事を思い出し、改心する気など毛頭ない。説得むなしく いよいよ 9 月の予定が近づき、Su と二人で仕方なく行くこととした。まことに残念。完走 した暁には打ち上げには参加しろよとの命令を下し、9 月の予定日に備える。
ところが幸か不幸か、予定の日は台風で危険となり再度延期に。本当に奥駈けは手強い。 次回の行程は小仲坊で前泊し 1 日の長い工程。9 月に行けないということは 10 月。10 月で は日が短くなって無理だろうとなり、いよいよ計画は来年まで持ち越されることとなった。 軽いノリからスタートした奥駈道制覇の行。台風、骨折、蛇、膝痛いろんなものに阻まれ、 終わっているはずの時期にはまだ半分残している。しかもメンバーも半分に。計画はノリで なく慎重にすべきである。呪われた山行よ。来年こそはいい年でありますように・・・。
翌年 5 月再開までの半年の間に何が起こったか?
N と Y が、やはり復帰するという。大歓迎。Su も膝に少し不安があるとの事で E-bike に凝 り始め鍛え始めた。Y は時々蓼科あたりを歩き鍛えている。N は遠くに引っ越したものの以 前から続いている同窓生の金剛山登る会に参加。回数は減ったものの続けている。私はとい うともちろん鍛えるべく飲み続けている。 皆春の再開向けそれぞれの思いを抱きつつ・・・・・。

第 4 回目 2020.8.1-2 小仲坊~太古の辻~天狗山~涅槃岳~持経ノ宿~池原車止め


昨年 2019 年の台風などで遅れた計画も 5 月再開予定がまたまた今年のコロナ禍、長雨等がありどんど

ん遅れていくも、ようやく 1 年ぶりに再開することが出来 た。今回の初日は宿泊地に行くだけなので日根野駅集合 13:00。道中も ビールを飲みながらの観光バス気分だ。前回前鬼口まで歩かざるを得な かった林道も、今回は問題なく無事小仲坊に到着。 来る途中では救急車に追い抜かれ、車中ずっと聞こえていたサイレン。 着いてみるとそこに救急車と警官が・・?聞けば近くで沢登りをしてい たパーティーの一人が滑落して

怪我をしたとか。大したことはな かったようだがヘリまで出動したとの事。我々は、よほどここ小仲 坊には因縁があるようだ。
そもそも小仲坊とは、1300 年の間、役行者の遺言を守りつづけ、 現在 61 代目前述の鬼の子孫 五鬼助 義之氏(77 才)が守っている 前鬼にある宿坊。明治初期まで鬼の子孫たちが守る宿坊が 5 つ残っていたそうだが、現在 では唯一の宿坊。すぐ横には第 29 靡 前鬼山がある。このお堂が役行者と二匹の鬼がまつ られているお堂である。ちなみに靡(なびき)とは奥駈道の中に 75 か所ある修験者の修行の 場。
小仲坊は今では修験者はもちろんのこと登山者にも大変ありがたい宿坊である。さすが に現在のコロナ騒ぎの中宿泊者は少なく、我々以外に修験者 1 名とその奥さんのみ。五鬼 助さんに差し入れて頂いたビールを飲みながら、食事の時五鬼助さんの昔の苦労話を聞か せてもらった。今でこそ車で来ることが出来るが、思えば昔は歩いて来た訳でここに開いて いる宿坊の大変さが思い知らされる。他の 4 軒が早くに廃業し唯一残る 1 軒を守る五鬼助 義之さんはひょっとして鬼なのだろうか?だから守れるのか。そうは見えなかったが・・・。 また、同宿の行者に南奥駈の様子も情報を得た。北よりも南奥駈の方が、登り下りが大変 だ!圧倒的に南の方が大変という。我々の中では南は基本的に下るだけ。きっと楽になると 言い合っていただけに思いのギャップに身がすくむ。実際にはどうなのだろうと思いなが ら明日 1 日の行動に思いを馳せ、早くに就寝することとした。
翌朝、早い朝食をいただき、4:55 小仲坊を出発。

