Analogy

 

寓話・格言・諺

 

馬 車 3

人間をひとつの馬車にたとえることができる。

車(荷車・客車)・馬・御者・主人という、
それぞれ独自の四つの体がつながれた、ともに働くひとつの馬車に・・・

だが、実際問題いったい誰が主人なのだろう?

 




もし、この「馬車」のたとえを、自己を知る「足がかり」の一つとして使おうというなら、
それなりの徹底さが必要になるだろう。
それぞれの内容が、自分の中のどの現象や感覚にあたるのか、
グルジェフの「いわん」としていることとは何か‥
そういったことを手探りしながら、自己感覚とじっくりと照らし合わせてみることから始めるしかない。
その手助けとなるかどうかはわからないが、理解を深めるために(内容としては重複するところもあるが)
もう少しその他の本のなかで、どのような説明がなされているかを抜粋しておこう。

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『グルジェフ・弟子たちに語る』p142〜より▼

 

内側の変化は、馬の変化


仕事(ワーク)と外的な生活の両方を維持しようと願うなら、
誰もが、大いにある特定の訓練(エクササイズ)を必要としている。
われわれは内面と外面の二つの生活を持ち、それで、2種類の配慮をもつ。・・・・・・
変化について語るとき、われわれは内側の変化の必要性のことであると考える。
(p139〜)

われわれの中にがいる。は外側からの命令に従う。われわれの知性(マインド)はあまりに柔弱で、内側では何一つできない。知性が停止命令を発しても、内側では何も止まらない。
われわれは、知性の他は何も教育しない。「さよなら」とか「はじめまして」とかどんなふうに振舞ったらよいか知っている。だが、そう心得ているのは御者だけである。御者席で、礼儀作法について読んだことがあるからだ。には、教育というものはいっさいない。アルファベットを教えられることもなく、言葉は何一つ知らず、学校へ行ったこともない。も、教えを受けることができたのだが、そのことをわれわれがすっかり忘れてしまったのだ。というわけで、誰も顧みない孤児に育ってしまった。は、たった二つの言葉しか知らない。右と左だ。

今まで述べてきた内面の変化とは、が変わらなければならないことを指している。が変われば、われわれの外側さえ変えることができる。どれほど長く学ぼうとも、が変化しなければ、何一つ変わらない。自室に静座して、変わろうと決心するのは容易である。だが、誰かに出逢ったとたん、が蹴り上げる。われわれの中にがいる。

が変化しなければならない。

自己研究が役立ち、自己を変えることができると考えるならば、大間違いである。あらゆる書を読破し、研究に百年の年月をかけ、あらゆる知識を修得し、あらゆる神秘を究めたとしても、何も得られない。こういう知識はみな、御者のものとなってしまうからである。ところが、御者が何を知っていようと、なしでは荷車を引っぱれない。──重すぎるのだ。

まず第一に、あなたはあなたではない、ということに気づかなければならない。よく確かめなさい。本当にそうなのだ。あなたはである。仕事(ワーク)を始めることを望むなら、に、あなたの言葉を教え込み、あなたの知っていることを聞かせてやり、の、いわば気質とかを変えなければならないことを証明してあげなさい。首尾よく成功すれば、馬も、あなたに助けられながら、学び始める。
しかし、変わることができるのは、内側だけである。

荷車といえば、あなたがあったことさえ、完全に忘れられている。だが、荷車も部分であり、しかも、馬車にとって大切な部分である。固有の生命を持ち、われわれの生命の基礎をなしているものである。固有の心理を持っている。考え、空腹を感じ、欲望を持ち、みなの仕事に参加する。荷車にも教育を与え、学校へ行かせればよかったのだが、両親も誰も、気にかけなかった。御者だけが教育を受けたのである。御者は言葉も知っているし、しかじかの通りがどこにあるか知っている。だが、一人ではそこへ運転して行けない。

