理解のための



  進 化 へ の  種 の カ テ ゴ リ ー 分 類 



人間
発展していく二つの道筋、すなわち 知識の道 存在(being)の道 がある。正しい進化においては、知識の道と存在の道とは互いに並行し、助けあって同時に発生する。しかし、もし知識の道が存在の道よりずっと先に行っていまうか、逆に存在の道が知識の道より先に進んでしまえば、人間の発展は誤ったものになり、遅かれ早かれ行きづまらざるをえない。

人々は<
知識>の意味するものを理解している。また彼らは、知識の様々な段階が存在しうることも理解している。彼らは、ちっぽけな知識もあれば偉大な知識もある、つまり、いろいろな質の知識があることを知っている。

ところが彼らは
存在(being)>に関してはこのことがわかっていない。彼らにとっては、単に存在(beingは、<非生存>に対する<生存>しか意味しないのだ。存在(being)と生存(existence)が非常に異なった段階であり、カテゴリーであることを理解していないのだ。 ・・・・・・・・・

・・・・・・・・・ 
一般的に言えば、
知識存在の間の均衡は、その内の一方の単独の発達よよも重要でさえある。知識もしくは存在の単独の発達は、どんな形でも望ましいものではない。なのに、ほとんどの場合、人々に特に魅力的に見えるのは、まさにこの片方だけの発達なのだ。 ・・・・・・・・・


知識は一つのこと、理解はまた別のことだ。

人々はよくこれらの概念を混同し、違いをはっきり把握していない。
知識がひとりでに理解を生むということはない。また知識だけを増やせば理解が深くなるということもない。理解は知識と存在との関係に依存しているのだ。すなわち理解は知識と存在の結合の結果なのだ。 ・・・・・・・・・ それは存在が知識と同時に生長するとき初めて変化するのだ。別の言い方をすれば、理解は存在の生長いかんにかかっているということになる。 ・・・・・・・・・

・・・・・・・・・ 知識理解の違いは、知識は一つのセンターの機能であることを理解すればもっとはっきりする。理解は三つのセンターの機能なのだ。だから、思考器官は何かを知ることはできるだろうが、理解は、人間がそれに関連していることを感じ、直感するときに初めて生まれるのだ。 ・・・・・・・・・



正確な理解のためには厳密な言語が必要だ。古代の知識の体系の研究は、いかなる視点から、またいかなる関係で話されているかをただちに明確にすることができるような言語の研究から始まる。この新しい言語は新しい用語や述語をほとんど含んでいないが、その言語構造の基礎を新しい原理、すなわち、相対性の原理の上に置いている。つまりそれは、あらゆる概念の中に関係をを導入し、そのため思想の立場を明確に決定することができる。というのは、普通の言語にまさしく欠けているものは相対性の表現であるからだ。

この言語を習得すれば、あらゆる科学、哲学用語をもってしても普通の言語では伝達することのできない多量の知識ゃ情報を伝達、連絡することができる。

この新しい言語の基本的な特性は、その中の
すべての観念は一つの観念のまわりに集中される、つまり一つの観念の視点から、相互関係において理解されるということだ。この一つの観念とは、進化の観念だ。もちろん機械的進化という意味での進化ではなく ── というのは、そんな進化は存在しないからだが、意識的、意志的進化という意味であり、またそのような進化だけが存在しうるのだ。

・・・・・・・・・ 理解を可能にする言語は、考察対象とそれに可能な進化との関係の指摘、すなわち進化の階梯におけるその位置の指摘の上に構築されている。

 


人間を七つのカテゴリー、あるいは七つの番号に分類すると、
他の方法では理解できない非常に多くのことが説明できるようになる。
この分類は、人間に適用された相対性の最初の概念を与えてくれる。
物事は、それを受け取る視点をもつ人、あるいはそれと関係を持つ人のタイプによって、
あることにもなれば他のことにもなる。


  人間 知識 存在  
第一番 ●精神世界における重心が、動作センターにある人
動作的・本能的機能が、感情や思考の機能よりもまさっている人
肉体的な人間
模倣本能に基づく
●暗記・詰め込み・ねじ込まれたもの
●オウムか猿のように習得
本能的
感覚的