かつての宿坊跡の横を抜け、1 年前下り てきたきつい下りを反対に上っていく。今回は珍しくN君が朝からバテ た、バテたと騒がしい。そもそも N は何故かいつも皆より荷物が重い。 一番の体重軽量者が 1kg 強程度とは言え皆より重い。何が多いというわ けでもないのだが・・。ひょっとすると今回比較していないがいつも以上 に多いのかも。ただ思えば全員に去年のような前向きな姿勢がなく、ど こかに不安を抱えている感ある。気のせいか?
前鬼から太古の辻までの登り、途中から 853 段の整備された階段になる。前回いやな思 いをした階段だ。逆に言えば階段を整備しなければならないほどの急登ということになる。 階段が終わる頃、二つ岩を通るが、その横に役行者腰掛け石という腰を掛けるにはちょうど いい石がある。それには『 役行者腰掛け石 諸人腰駆ける事をゆるさず 和州吉野郡群山 記より』という看板が立てかけられている。役行者専用ということか?だとすれば役行者様 の度量は狭いことになる。真意はどこか?一度和州吉野郡群山記なるものを調べてみよう。 歩き始めること 2 時間半、7:37 太古の辻到着。
ようやく奥駈道に復帰。いよいよ南奥駈けの開始である。昨夜聞いた南の方がきついとの話をいやでも思い出し

てしまう。確かにアップダウンはきつい。今回の 最高峰 天狗山 1537m を超え、10:30 嫁越峠を通過。ここは、昔大峰山 すべてが女人禁制の頃、十津川村

から北山村に嫁ぐ花 嫁の為に人の通る巾 3 尺だけは女性の通行が許された 場所とされる。その名の通りだ。粋な計らいをする人はいつの世にもいる ものだ。このあと地蔵岳 1464m、涅槃岳 1376m と続く。涅槃岳到着 12:45。 ここまでくればあと 2 つ小さな山越せば下るのみである。と思いきやまた 下り鎖場出現。ええ加減にしてよと思いつつも下るしかない。お迎えのあ る池原車止めゲートに 16:15 到着する。歩くこと 11 時間という計算。

自分 で自分をほめたいというどこかで聞いたセリフがふと浮かぶ。しかし今回 は N のバテたアピールが強い。遠くに引っ越し集合場所までのアプローチ が長いのもその要因?そういえば、今回途中で小学生を連れた親子とすれ 違った。山の礼儀で、お互い『こんにちは』と言い合い、すれ違う。暫く すると小学生は我々には聞こえないと思ったのか、ボソッと一言『おじい ちゃんばっかりや』。気の優しい N としてはこれが一番応えたのかもしれ ない。肉体的+精神的バテ。否、そんなやわなNではない! ところで、今回天狗の稽古場など笹の茂る場所を通ったが蛇の姿は見なかった。釈迦ケ岳 頂上情報や N が経験者に聞いたという情報はどうなった? N の心配は杞憂であったこと が証明された。さて、まだ N は心配しているのだろうか?
今回の歩行距離 13.2km 登り合計 1,515m 下り合計 1,320m
帰りの車中、靴を脱いでいるとヒル発見。やはりいたのだ。持経ノ宿からゲートまでの林 道で少し小雨にあたったがまさに蛭の出そうな天気であった。この時か。N と Y を上市の 駅で降ろし、Su と二人で日根野に戻るまでの間、Su はヒルにやられ出血している自分の足 を発見。被害者もいたんだ。まぁ N がいないときの発見で幸いか。なんでもいいが弊社の 社用車にヒル置いていかないで。

第 5 回目 2020.8.26-27 持経の宿~行仙岳~笠捨山~地蔵岳~玉置神社

世界遺産縦走において行程的にもっとも過酷だと予想される 5 回目。奥駈踏破で初めて の無人小屋に宿泊するが、もともと奥駈縦走路には水場が少ないうえ記録的な雨の降らな い今年八月の為、やむなく全員 2 日分の水を担いでいくこととなった。一人 min 5?平均 10kg 程度を担いでいく。また初めての平日だ。週末で 4 人の予定が合わず合わせていたら どんどん遅くなるとの心配から今回は平日とした。

