兵庫県石子路之会の足跡(1975〜2002年)
「サイクリングを通じて日中交流を!」という「石子路之会(いしころのかい)」の運動が始まったのは、1975年(昭和50年)の今から26年前のことであった。
当時の中国は、観光旅行もなかなか自由には出来ない時代で、外国人には「開放都市」内でも制限があり、その都市間の移動はもちろん一切許可されていなかった。
その後、1980年に外国人として初めて「石子路之会」が中国内のサイクリングの許可を得た。この時、参加したのは「尼崎市青年サイクリング友好訪中団」(帰国後、「石子路の会」と名付ける)の青年達20人。走ったのは南京〜揚州と無錫〜蘇州間の約170キロだった。
次 | 年度 | 区 間 | 人員 | km |
1 | 1983 | 済南〜南京 | 9 | 1,000 |
2 | 1984 | ![]() |
25 | 580 |
3 | 1985 | 上海〜南京 | 32 | 605 |
4 | 1986 | 大連〜天津 | 34 | 1,100 |
5 | 1987 | ハルビン〜上海 | 10 | 3,065 |
6 | 1988 | 呼和浩特周回 | 27 | 430 |
7 | 1989 | (呼和浩特〜包頭)中止 | 36 | 550 |
台湾 | 6 | 300 | ||
8 | 1990 | 鳥魯木斉〜哈密 | 38 | 630 |
9 | 1991 | 喀什〜阿克蘇 | 33 | 530 |
10 | 1992 | 喀什〜西安 | 9 | 4,005 |
蘭州〜西安 | 42 | 680 | ||
11 | 1993 | 呼和浩特〜天津 | 61 | 1,005 |
12 | 1994 | 日喀則〜拉薩 | 43 | 280 |
13 | 1995 | 長春〜大連 | 41 | 805 |
14 | 1996 | 黄山〜無錫 | 54 | 575 |
15 | 1997 | 長沙〜香港 | 46 | 720 |
16 | 1998 | 貴州〜麗江 | 42 | 730 |
17 | 1999 | 成都〜武漢 | 40 | 855 |
18 | 2000 | 厦門〜福州 | 9 | 310 |
19 | 2000 | 青海湖〜敦煌 | 52 | 650 |
20 | 2001 | 桂林〜海南島 | 29 | 660 |
21 | 2002 | 少林寺〜北京 | 60 | 533 |
神戸(日本)〜北京 | 11 | 2,360 |
当初は、ほんの点で過ぎなかったサイクリングが省越えを含む線となり、本格的なものになったのは、1983年の済南(黄河)から南京(揚子江)までの1,000キロのサイクリングであった。この時、私達は初めて「神戸石子路之会」として参加し、後の中国大陸縦断・横断サイクリング「ツール・ド・中国」に結びついていったのである。
翌84年からは、「神戸石子路之会」独自で毎年訪中団を組織し、夏に中国大陸を自らの足で走り、いろいろな形での友好交流を持とうということになった。この年からバス移動はなくなり、全行程を自分達の足で走ることが許可された。
やがて「明石石子路之会」もこれに加わり、会の名前も「兵庫県石子路之会」となった。参加者も東は北海道から西は広島まで広がって、第20次訪中団(2001年)までの参加者は723名、走破距離も19,390キロに至った。
兵庫県知事、神戸・明石両市長の親書を携えて、姉妹都市である天津や無錫などを表敬訪問したり、人民公社の農家では文字どおり寝食を共にして農作業などもした。
また、幼稚園を訪問した時には、兵庫県立明石南高校家庭科クラブの生徒達が作った手作り絵本を中国語に翻訳しプレゼントしたり、園児に遊戯「アブラハム」などを教えたり、幼稚園や小・中・高校生の習字や絵画の作品を交換し、帰国後、それぞれ団員の学校・職場などで作品展を開いたりもした。
1987年には、中国大陸の一番北の黒竜江省の省都ハルビンから7省1直轄市を経由して上海までの3,000キロを、兵庫県石子路之会の選抜隊10名が一気に走り抜き、中国大陸海岸線の実質的『開放』を得た。そして旅行記「ツール・ド・中国」(神戸新聞出版センター発行)を出版し、「石子路之会」の運動を内外に定着させていった。
さらに、1988年には、これまでの実績が認められ、外国人として初めて内陸地である呼和浩特(内蒙古の省都)のサイクリングが認められ、大草原地帯430キロを完走した。また、90年にはシルクロードのゴビ砂漠を、91年には同じくシルクロードのタクラマカン砂漠を走破。92年には、世界で初めて中国内のシルクロードの最西端、喀什から西安まで4,000キロを1日200キロで走り抜き、シルクロードを完全走破した。また、その記録の旅行記「シルクロードは熱風怒涛」(マカ゛シ゛ンハウス社発行)を出版した。94年には世界の屋根=高度4,000メートルのチベットサイクリングを高山病と闘いながら成功させ、戦後50年という節目に当たる95年は、未曾有の阪神大震災を乗り越え平和銀輪隊特別使節団を派遣した。「2度と戦争を引き起こさない」という決意のもと旧満州の各地で平和交流を進めた。そして、97年には、香港返還記念として『長沙〜香港』をサイクリングで完走した。
1983年から実現した「石子路之会」の訪中団は、自らの手でサイクリングコースを開拓し、自らの足で中国大陸を駆け巡った。サイクリング交流は点から線に伸びると同時に、各地でいろいろな草の根の交流を通して、その輪は線から面に広がっている。第5次で中国大陸の南北縦断3,000キロ、第10次で東西に大陸横断4,000キロの完全完走を成し遂げた。結果的に、中国の未開放地区の特別許可を得て走行した過去20回の「石子路之会」の訪中サイクリングが、実質的中国全土開放に向けて大きく貢献していることと確信する。
日中国交正常化30周年にあたる2002年は、石子路之会にとって訪中開始から20年目(21回の訪中サイクリング)に当たり、中国全土の23省5自治区4直轄市を自転車により完全走破する記念すべき年になる。人民政府から初めて外国人サイクリングの許可を取るまでの準備期間を含めて、石子路之会27年間の集大成として、日中国交正常化30周年記念行事の一環として河南省の少林寺〜洛陽〜鄭州、そして天津〜北京の533キロを走破した。そして、北京郊外で東アジア自転車隊(石子路選抜隊=神戸〜下関、釜山〜ソウル、大連〜北京の2360キロ走破)と合流し、サイクリングによる『中国全土開放』達成の北京ゴールを迎えることができた。
私達、市民団体である石子路之会により、27年間の草の根交流として、サイクリングを通じて『日中交流』、『中国全土開放』が達成されることを大いに誇りに思うと同時に、結果的に石子路之会の運動が、アジアの平和友好交流に寄与することを強く祈念する。
最後に、未開放地区の走行特別許可という英断をしていただいいた中国各省人民政府、ご協力いただいた日本の各自治体、並びに陰から応援してくださった関係各諸団体に、ここに深く敬意を払いお礼を申し上げます。