もともと、荷車は、普通の町で使われるように作られ、機械部品は全部、町の道路にふさわしく設計されていた。小さな車輪がたくさんある。こうすれば、でこぼこした道でも、潤滑油が均等に給油される、という発想からである。こういうことは、みな、道路がさほどなだらかでない町のために計算されたのである。町は変わってしまったのに、荷車の仕立ては従来どおりである。元来、荷物運搬用につくられたのであるが、現在では乗客を乗せている。しかも、いつも決まって同じ通り──「ブロードウェイ」──を走っている。長い間使わなかったので、錆びてしまった部品もある。たまに違った通りをいかねばならないのであるが、故障しないことはめったになく、大なり小なりの分解修理、ということになるのもめずらしくない。今でも、ガタピシしながら、ブロードウェイでは使われているが、他の通りで使うなら、はじめに改造が必要である。
どの荷車も弾みを持っているものだが、我々の荷車は、ある意味で弾みを失っている。しかも弾みなしでは動かない。

その上、が引っぱれるのは、そう、五十キロほどであり、一方、は百キロ積むことができるので、も、一緒に働きたくとも、働けない。

めちゃめちゃに破損し、手の施しようのないもある。売る以外に方法がない。まだ修理可能のもあるが、ひどく破損しているので、修理に長時間を要する。解体し、金属部品は全部オイルに浸して汚れを落とし、ふたたび元のように組み立てねばならない。取り替えを要する部品もある。安く購入できる部品もあるが、高くて交換できない部品もある。コスト高になりすぎる。場合によっては新車を買った方が、中古車を修理するより安上がりである。

おそらく、ここに出席のあなた方はみな望みを持っているが、自己の一部分だけで望んでいる。またもや御者だけが望んでいるのは、御者は聞いたり読んだりしたことがあるからだ。御者は空想には不自由せず、夢のなかでは月世界にも飛んで行く。
自己について何ができると考えている人たちは、まったく間違っている。内側のものを変えるのはきわめてむずかしい。あなたが知っていることと言えば、御者が知っていることだけだ。あなたの知識は全部単なる操作にすぎない。真の変化は、きわめてむずかしい、道で数十万ドル見つけるよりむずかしい。


なぜ馬は教育されなかったのか?


おじいさんや、おばあさんが忘れ始め、そのうち身内の者みなが忘れてしまったからだ。教育には時間がかかり、苦悩を伴い、人生の居心地よさが減少する。初めは怠惰なばかりにの教育を怠ったのであるが、後にはすっかり忘れてしまったのだ。

ここでも「三の法則」が作用している。能動、受動の二つの原則の間に、苦悩という摩擦がなければならない。この苦悩が第三の原則に導く。受動的である方が百倍も容易であるのは、苦悩も結果も、あなたの内側ではなく外側で発生するからだ。すべてがあなたの内側で起こるとき、始めて内側の結果を得る。
われわれは、あるときは能動的であり、他のときは受動的である。一時間能動的であれば、次の一時間は受動的である。
能動的なときに消耗し、受動的なときに休息する。だが、すべてがあなたの内側にあるときには、休息できず、法則が絶えず活動する。たとえ苦悩せずとも、平静ではいられない。
誰もが苦悩は嫌いであり、平静を求める。みな、いちばん安易で、いちばん平静を乱されないことを選び、考えすぎないようにしている。こうやって、おじいさんや、おばあさんが、少しずつ休息を延長していった。第一日目は五分間の休憩、次の日は十分間、といったように。ついには、時間の半分を休息に費やす瞬間が到来した。あるものが一単位増えると、他のものが一単位減るというのが法則である。たくさんある所にはさらに加えられ、少ししかない所からは減らされる。あなた方の祖父母は、こうして、馬を教育することを次第に忘れていった。今では誰一人として覚えていない。


 

内側の変化は、どのようにして始める?


に新しい言葉を教えることから始め、が変化を望むように仕向けなさい。
荷車はつながっている。御者も手綱でつながっている。
は二語だけ知っている──右と左である。
われわれの手綱は太くなったり細くなったりするから、ときによって、御者に命令できないことがある。この手綱は皮製ではない。手綱が細くなると、御者を制御できなくなる。は、手綱による言語しか知らない。御者がどれほど「さあ、右へ」と叫ぼうと、は微動もしない。手綱を引けば理解する。はある言語を知っているのかもしれないが、御者の知っている言語ではない。・・・