NとY2 人が我が家に前泊し、翌朝初日 8/26 の朝・昼飯と 2 日目の朝飯の 3 食分を、 各々コンビニで調達し 5 時全員集合して出発。池原車止めゲートに 8:40 到 着。思いのほか早くつけた。林道を歩いて持経の宿に到着 10:07、ようやく 奥駈道に復帰する。『持経千年檜』の横を抜け、途中転法輪岳、倶利伽羅岳を 超え初日の最高峰行仙岳 1228m へ。雨が少しあったものの時々日がさす程 度に回復、順調に進む。相変わらず登り下りはきついものの距離が短く、そ れだけ北奥駈に比べると山が小さくなってきたのかも。15:30 無事に行仙の宿山小屋に到着。 少し休憩したあと早速夕食の準備にかかる。メニューはレトルトカレーと味噌汁のみ。レト ルトを温めた湯で味噌汁を作り少しの水も無駄にできない。夕食時に水の制限をしたのは 私も初めての体験。いかに水が大切か身に染みる。

翌 8/27 早朝 4:00 に起き、朝焼けを見ながら 5:04 出発。いきなり今回 の最高峰 笠捨山 1533mへの急登が待っていた。十津川村の言い伝えとし て西行法師が余りの寂しさ(或いは登りの苦しさ)に笠を捨てたとか言っ た話があるそうな。
登り切ったかと思えばまたまた急な下りが続く。次目指すは地蔵岳。途 中槍ヶ岳を通過し最後は這うようにして登り詰めたところが 1250m 地蔵 岳 8:12 着。ここを超えるとすぐ待っていたのが今回のクライマックス 6m超の急登直下の 鎖場。事前調査ではかなりきつそうで 2 本の鎖がついており、細い方はザックを下すが為 の専用鎖だとか。実際に覗いてみると確かに怖いもののこれならと全員ザック担いだまま 挑戦し無地全員クリアできた。鎖場も大変ながら本当のクライマックスはここからだった。 ここからは一気に 700m の下り。

斜度もきつく膝に応える。下っても下っても谷底の蜘蛛の 口 662m には届かない。途中うしろでYが叫ぶ。『Nよ。いたぞ! 蛇が。』道脇を通って逃げる蛇を見たそうな。いるんだ。Nは無視 を決め込む。自分の目で見ていないので、心の中では震えながら も、嘘を言って怖がらせているんだと決め込むことにしたらしい。 ようやく蜘蛛の口にたどり着くこと 12:05。 今度はここから玉 置山までひたすら 300mの登りになる。斜度が緩いのがありがたいものの体力も限界に近付 いている。とは言え今日の目的地が確実に近づいている。想定時間か

らしてほぼ正確に、どちらかと言えば少し早めに到着している。いい歩行ペー スということだ。
『発見!』先頭を歩く私がNに対して叫ぶ。蛇がいた。ちょうど枯れ枝 程度の太さで、さほど大きくはないが、動いていなければ枯れ枝と見間違 ったであろう。『それは枯れ枝や。』Nは自分が見ていないことをいい事 に、しきりに自分に言い聞かせているようだ。
歩き始めてもうすぐ 10 時間。N曰く私の体力 10 時間説があり、毎回 10 時間あたりでバ テているとの節。思い当たるふしがないでもない。玉置神社に近づくほどに時々車道に出会 い、並行して歩くことが多くなった。玉置神社が近い証拠である。玉置山展望台の近くに世 界遺産の大きな石碑があり目的地は目の前。玉置山山頂 1076m を過ぎると一気に神社へ下 る。これがまたきつく体力 10 時間説を証明する結果となった。ふらふらになりながらついに 15:30 玉置神社

