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 クリード・テイラーは1929年5月13日、ヴァージニア州のリンチバーグに生まれデューク大学で 心理学を専攻し、またマーチング・バンドと大学のダンス・バンドでトランペットを吹いていた。 1954年、彼はベツレヘム・レコードに入社し、あの著名なインパルス・レーベルを始めた。 1960年12月、ノーマン・グランツがMGMにヴァーヴを売却したあと、1962年、テイラーはその後 任のプロデューサに就いた。(1961年という記述もみられる) 1967年、A&Mに移籍し、3年後には独立し自身のプロデュースにとりかかった。 CTIを始めて10年半の間に、クリード・テイラーは配慮と責任をかね添えた彼の技術に見合う実 に意義深いジャズ・アルバムをプロデュースするにあたり責任を負うことになった。 形式ばらないジャズ・セッションよりむしろ、コンセプト・アルバムをとりあげて音楽的インスピ レーションからプロモーションと市場の効果を通じて創作的な制作を追求した。 彼はベツレヘムと共に "KAI & J.J." のアルバム(1954年)をプロデュースし、そしてABCパラマ ウントとの初期の印象的な功績は "Lambert, Hendricks & Ross" のプロダクションだった。 《Sing A Song Of Basie》で4分の1インチ、モノラル・テープで30ものオーヴァー・ダビングが されたものだった。 テイラーは「私達は完成したんだ」と思い起こすように、「音楽的に素晴らしく興味深いもの・・ であり、また非難の的になるものだった」と言う。 ABCパラマウントでの6年間の名声に対するテイラー自身の不満のおもは、インパルス・レーベ ルの設立と《Out Of The Cool》と《Into The Hot》 のようなクラシック・アルバムのプロデュー スに携わったことだった。他にもオリヴァー・ネルソンの《Blues And The Abstract Truth》や、 レイ・チャールズの《Genius + Soul = Jazz》がある。 ヴァーヴとの5年間での彼のトラック・レコードは、より印象的なものだった。 彼にはとりわけ有益なスタン・ゲッツやビル・エヴァンスとの交流で、それをよく理解できるリス トでありまた大成功を収めたアルバムは次のとおりである。 1961年《Getz's Focus》、1962年歴代の中でよく売れたチャーリー・バードとの《Jazz Samba》、 1964年ミリオン・セラーでありグラミー賞を獲得したアストラッド・ジルベルトとの《Getz Au Go Go》と、1967年優秀な《Sweet Rain》である。 ビル・エヴァンスの方は、1963年グラミー賞を獲得した《Conversations With Myself》、《Bill Evans With Symphony Orchestra》 そして1965年《Trio '65》と、1966年ジム・ホールとの《Int- ermodulation》である。 そして勿論そこにはウェス・モンゴメリとのセッションがあったし、1966年とりわけ注目のアルバ ムとしてジョニィ・ホッジスとアール・ハインズとの《Stride Right》などはテイラーのお気に入 りの一枚だった。 1967年にA&Mに移籍したテイラーはウェス・モンゴメリとの交流を続けた。 そしてアントニオ・カルロス・ジョビンとアストラッド・ジルベルトのアルバムもプロデュースし たが、今になって思うと、彼は "筋金入り" のジャズと1970年に新しい方向性を追求するため、彼 に全くの自由を与えてしまった彼自身のレーベルから逃げ出したかったようである。 彼はエミール・デオダート、ボブ・ジェイムス、そして後にドン・セベスキーをアレンジャーとし て採用した人物は、自ら精選して優秀な互換性のあるミュージシャンでもあり、新しいアルバムご とに細部まで綿密なものを計画できた。 そして彼はヒューバート・ローズ、ジョージ・ベンソン、スタンレイ・タレンタイン、グローヴァ ー・ワシントン・Jr、そしてエスサー・フィリップス等を勢力範囲に加えたことで、テイラーに大 きな報酬をもたらし、こんにち、CTIとKUDUは 150ものアルバムのカタログをコンバインし たものを持っている。 ウェス・モンゴメリがヴァーヴとA&Mのレコーディングを通して実際に稼ぎはじめたとき、彼は 「人は全てのケースにおいて、好まない音楽にはどんな場合でも聴こうとはしないんだよ」、とい ったことによりジャズを "裏切った" という非難の声に応えた。 このことにより私とテイラーの会話がウェスのレコードについて格好のテーマをもたらした。 テイラーは頭がよくて穏やかで柔らかな口調で話しをする実に歯切れのよい男であり、質問の受答 えはよく考慮され決してうわべだけのくち達者ではなかった。 「かって私は《ゴーイン・アウト・オブ・マイ・ヘッド》のレコーディングでウェスに対しての悩 みを解消したんです。 それからはウェスも楽しんでいたようだが、オリヴァー・ネルソンが彼にレコーディングするよう 説得したわけで、こういった観点からするととてもうまく運んだように思えたね。 オリヴァーはテーマ曲をピアノで録り、ウェスのロード先へそのテープを送り続け、ウェスは仕事 の合間に練習を重ね、レコーディングのためスタジオに戻っていたようだ。 彼は楽譜が読めないことにとても強いコンプレックスを持っていたが天才ミュージシャンですね。 私はリヴァーサイドでの彼のレコーディングは控えめにいっても荒削りで締まりのないプロデュー スではなかったかと思うんです。 彼のプロデュースはただミュージシャンを集め、ミュージシャンはただリズム・セクションをこな すだけで、ここでの長ったらしいソロのジャム・セッション・アルバムの欠点をいうと、聴く人の 耳に届いていおらず決してラジオ放送にもならない曲であることを認識せねばならない。 アメリカではラジオ局がレコード・セールスに貢献していますからね。 それでウェスを聴いていただくには、一般的に受け入られるよう解り易くレコーディングしなけれ ばならないと決断したんです。 特にウェスとストリングスという関係に拘ったわけではないが、それがより多くの人々に彼を知っ てもらう手段となったわけです。 もし、ウェスが今もリヴァーサイドでレコーディングしていたなら、恐らくストリングスはタブー になっていたでしょう。 我々は単に耳障りのよいストリングスでホットなジャズ・レコードをプロデュースしただけで、聴 衆がそれを受け入れてくれたということなんです。 察するに、現在レコードを買うファンは一般な音楽の教育を受けよく知っている人達ですが、クロ スオーヴァーの本来の目的はより多くのオーディエンスに広めることができる要素をジャズ・レコ ーディングするということだった。 しかし、それも必要でないように思う、というのはレコードを買うファンの好みは今や大学生や同 じ年代の若い人が、ステーリィ・ダンやウェザー・リポート、そしてあのフレディ・ハバード (彼 はクロスオーヴァーの試みが失敗に終わった事に全く関係していない) など取捨選択できる。 問題は、素人がクロスオーヴァー活動を演りつつあることで多くのジャズ・プレイアーが不自然な 環境に押し込められようとしていることである。 もし、ウェザー・リポートとチック・コリアがクロスオーヴァー・アーティストとして評価される なら、当然彼等も文字通りクロスオーヴァー音楽として認められるものである。 しかし一方では、例えばCBSが抱えているような莫大な音源をクロスオーヴァーの域としてプロ デュースしたならば、たいへん不快なものであり所詮失敗は見えている」。