荷車をつなぐシャフトについても、同じ状況が存在する。・・・
われわれの中に、磁気のようなものがある。それは、一つではなく、いくつかの物質でできている。
われわれの重要な部分である。われわれの機械が働いているときに形成される。
食物について話したとき、一オクターブについてしか述べなかった。しかし実際には三オクターブある。一つのオクターブは一つの物質を生産し、他の二つのオクターブは、それぞれ違った物質を生産する。「シ」は第一のオクターブが結実したものである。機械が自動的に働くと、第一の物質が生産される。われわれが半ば意識的に働くと、別の種類の物質が生産される。この種の半ば意識的な働きがないと、この種類の物質は生産されない。意識して働くと、第三の物質が生産される。


● 主人→B→御者→A→→@→
 (それぞれをつなぐ磁気のようなもの)

第一

荷車のシャフト

自動的

第一オクターブの結実「シ」

第二

手綱

半ば意識的

X物質

第三

声の理解

意識的

Y物質

 (図は原文にはなく要約を仮挿入)

第一の物質は、荷車のシャフトに相当し、第二の物質は手綱に相当する。第三の物質は、御者が、乗客の言うことを聞くのに必要な物質に相当する。音は真空では伝わらないのをご存知であろう。
なんらかの物質が存在しなければならない。
ふと乗り合わせた乗客と、主人との違いを理解しなければならない。仮にわれわれに「私」があるとすれば、「私」が主人である。「私」が不在であれば、御者に命令を下す誰かが常にの中にいる。
乗客御者の間には、ある物質があり、御者が聞くことを可能にする。この物質が御者乗客の間にあるかないかは、多くの偶然性で決まる。この物質はないかもしれない。この物質が蓄積すると、乗客御者に命令を下せるが、御者に命令できない等々。あるときは命令でき、他のときはできないというように、そこにある物質の量に左右される。 ・・・
こうした物質の一つは苦しむときにできる。われわれは、機械的静止状態の他は、常に苦しんでいる。異なる種類の苦しみがある。たとえば、私はあなたにあることを話したいのだが、何も言わない方がいいと感じる。一方では話したがり、他方は沈黙を望む。この葛藤がある物質を生む。やがてその物質は、ある一定の場所に集まる。


『グルジェフ・弟子たちに語る』p206より▼

 

われわれの本質は馬である


外面と内面の配慮・・・
人間は異質な二つの部分を持っている。本質と人格である。
本質は、私である。本質は遺伝、類型、性格、天性である。
人格は偶然に得るもの・・・育ち、教育、視点であり、外側のものである。


御者の例を思い出してほしい。われわれの本質はである。が(機械的に呼び起こすだけの)考慮をすべきではない。しかし、たとえあなたがそのことに気づいても、はあなたの言葉を理解しないから、は気づかない。に命令したり、教えたり、考慮しないようにとか、反応しないようにとか、応じないようにと伝えることはできない。
あなたの知性(マインド)は考慮しないことを望むが、まず初めに、の言葉と心理を学び、に話しかけることを学ぶ必要がある。そうすれば、知性、論理の望むようにできるであろう。しかし、今、に教えようとしても、百年たっても何も教えることも、変えることもできない。空虚な願望である。・・・
ぐいと手綱を引けばはあちこちに動くであろうが、それもいつもではなく、満腹のときだけである。に何かを話し始めれば、は尾で蠅を追い払い続けるであろうが、あなたは、が理解したのだと空想するであろう。

われわれの天性が損なわれる前は、御者主人の四者が一つのチームとして一体だった。
すべての部分が共通の理解を持ち、みな一緒に同時に動き、休み、食事をした。ところが言葉が忘れられ、部分が別々になり、他の部分と離れて暮らすようになった。



『グルジェフ・弟子たちに語る』p317〜より▼

 

自己を思い起こすに、御者だけでは不可能


仕事しながら(昨日の講義について)考えるということは、
自己を思い起こすことである。
自己を思い起こすことは不可能である。
人々は知性(マインド)だけで行きたがるので、思い起こすことができない。
それでいて、知性の持つ注意力の蓄えは、(蓄電池を充電するように)非常にに小さい。
そして、身体の他の部分は思い起こすことを欲しない。


たぶんあなた方は、人間は乗客御者客車でできている馬車であるということを覚えているだろう。乗客はいないので、彼については何も問題はあり得ない。御者についてだけ語ることができる。われわれの知性が御者である。
われわれのこの知性が、何かしたいと願い、今までと異なる方法で仕事(ワーク)すること、知性それ自身を思い起こすという特別の仕事を決意した。自己変革、自己改造についてわれわれが抱くすべての関心は、御者、つまり、知性だけに属す。

