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《カリフォルニア・ドゥリーミン》のレコードについて、ダウン・ビートの評論家は次のように批 判している。 「モンゴメリがある意味で商業的に成功したが、これからそれ以外の優れたレコードを出すだろう かと疑いたくなる」、さらに「彼は恐らく別の名前で、もっと真面目なレコードを出すだろうとい う希望を持っている」と付け加えた。 評論家というものは、純粋主義者 (保守主義者といってもよいが) と共通の感覚を持っている。 彼等はオーケストラを加えたり、たいして複雑でないメロディカルなアドリブ・プレイ (これが多 くのファンに受けているジャズ・ミュージシャンの特徴である) を演ることが、全く邪道であると 考えていたからである。 「そうかな」、とウェスはこの種の批判にたいして難なく答えた。「人は色んな場面において、我 々が思っているほど聴き分ける耳を持ってるわけじゃなく、既に今までにも多くのミュージシャン が演ってきたように、僕もその時代にマッチしたスタイルで演ることに心掛けてるんだ。 リー・モーガンやホレス・シルヴァも、他のプレイアーも、ジミィ・スミスやラムゼイ・ルイスの ように自分がその気になりゃ若者に聴いてもらえるプレイができたのだが、言わせてもらえばリー もホレスも見切られなかっただけなんだ。まぁ気持ちは解るがね」。 「僕がジャズをあまりにも軽軽しくプレイしていないかという批判だが、そんな事はないよ。 僕が初めてビルボートの番付で上位にランクされた時、ジャズ・アーティストなのかポップ・アー ティストとして位置付けるのか決めかねていたらしく、結局 "ジャズ・ポップ・アーティスト" と いう新しいカテゴリを僕が創り出したと思っている。 最近のレコードに今までと違った方向が見られると思うが、あくまでもジャズの概念だが演ってい るのはポピラー・ミュージックであり、そのように思ってもらっても一向に構わんよ」。 ウェスが聴衆に受け入れられるようになってきたことが、彼の仕事の審美的内容を悪くさせるので はないかと言う質問に対し、ウェスは他の落ち目のミュージシャンとは違ってすぐさま、「そうか も知れない」と控えめに答えている。 しかし常識を越えた考え方の人を除けば、どんな人からの批判にも "常識" を看板に掲げれば対抗 できる。 ウェスは更に、「いかに芸術的な才能を持っているかと言う事が問題じゃなく、上手く表現させる 事が大切なんだよ」と続けた。 もしも、他のミュージシャンも同じような考えであれば経済的に成り立ったかも知れない。 が、チャーリー・クリスチャン以来ほとんど総てをギターに賭けた男は親指で弦を弾く、文字通り "弾丸サウンド" を創り出した男でどんな速さやリズムでもオクターヴでメロディを弾ける、ただ 一人のギタリストとして喝采を浴びたミュージシャンから発言されたため、この名プレイアーは現 実を選んだと考えざるを得ないのだ。 「僕はテイタムやコルトレーンのような人々に起こった事を見てきた。コルトレーンは問題を完全 に解決させる前に亡くなり、テイタムは生存中に偉大なピアニストとしての利点をエンジョイです べきであったが、できずに亡くなっただろう。 僕は弟のバディのプレイを毎晩のように聴いたよ。彼は自分のスタイルを築こうとしていたが、そ れは説得力があり、美しく、聴き惚れるぐらい言う事がなかったね。 でも、才能という観点からすれば完璧なのに認められないというのは理解できない。・・やっぱり 芸術性だけでは飯は食えないという事なんだ・・本当に具合の悪いことだよ」と彼は続けた。 「アーティストは自分の才能を信じなければならない。勿論、バディにも言える事なんだがステー ジでプレイする前に自分の才能に自信を持たなくちゃ、そうすりゃどんな場面においても自分の技 術的才能に関係がない事に気付くよ。 僕の言ってる事が正しいかどうか、TVのショー番組で放送中止になったものと継続しているもの を比較すれば直ぐに判るさ。 ある番組は教育的であり、もうひとつは何か馬鹿馬鹿しい内容であっても視聴率が高ければ、ディ レクタはこちらを残し一方を中止するだろ・・ただ高視聴率が続く限りの話しだがね」。 |