到着。苔むす由緒ある神社に参拝したあと、樹齢 3000 年、幹周 8.3mの神代杉とその隣にある夫婦杉も拝観し、お迎 えの待つ駐車場へと向かう。駐車場故 すぐそこかと思いきやこれまた階段状 の道を登っていくもなかなか着かな い。思えばここはまだ奥駈道の真っただ中だ。まさにフラフラ になって駐車場到着。

簡単に着替えてドライバーに買ってきて もらったビールを一気に!うまい!!
ところでこの玉置神社。日本最強のパワースポットともいわれている神社。熊野三山の奥 の院で創建紀元前 37 年とされ、重要文化財、天然記念物の宝庫である。玉置神社はとても 神聖な神社であることから、神様に呼ばれないと行くことが出来ない神社とも言われてい るそうな。ここを訪れる人はまるで神様に呼ばれたように自然にたどり着けるが、そうでな い人は何故か途中でトラブルが起き、たどり着けないんだそうな。特に多いトラブルは車の 関係で故障や落石による通行止めなど偶然に起こるのを疑いたくなることが多いという。 また神に呼ばれ参拝できたあと、霧に包まれることも多いという。なんとも神秘的なところ であり、見るからに不思議なパワーを感じさせるたたずみである。 今回 Su は、私がお迎えの車でビールを頂戴しているとき、少し遅れてやってきたが確か 御朱印をもらったはず。信心深いことでいいことだ。ところで我々4 人、本当に神様に呼ば れたのだろうか?玉置山から神社に下りる急こう配の坂道で急に辛くなったのはあれは神 との格闘?私は神に勝ったのか!
今回の歩行距離 26.7km 登り合計 3,162m 下り合計 2,943m

第 6 回 奥駈 Final 2020.9.12-14 玉置神社~大森山~大黒天神岳~七越峰~熊野本宮


いよいよ最終回である。思えば 1 回目から数えて 1 年と 4 か月。台風、大雨、メンバー の一時的脱落と復帰、新型コロナ、7 月の長雨、8 月の酷暑。いろんなことを乗り越えてや ってきた Final だ。感慨深いものがある。軽いノリからスタートし、思いのほかというより 想像を絶する山並みの厳しさと、言うに言われぬ不安感との戦い。そう言えば戦いと言えば 前回、神とまで戦い、勝ち抜いてやってきた Final。今回は標高差 1000m をひたすら下り、 最後の最後は靴を脱いで熊野川を渡渉すればそこはゴールの熊野本宮だ。辛かろうが膝が 笑おうがワクワク感はこれまで以上だ。
今回我々の奥駈は逆峰(ぎゃくぶ)と言って吉野から熊野に向かう方を選んでいる。当然な がらこの逆は順峰(じゅんぶ)という。
荒行(あらぎょう)とは、死を覚悟して肉体を苦しめることにより、過去、現在の一切の罪 と穢れを滅ぼしたり、浄めたりすることである。そうすることで精神も肉体も強靭になり神 や仏に近づくと信じられた。何日も山に籠もり山越えをしながら修行することを抖?行(と そうぎょう)という。中世、鎌倉時代・南北朝時代には大峰山系での抖?が活発に行われる ようになり、抖?や峰中での修行や行事の次第の整理が進んだとされる。大峰では順峰 100 日、逆峰 75 日とされ、順峰の場合、吹越宿に 27 日、水飲宿に 14 日、深仙に 17 日留まる ものとされ、一方の逆峰は小笹に 27 日、脇宿に 17 日、深仙に 17 日留まるものとされたそ うだ。又、抖?行の先達はその役割によって大先達、宿、閼伽、小木、採灯の五先達から成 っており、大先達は抖?全体を総括し、宿の先達は宿の設営、閼伽の先達は閼伽の作法、小 木の先達は小木作法、採灯の先達は護摩を各々取り仕切ったそうな。なんのことやらさっぱ り分からんが、修行が大変そうなのは伝わってくる。
ともあれ我々は逆峰を 75 日でなく、6 回に分けたものの実質 8 日間で終えることになり そうだ。今回は玉置神社近くの温泉に前泊し、翌日 1 日かけて奥駈 Final を制覇、その後は これまた近くの温泉でそのまま打ち上げパーティーをやろうとの魂胆。両日とも泊りは、