感情と身体について言うと、それらは自己想起を実行することに少しも関心がない。それにもかかわらず、重要なことは知性における変化ではなく、関心を持たない部分の変化である。知性はとても簡単に変わる。しかし知性では目標に到達できない。たとえ知性によって到達しても、何の役にも立たない。
従って、知性ではなく、感情と身体を通して教え、そして、学ばなければならない。だが感情と身体は言葉をもっていない。われわれの持つ言葉も理解も持っていない。ロシア語も英語も理解しない。御者の言葉を理解せず、客車の言葉がわからない。 ・・・ は手綱の言葉だけを理解し、手綱の命令に従って右に曲がる。 ・・・ 客車についても同じであり、客車はそれ自体の構造をもっている。柄を右へ回すと後輪は左を行き、反対の方向に動かすと車輪は右にいく。こうなるのは、客車がこの動きを理解するだけで、客車自体の仕方で柄の動きに反応するためである。それで、御者客車の弱点、または特徴を知らなければならない。そうなって初めて、御者は自己の望む方向に運転することができる。だが、御者御者席に座り、彼自身の言葉で「右へ行け」とか「左に行け」と言うだけでは、たとえ一年叫び続けても、馬車はちっとも動かない。

われわれはそのような馬車の正確な写しである。酒場に座っている御者を自己の役割を果たしている御者とは呼べないように、知性(マインド)だけをもって人間と呼ぶことはできない。われわれの知性は家や酒場に座り、夢の中で乗客をいろいろな所に乗せてゆくプロのタクシー運転手のようなものである。彼の運転が現実でないように、知性だけで仕事しようとすることは、どこへも導かない。専門家、狂人になるだけだ。

自己を変革する力は知性にあるのではなく、身体と感情にある。だが、不幸にして、われわれの身体と感情は、幸福であるかぎり、何も気にかけない。 ・・・ 知性の価値は、先を見ることである。だが、「為す」ことができるのは、他の二つだけてある。 ・・・

・・・ たとえ知性で十年間仕事(ワーク)し、昼も夜も研究し、自己想起しても、役に立つもの、本当のものが何も得られないのは、知性の中には変わるべき何ものもないからである。変わらなければならないのは、の性向である。願望はの中に、力は客車になければならない。


『グルジェフ・弟子たちに語る』p363〜より▼

 

影響力(大気の振動)


人は多くの影響力に支配されているが、
二つの範疇に分類できる。第一は理化学的原因、

第二は連想に基づくもので、われわれを条件づけるものの結果である。


これら2種類の(理化学的、連想的)影響力は、われわれの身近にある事物から来る。だが、大きいもの、つまり、地球、惑星、太陽から来る別の影響力もあり、それぞれが、異なる秩序の法則に作用される。だが、こうした偉大な存在の多くの影響力は、われわれが小さなものの影響力に完全に支配されているならば、われわれに達することができない。

理化学的影響力について話そう。人間がいくつかの中枢部(センター)を持っていることは、すでに述べた。馬車御者、さらに車軸、手綱、エーテルについても語った。あらゆるものが放射と大気をもっている。それぞれが異なる起源を持ち、異なる特性、異なる含有物を持っているため、各々の大気の特質は他と異なる。互いに類似しているが、それぞれの物質の振動が異なる。

われわれの身体である馬車は、それ自体に固有の属性の大気をもっている。
私の感情も大気を産出するが、その放射は遠くまで行くかもしれない。
連想の結果、思考が生じ、第三の種類の放射が生じる。
馬車が空でなく、中に乗客がいると、放射もまた異なり、御者の放射とは明らかに異なる。 ・・・

このように、誰もが四種類の放射を持つことができるが、必ずしもそうではない。ある放射を多く持ち、他の放射を少ししか持たないかもしれない。人々はこの点に関して異なり、また同じ人が、違ったときには違ってくる。私はコーヒーを飲んだが、彼は飲まなかった。大気は異なる。あるいは、私はタバコを吸うが、彼女はため息をつく。

