Wes & Trane An Unrecorded Sextet
 ドン・デマイケルはウェスに対しては高評     コルトレーンは10月3日から11日まで "ジ であった。                   ャズ・ワークショップ" からロスの "クラブ このことはギタリストのソロというものは、    ・ルネッサンス" へ移り、ウェスも一時彼等 彼等と同じぐらい革新的であったとしてもそ    と共にプレイしていたと思われるのだが、こ れは許される範囲のものであるということを    のクラブを訪れた後で書かれたジョン・タイ 意味している。                 ナンの激しい "Anti-Jazz"のコラムには、コ 彼のウェスに対する評価は勿論、的を得たも    ルトレーンとドルフィ、それにマッコイ・タ のであるが、しかし他にも多くの疑問があり    イナー、レジー・ワークマン、エルヴィン・ 、推測として考えられることがある。       ジョーンズのみがリスト・アップされていた つまり、コルトレーンがインディアン・ミュ    。ウェスが何故コルトレーンのグループに留 ージックに魅せられた背景には、彼のストリ    まることを拒否したのかという疑問にも正確 ングス・サウンドに対する憧れだったのか ?    に答えられるものではない。 それともそれより3年前にキャノンボールに    デマイケルの記事によると、「ウェスが僅か みられた試みがウェスに対して向けられたも の期間しかコルトレーンと共演しなかった理 のなのか ?                   由は、少なくとも彼のソロが支持されなかっ これらの疑問はその後ウェスがコルトレーン    た結果であった。」という。 のグループに留まらなかったので、推測に頼    恐らくウェスが "モンゴメリ・ブラザーズ" らざるを得ないのである。            でベスト・プレイヤーであったということが                         拒む原因になったのであろう。
 それは "モンゴメリ・ブラザーズ" がその     5月20日の日曜日、この日はギグの最終日 後 "ウォーキング・バンド" として活動して    であったが、コルトレーンとリズム・セクシ いることで証明できよう。            ョンはドルフィとヴァイオリニストのマイク 少なくともウェスは、1962年5月にもう一度    ・ホワイトを加えることで、より一層大きな コルトレーンと共演している。しかしドルフ    グループとなったのである。 ィは3月末にコルトレーンのグループを離れ    ( 訳者推測ではあるが----デマイケルの高評 ていた。                    が一方的にウェスに偏った時点から、コルト これはダウン・ビートのなかで、「メンバー    レーンはまだしも、ドルフィはウェスに対し の多くが言うにはコルトレーンがギターを加    好意的ではなくなり、恐らくコルトレーンに えるかどうかで迷っている。」という記事。    二者択一の決断を求めた結果、この新メンバ (1962年6月7日号)               ーになったものと思われる。 更には次号で、「ウェスはシスコに滞在中、    少し飛躍しすぎているかも知れませんが、ド "ジャズ・ワークショップ" でコルトレーン    ルフィの音楽理論とウェスの音楽がどうして と共演したが残留契約の申し出を断った。」    も合うとは思えないのだが、それはコルトレ とある。                    ーンに対しても言えるのではないかな。 再び、ここで関係者はウェスとコルトレーン    何れにしても、この3曲を聴いていないので の共演をエンジョイしたにも係わらず、その    なんとも言えません。) 夢は断ち消されたのである。   
  "モンゴメリ・ブラザーズ" 最後のレコーディングとなったジョージ・シアリングとのセッショ ンを聴く限り、ウェスとコルトレーンの接触すら感じられないが、それは彼がソロ・プレイヤーと して今までとは違ったイメージでも、日常的に兄弟達と演ってきたプレイに戻っても彼の並外れた 才能を証明するものである。 しかしながら、我々が "コルトレーン・セクテット" で共演したウェスのプレイを想像するより他 にないというのは真に残念なことである。