世 の中賛否両論の Go To キャンペーンを利用。3 密予防にも気を使う。 今日は移動だけ。日根野駅に 13:30 集合し出発。泊りは十津川温泉。3 時 間程度のドライブだ。熊野川渡渉に使うサンダルをつっかけ、Tシャツ 1枚というラフな格好で出発。温泉の手前で有名な谷瀬の吊り橋を見て 宿に入る。荷物をおろす時、一人の男がポツンと『靴

がな い』とつぶやいた。登山に登山靴持ってこないとは何事だと なったものの、どうしようもない。幸い履いてきたサンダル はつま先、足首、かかとを締め付ける方式のものであり何とかならないかと相 談しているところにNがこれどうや?と予備靴を出してきた。どうしてこんなの持ってる の?だから荷物が重くなるのでは?などと口が裂けても言えず有難く調べてみたところ、 一応靴底は Vibram 底で、ある意味最低限登山用ではある。明日の熊野川渡渉用にと持って きていたらしい。これなら何とかなるだろうと安易な決断をし、明日を迎えることとした。 翌 13 日 5:15 にタクシーを呼び玉置神社へ、最後の奥駈道への復帰である。いよいよ最 後の 1 日が始まる。玉置神社駐車場に降り立つこと 5:45。Final だというのに天気の方は最 悪だ。出発準備をしている間も轟く雷鳴。なんとも最後の最後まで天気に悩まされる。意を 決して 5:49 出発。まずは大森山を目指す。急とは言わないまでもいきなり登りが続く。雷 鳴に背を押され、雨に前を塞がれボトボトになりながら歩く。少しづつ雷も遠くなっている ような気がする。遠ざかれば雨もあがってくれるだろうと期待しつつ歩くも思うようには いかない。なんとか大森山に近づくにつれ雨も小降りになり少しは歩きやすくなってきた。 8:08 大森山 1078m到着。景色もなければ感激もない。休憩することなく通過すると、即と んでもない急こう配の下りがはじまった。

地図に危険マークのつい ている場所だ。滑落防止にロープも垂らしてくれている。雨でぬか るんだ道はとても滑りやすく、大なり小なり全員が滑りまくる。予 備靴を履いて挑んでいる者も何とかこなせている。靴が保つのか心 配ではあるが・・。
やや急な上り下りを繰り返しながら 10:06 五大尊岳 825m を過ぎ、さらに下ったあたり ではもう雨もあがっていた。六道ノ辻を過ぎ、第 6 靡 金剛多和ノ宿跡に 11:52 大黒天神岳 を超え第 5 靡の大黒岳 12:14 。この頃はまだ全員元気で、あとはいくつか小さなピークを 超えるものの思った以上にスイスイと来れたので、もう気持は楽勝ムード。天気の方も時々 薄日が差す程度にまで回復している。残すは・・山・・岳と呼ばれるものはなく、山在峠、 吹越峠、七越峰といったところ。
14:46 吹越峠を越えるあたりから下界の姿が見え隠れし始め明らかに終点が近いこと を知る。が、逆にこれまでのボディーブローが効きはじめ急激に体力が奪われていくのが実 感できる。

