9 齧缺と王倪1 (1)知と不知       

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齧缺(げきけつ)は王倪(おうげい)に尋ねて言った。
「師は、物を同等に正しいとするところを知っているのですか。」
言った。「私がどうしてそんなことを知っていようか。」
「師は、自分が知らないというところを知っているのですか。」
言った。「私がどうしてそんなことを知っていようか。」
「ということはつまり、物は知りようがないということでしょうか。」
言った。「私がどうしてそんなことを知っていようか。
とはいうものの、あえて試みとしてこう言ってみよう。
私が、〈知っている〉と謂うところが、〈知らないことではない〉ということに
なるのかどうか、はてさて知ることができるだろうか。
私が、〈知らない〉と謂うところが、〈知っていることではない〉ということに
なるのかどうか、はてさて知ることができるだろうか。
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齧缺(げきけつ)は王倪(おうげい)に尋ねて言った。
【齧缺 問乎王倪曰】

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(知を求めてかじりつき、えぐる)齧缺のような性分なら、
自分が知りたいことを「知っている人」さえいれば、
その人から「正解」を「教えてもらう」ことができ、
あとは、自分の理解力をもってして、簡単にすばやく
「知」を得られるものだと考えていたのかもしれません。

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「師は、物を同等に正しいとするところを知っているのですか。」
言った。「私がどうしてそんなことを知っていようか。」
「師は、自分が知らないというところを知っているのですか。」
言った。「私がどうしてそんなことを知っていようか。」
「ということはつまり、物は知りようがないということでしょうか。」
言った。「私がどうしてそんなことを知っていようか。
【子知物之所同是乎 曰 吾悪乎知之 
子知子之所不知邪 曰 吾悪乎知之 
然則物無知邪   曰 吾悪乎知之】

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齧缺の「知的探究心」は、とても旺盛なようです。
「はやく知りたい! もっと知りたい! 正しく知りたい!」と。

「物は同等にどれも正しい」
「自分が知らないところを知る」
「物は知りようがない」・・・

これらは「道」を語る上でのキーワードだと、
齧缺は、どこからか既にかじり取って、小耳に挟んでいたのでしょう。

私達は誰もが、疑問に対しては「YES」か「NO」か、はっきりさせたいものです。
ところが、師の王倪の応対は、なんとも シブイものです!
ただただ「どうして知っていようか」と言うだけ‥なのですから。

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「・・・とはいうものの、あえて試みとしてこう言ってみよう。
私が、〈知っている〉と謂うところが、〈知らないことではない〉ということに
なるのかどうか、はてさて知ることができるだろうか。
私が、〈知らない〉と謂うところが、〈知っていることではない〉ということに
なるのかどうか、はてさて知ることができるだろうか。
【雖然嘗試言之 庸?知吾所謂知之非不知邪 庸?知吾所謂不知之非不知邪】

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師なるものの対応は、ともすれば「何も答えていない」かのようで、
その実、「答えず」してまさに「応えている」ともいえるのかもしれませんね。

「知る」ということは、いったい・・・???
「知っている」とか「知らない」とか、口に出して言えることと、
師の示す「知」とは、違うところを指しているかのようです。

「答え」を「教えてもらう」ことが、必ずしも「知る」ことではない‥
定義の定まらない言葉の虚しさを感じつつも、言葉を重ねる師の思いの先に、
確実な何か、根本的に違う何かが、存在しているような・・・

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『荘子』大宗師(大いなる「宗/中心」を師とする)編より

    ○ 。゜:  ○ o ゜O

天の為す所を知り、人の為す所を知る者は、至る。
天の為す所を知るとは、天のままにして生きることだ。
人の為す所を知るとは、その「知れる所」を知ることによって、
それをもって、その「知れない所を知る」ことを「養う」ことだ。
・・・
それには、「待つところがあり、しかる後に当る」ということを知ることだ。
その待つところとは、「未だこれといってはっきり定まらないもの」なのだが。
・・・
「真人」があって、しかる後に「真知」がある。

                   。゜ ○ o

「知識」や「智恵」・・・
「知る」ことに「言葉」がどれだけ関与できるものでしょうか・・・
同じ「言葉」にしても、使う人によって、「質」が変わるとしたら・・・