常に相互作用があり、私にとって、あるときは悪く、別のときは良い。毎分、私はこれかあれかであり、私のまわりは、それかそれである。私の内面の影響力もまた変化する。私は何も変えることができない。奴隷である。こうした影響力を、私は理化学的と呼ぶ。

連想によっておこる影響力は、まったく異なる。
最初に「形」 ・・・
第二に、私の感情、私の共感、または反感 ・・・ 「関係」とも呼べるかもしれない。 ・・・
第三は、「説得」または「暗示」 ・・・
第四は、ある人の他の人に対する優位性 ・・・

というわけで、これらは八種類の影響力である。半分は理化学的であり(振動の違う二つの成分/放射の混合から、新しいものを産出する化学的作用)、半分は連想的である(記憶を触発し、他の連想を次々に発生させ、この衝撃によって、感情や思考が変わる機械的作用)

これに加え、われわれに決定的に作用する影響力がある。人生のあらゆる瞬間において、われわれのあらゆる感情、思考が惑星の影響を受けている(出世時に、地球にもっとも支配的な惑星や太陽のもつ光に影響され、その色彩を生涯持ち続けるが、先の小範囲の二つに完全に支配されているならば、我々に達することができないこともある作用/占星術的な内容だが、それが言うほど絶対的な影響力ではない。われわれはこれらの影響力に対しても奴隷である。 ・・・

・・・・・・・・
二種類の影響力から自由になることが可能である。

理化学的影響力から自由になるには、受動的でなければならない。・・・そうすれば、少しは自由になることができる。ここでは牽引の法則が働く。(放射は静かで、摩擦のない、空白の場所に残る。吸収するだけ吸収する。→類が類を呼び、いっそう多く存在する場所へ向かう。一杯に詰まっていれば、自然と突き当たるか、跳ね返るか、通過するだけで、安全である。)

・・・連想的影響力から自由になるには、人為的な努力を必要とする。ここでは反発の法則が働く。(少ししかないところにはさらに多くが加えられる。)

(※カッコ内は前後の要約を挿入)



* * * * *

このような説明の他に、
『ベルゼバブの孫への話』(p.37では、ティル・オイレンシュピーゲル(※14世紀
ドイツに実在したとも?架空とも?)の話から
「車輪に油をささなければ荷車は動かない」と引用している。
どうやら「油をさすなら車輪に…でなければ馬車全体として働かない」ということを意図しているようだ。
ムラ・ナスレディンの「賄賂なしでは世間で生きていけない」という趣旨の言葉と似た表現と言っている。
「賄賂を贈る」とは「手に潤滑油(手が油まみれ)」という英語(米口語)の慣用表現を文字っているわけだ。
グルジェフは「ベルゼバブ」という名の主人公を登場させる経緯をほのめかすなかで、
「あらゆることに対する余りある可能性と知識を所有しているベルゼバブに『賄賂を贈る』ことを決心した」
と言っているが、はたしてその真意はいかなるものだろうか・・・・・・・

※ オイレン(ふくろう)+シュピーゲル()(高地ドイツ語)
or ウル・デン・シュペーゲル(尻をふけ〕(低地ドイツ語)
の語源をもつ、愚者のような賢者…道化師のような者?
16世紀に民間伝承話をまとめた滑稽本が出版される。  
1921年に発行された
代替紙幣の図柄ともなっている。   
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
▲ 引用したと思われるティルの話・・・・・馬車の主人から「明日客人も乗せるので     
馬車にしっかり油をぬっておけ」と言われた彼は、言いつけ通りに馬車の全てに    
油をぬったのだが、特に(客の坊さんのための)座席には念入りにそうした・・・・     

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以上のように、直接的な説明もあれば、そうでないものもある。

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個人的に、私は「馬車」のたとえ話がとても好きだ。
とはいえ、たとえGの言葉の断片を「御者の教則本」としたとしても、
道を進みながら、しかめ面して本とにらめっこしているような御者のいる馬車ではありたくない。
道をあゆむ時には、その瞬間でしか出逢えない世界を体験したいからだ。
自身の宅内でその体験を咀嚼反芻する時に、「ふ〜む、なるほど」と身にしみたものだけが、
変容をもたらし、はじめて明日の旅の足取りに活かされているかもしれないとも思ったりする。
時々は、『はなしのはなし』のようにして、ちょっとあそんだりしながら・・・。


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