足も震えている。14:59 七越峰の手前で目的地の 熊野本宮の大斎原の大鳥居が見える展望台到着。目的地を 目の前にするのだから、気分は晴れる。体は疲れていても あそこまで行くだけだから頑張れる。疲れた体に元気が注 入されるのが感じられた。標高もこの頃はすでに 250m程 度まで下りてきているはずだ。頑張れ!あと 1 時間。
後は下るのみと勇気を出して進むと、なぜかきつい登り が・・。これが最後だろうと思って下っていくとまた登りが・・。嘘でしょ、目の前にゴー ルが見えていたのに、あれは夢だったのか?今度こそと登って降りたらまた登りが・・。さ すがは奥駈道、最後の最後まで苦しめてくれる。展望台で注入されたのは空元気であったこ とに気づく。ホントの最後の最後の下りも、とても急な下り。太腿もふくらはぎもパンパン に張っている者には辛すぎる下りだ。まさにフラフラになって大斎原の対岸にたどり着く こと 16:29。そして来てみてがっくり。川には流れの早い濁流が・・。とても渡渉などでき る状態ではない。
吉野から熊野に向かう逆峰のスタートは近鉄吉野線六田駅近くの第 75 靡吉野川渡渉地 点であり、そしてゴール前の第一靡はここ熊野川の渡渉である。修行を終えた行者は本宮大 社にお参りする前に冷たい水で身と心を清める水垢離(みずごり)をするという。なのに渡 れない。どうすればいいの?しかも最終ゴールの熊野本宮は 17:00 に閉門。間に合うはずが ない。4 人はまさに河原に崩れ落ちた。思えば、第1回目のスタート 2019.5.18 から数え 486 日をかけ、山中 6 泊、温泉 2 泊の 8 泊 13 日間で、奥駈道に限れば 8 日間を歩いた訳だが最 後の最後、しかも残り 1 km で!
山では撤退する勇気も必要だと言われる。頂上を目前にして引く勇気は、とてつもなく辛 いものがあり、もう少しだからと無理すれば遭難に繋がるってやつだ。我々のはそんな格好 のいいものではない。ただ疲れて遅れて間に合わないだけ。今回は最終1km を明日に回す ことにし、お迎えの車を呼び湯の峰温泉に向かった。 夜は打ち上げのはずを打ち上げの練習に切り替え、疲れを癒す。よほど疲れていたのだろ う、全員 21:00 過ぎには寝入ってしまった。開湯 1800 年という日本最古の温泉に来てゆと りがない。

翌日 8:07 昨日の断念場所の対岸に復帰。幸い小さな支流があり、たった 巾 3m ながら渡渉もできた。大斎原を抜け、熊野本宮で正真正銘のゴールを したのが 8:44。奥駈道完走8日間と 37 分の大偉業達成の瞬間である。霊験 厳かな熊野本宮大社の神前で、皆で記念写真を撮り、達成(行者の皆さんは 萬行と呼ぶ)の喜びを皆でかみしめ分かち合った。
今回の歩行距離 18.7km 登り合計 1,251m 下り合計 2,123m
歩行水平距離合計 122.6km 登り合計 11,156m、 下り合計 11,757m 最高標高 1916m 最低標高 51m、老体に鞭打つ荒行は終わった。残るは強い満足感とほんの少しの疲労感。

熊野本宮大社は、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・ 熊野那智大社)の中心、全国に 3000 社以上ある熊野神社の総 本宮である。熊野の神々は自然信仰に根ざしているが、奈良 ~平安時代にかけて熊野は仏教・密教・修験道の聖地ともな り、神=仏であるという考え方が広まったという。平安時代 の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族がお参 りするようになったらしい。浄土へお参りし、帰ってくるということは、死と再生を意味す る。そのため熊野三山は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めてい るんだそうな。

熊野本宮全体パワー スポットとされるが、もっともパワ ーのあるのが大斎原(おおゆのは ら)と言われている。ここは神話に も載っているそうだが、もともと今 の大斎原の地の「いちいの木」に、 3つの三日月がみえ、神様からのお 告げにより、熊野本宮大社が建てら れたのだと言われている。
(写真撮影が禁止なので、http://www.hongutaisha.jp/より引用)
なので、神様が降臨された場所といえる訳である。いにしえ平安、鎌倉の人々はこの大斎 原を目指して、熊野へ詣でたそうで、その熊野とはここの事を言う。今の熊野本宮大社は、 明治 24 年の洪水災害の後に移設された場所である。我々はここ熊野本宮大社を逆峰の最後 とし、当然パワーを戴いてきた。
待てよ。一度はこちらが戦いに勝ったはずの相手=神にいただくパワーって何だ。すでに 貰ってしまったが、貰ったという事はひょっとして人間に戻ってしまったのではないのだ ろうか? ただの飲んべぇに。この 1 年半の修行はどこへ行った??(文責 笹野)