■すべての人間は第一番、第二番、もしくは第三番として生まれる

■生まれたときと同じレベルにいる

機械的な人類を構成する人々

機械的に進化することはありえない



下降・退化・崩壊


第二番 ●精神世界における重心が、感情センターにある人
感情の機能が他のすべてにまさっている人
感覚的・感情的な人間
(第一番と同じレベルの発達段階にいる)
好き、嫌いに基づく
●好きなものだけの知識
●嫌いなものは知らない
●病的になると、嫌いなもの、不快、不安、恐怖、嫌悪を呼び起こすものだけを知ろうとする
情緒的
感情的
第三番 ●精神世界における重心が、知性センターにある人
思考機能が他の機能より優れている人
●すべてのことに理論、知的考察から入っていく理性の人
(第一・二番と同レベル)
言葉字義にこだわる理解に基づく
●主観的な論理思考
●本の虫・学者ぶった人々の知識
合理的
理論的
第四番 恒久的な重心をもっている人
●諸センターは均衡をとりはじめている人 
●一つのセンターが他のセンターに対して優勢を占めるということはありえない
●彼の考え、修練に対する評価、及びスクールとの関係から成る
●自分自身を、そして自分がどこに行きつつあるかを知りはじめている
●第一、二、三番に比べると、主観的な要素から自由になりはじめ、客観的な知識への道を動きはじめている
●第五番からくる知識を受け取る
●自分の力に応じて理解できる知識だけ理解する
  ■中間的な段階
■生まれついてのものではない
■ある特定の性質の練磨の末、はじめて第四番になる
■偶然にか、養育や教育その他の普通の影響によって発展することはできない
第五番 ●諸センターは統一に達している人
●すでに結晶化している 
●第一、二、三番が変化するようには変化しない
●正しい修練の結果でありうる
誤った修練の結果でもありうる
 第四番を経ずして第五番になるこ
 ともできる(稀)⇒より先(六・七)
 に発展することはできない⇒
包括的な、分割できない知識
●一つの分割不可能な<私>をもち、その知識はすべてこの<私>に属する
●彼が知っていることは、彼の全体が知っている
●第四番より、客観的知識に近い

※OSHOもこれに対して
第四番は皆似たような者になるが、第五番は、個々に非常にユニークな存在となる…だが、四番を飛ばすとそれ以上はない」
…といったコメントをしていたように記憶する




上昇・進化・発展






■意識的・意志的




■人間第七番と、彼のもつ特性をある程度理解して初めて、彼に近づきうる漸進的段階、すなわち我々に可能な発展の過程を理解することができる

第六番 ●第七番に非常に近い人
●特性のいくつかがまだ恒久的でない
第五番で結晶化した本質を再び溶かし、人間第五番としての存在を意識的に失わなければならない
(恐るべき苦痛を通してのみ成就)
●人間に可能なものとしては、完全
●まだ失われる可能性がある
第七番 ●人間に可能な発展段階の頂点に到達している人
●意志・意識・恒久的で不変の<私>・個体性・不死性・その他すべての特性を所有
●<すべて>についての客観的かつ完全に実践的な知識
●彼自身の知識
●取り去ることはできない(恒久的)


・・・・・・・・・ 知識は存在から離れることができない ・・・・・・・・・
人間第一、第二、第三番は、彼の存在がゆえに人間第四番、第五番、そしてより高次の人間の知識を所有することができないのだ。君たちが彼に何を与えても、彼はそれを彼流に解釈し、あらゆる概念を彼自身のいるレベルにまで引き下げてしまうだろう。




この七つのカテゴリーへ分類されたのと同じ序列が、
人間に関するすべてのものに適用されなければならない。


  芸術 宗教 キリスト教
第一番 ●模倣的・まるうつしの芸術
●原始人の踊りや音楽のように、粗雑なまでに原始的で感覚的な芸術
●儀式と典礼
●壮麗・さん然たる供儀や祭祀からなる宗教
●陰鬱・残酷・野蛮な傾向をもつ宗教
●キリスト教の衣を着た異教主義
■単なるうわべの模倣

■キリスト教の教えに従って「生きる」ことはできない
■すべては「起こる」だけ
(今日それはあることでも、翌日は全く別のことになってしまう)
■自分自身の「主人」ではなく、そのためキリスト教徒たろうと決心することもできないし、本当にキリスト教徒であることもできない(一つ一つの偶発的な出来事にふりまわされている)
第二番 ●情緒的芸術 ●信仰と愛と崇敬
●衝動と熱情の宗教
●すぐに<異教徒>と<不信心者>の迫害と弾圧と皆殺しの宗教へと変容
●感情的宗教
●ある時は純粋だが力がない
●ある時は宗教審問や宗教戦争へと続く流血や恐怖に満ちている
第三番 ●知的な捏造された芸術 ●論理的な推論・考察・解釈に基づいている
●知的で論理的な吟味と証明を伴う宗教
●弁証法・証明・理論などに基づく(プロテスタンティズムの種々の形態に例を見られる)
第四番  
■われわれは知らないし、またわれわれが今のままにとどまる限り知ることはできない
●第一、二、三番はこれについては何の概念ももっていない
■実際キリスト教徒たるべく努力する
第五番 (客観芸術)
   ▼
   ▼
   ▼
■実際のキリスト教徒たることができる
(キリスト教徒とはキリスト教徒としての存在(being)をもつこと、つまりキリストの教えに従って生きることを意味するからだ)
第六番  
第七番  

 



科学や哲学など、人間の生活や行動のあらゆる表現は、
同様に七つのカテゴリーに分けることができる。
しかし、
人々が話している普通の言語はこの分類から非常にかけ離れており、
そのために人々は互いに理解しあうことがひどく難しいのだ。


■ 『奇跡を求めて』 P110〜





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