三丘同窓会 第三回篆刻教室に参加して 松野正淳(旧3-3)

昨日、令和4年2月5日(土) に、三丘会館で開催された第三回篆刻教室に松野が参加してまいりました。
講師の真鍋井蛙(あせい)先生は、長くわれわれ三国丘高校の書道教員を務められ、また日展で特選をとられるなど、現在もこの分野の第一人者として活躍しておられる篆刻家です。(同窓会サイトご参照)

私はど素人ながらに、以前から何故かこうした侘びた世界に興味があって、篆刻の真似ごとなどもしていましたので、頑張って参加してまいりました。真鍋先生は、ちょっと馴染みのない篆刻という伝統的なものをより私たちの身近なものにするために、字を簡単に左右逆転させて石に写す方法を考案し、普及に努めてこられました。昨日もこの方法で指導され、私も一字を彫ることが出来ました。たった500円の参加料で、篆刻用の石も付いていて篆刻刀も貸して貰えました。また、講座の終了後、全くの自己流で彫ってきたこれまでの私の印を、恥を忍んで思い切ってお見せしたところ、丁寧に見て下さり励ましの言葉も頂いてとても嬉しく思いました。
コロナ禍ということもあって参加者は約20名程度で、たぶん24期の方は居られなかったように思います。( 来られていたら誠に申し訳ありません。)ハガキや色紙などに好みの言葉や絵を描いて、自分で彫った姓名や雅号の印を押してみると、意外と様(さま)になるものです。この篆刻教室は今後も定期的に開催されるようですので、興味をお持ちの方は是非参加されてはいかがでしょうか。

イスラム文化・美術展覧会の開催について 平尾浩平(旧3-3)

三国丘高校 24 期生の皆様へ
ご無沙汰しております。元 3年 3 組の平尾です。
私は住友商事役員退任後、マレーシアの財閥オーナーの招聘を受け勤務していますが、同財閥の保有・運営するイスラム美術館(Islamic Arts Museum Malaysia/IAMM)が、東京国立博物館と協働で本年 7 月より「イスラム文化・美術展覧会」を東博東洋館で開催していますので、そのご紹介をさせて頂きます(来年 2/20 迄。添付ポスターを参照下さい)。
本展覧会は、1300 年、14 代の王朝に亘る時間軸とユーラシア大陸全土(スペイン~中国)の地域軸から、一国に偏らないIslamic World の歴史・文化・美術を紹介する日本では初めての企画で、東博も相当気合いを入れて 7.5 ケ月と言う東博最長の展示開館(通常は max 2-3 ケ月)で開催しています。
14 代王朝には内山先生の歴史で学んだペルシャ・サファビー朝/チムール帝国/ムガール帝国/オスマン帝国等の懐かしい名前が目白押しで、展示品目も陶器・磁器・宝石・剣・細密画・天文/医療関係器具等の多彩な 205 品目となっています。
IAMM は、開館後 23 年経つ民間美術館ですが、世界各国の博物館・美術館と幅広い交流を行っており、大英博物館には 2018/9 から Albukhary Foundation Islamic World Gallery を開いています。
幸い東京の緊急事態宣言にも関わらず、開催後 3 ケ月で5 万人超の皆さんに鑑賞頂いています(東博は予約システムで期間中も開館していました)。
私もビジネスは 40 年以上やって来ましたが、斯様な文化関連ワークは始めてで、両館の coordination には苦労しましたが、コロナ禍にも関わらず予定通りの開催が実現出来てほっとしています。
見応えのある展覧会で、まだ 4 ケ月も展示期間がありますので、東京にお越しの折は是非足を伸ばして頂ければ幸甚です。別冊太陽の WEB にも本展覧会の記事が掲載されていましたので、ご参考迄に下記します。 https://webtaiyo.com/artnews/1691/
コロナ禍の感染者が減少傾向にあり、このまま収束に向かい又普通の生活に早く戻れる事を祈念しております。
イスラム文化・美術展