字源的アプローチによる 新解釈

 

はじめにお読みください


 


 

                  『老子』第十四章 


視之不見
名曰夷

それをよく視ようとしても見えないものを、
名づけて「夷(い:小さくて目立たないこと)」という。





「見+音符示シ」で、まっすぐみること。



大きい人のそばに寄った小さい人を示す。背たけのひくい人。小柄で背のひくい意を含み、たいら、ひくいなどの意を生じる。、目だたない状態。




聴之不聞
名曰希

それをよく聴こうとしても聞こえないものを、名づけて「希(き:すきまがないこと)」という。





聽の右側の字は悳とも書き、まっすぐなこと。耳の下にある字(音テイ)は、人がまっすぐにたったさま。聽はそれを音符とし、耳と悳(まっすぐ)を加えた字で、まっすぐに耳を向けてききとること。



「メ二つ(まじわる)+巾(ぬの)」で、細かく交差して織った布。すきまがほとんどないことから、微小で少ない意となり、またその小さいすきまを通して何かを求める意となった。




搏之不得
名曰微

それをしっかりつかもうとしても得られないものを、名づけて「微」という。





甫ホは、平らな苗床に芽がはえたさま。圃ホの原字。搏の右側の字は「寸(て)+音符甫」からなり、平面をあてる動作。搏はそれを音符とし、手をそえた字で、ぱんと平面をうち当てること。
とる。つかむ。ぱっと手のひらを物に当ててつかむ。



右側の字(音ビ)は「―線の上下に細い糸端のたれたさま+攴(動詞のしるし)」の会意文字で、糸端のように目だたないようにすること。微はそれを音符とし、彳(いく)をそえた字で、目だたないようにしのびあるきすること。




此三者
不可致詰
故混而為一

これら三つのものは、(それ以上)問い詰めること致すことは不可能で、故に、混ざり、そして一つに為っているものだ。





至は、矢がー線までとどくさまをあらわす会意文字。夂は「夂(あし)+音符至(いたる)」で、足で歩いて目標までとどくこと。自動詞の「至」に対して、他動詞として用いる。



吉は、口印(容器のくち)の上にかたくふたをしたさまを描いた象形文字で、かたく締めるの意味を含む。結(ひもで口をかたくくびる)が吉の原義をあらわしている。詰は「言+音符吉」で、いいのがれする余地を与えないように締めつけながら、問いただすこと。また、中にものをいっぱいつめこんで入り口をとじること。
といつめる。また、逃げる余地を与えず、といただす。きつくとりしまる。



視之不見 名曰夷
聴之不聞 名曰希
搏之不得 名曰微
此三者 不可致詰 故混而為一


*
それをよく視ようとしても見えないものを、 名づけて「夷(い:小さくて目立たないこと)」という。それをよく聴こうとしても聞こえないものを、名づけて「希(き:すきまがないこと)」という。それをしっかりつかもうとしても得られないものを、名づけて「微」という。これら三つのものは、(それ以上)問い詰めること致すことは不可能で、故に、混ざり、そして一つに為っているものだ。





其上不t
其下不昧

その上にあっては、さやかでなく、
その下にあっては、くらくはない。




tきょう
「白+敫(白く広がる)」。さやか。鮮明ではっきりしたさま



未゙は、小さくて見えにくいこずえのこと。昧は「日+音符未」。




縄縄不可名
復帰於無物

ずっと長く続いて名づけることは不可能で、物が無いところに復帰していく。





「糸+黽(とかげ)」で、とかげのような長いなわ。


【縄縄】
物事が絶えずに長く続くさま。



其上不t 其下不昧
縄縄不可名 復帰於無物


*
その上にあっては、さやかでなく、 その下にあっては、くらくはない。ずっと長く続いて名づけることは不可能で、物が無いところに復帰していく。




是謂無状之状
無物之象
是謂惚恍

是を「無状の状(かたち無きかたち)」という。物で無いもののすがただ。これを「惚恍(こつこう:うっとりするようではっきりみえないさま)」と謂う。





爿ショウは、細長い寝台の形を縦に描いた象形文字。状は「犬+音符爿」で、細長い犬の姿。細長いかたちの意を含むが、広く事物のすがたの意に拡大された。
かたちづくる。かたちをなす。かたちにあらわす。



ぞうの姿を描いたもの。ぞうは、最も目だった大きいかたちをしているところから、かたちという意味になった。
かたち。すがた。



忽コツとは「心+音符勿(よく見えない)」の会意兼形声文字で、ぼんやりすること。のち「たちまち」の意の副詞となったため、惚が忽の原義をあらわすようになった。惚は「心+音符忽」で、気をとられてぼんやりすること。
さだかには見えないさま。



「心+音符光」で、荒(むなしい)の意を含む。何かに気をとられて、心の中がむなしくなること。
ぼんやりしてよく見えないさま。



 


迎之不見其首
随之不見其後

これを出迎えても頭もみえず、
これに従っていっても後(姿)もみえない。





右側の字(音ゴウ)は「たった人+それに向かってすわった人」の会意文字で、仰(あおぐ)の原字。→の方向に来る相手に、←の方向に進むの意を含む。迎はそれを音符とし、辶(すすむ)を加えた字で、来る者を、逆に出むかえにいくこと。



頭髪のはえた頭部全体を描いたもの。抽チュウ(ぬけ出る)と同系で、胴体から抜け出たくび。また、道(頭をむけて進む)の字の音符となる。



隋・墮(=堕。おちる)の原字は「阜(土盛り)+左二つ(ぎざぎざ、参差シンシの意)」の会意文字で、盛り土が、がさがさとくずれおちることを示す。隨は「辶(すすむ)+音符隋」で、惰性にまかせて壁土がおちて止まらないように、時勢や先行者のいくのにまかせて進むこと。もと、上から下へおちるの意を含む。



是謂無状之状 無物之象
是謂惚恍
迎之不見其首 随之不見其後


*
是を「無状の状(かたち無きかたち)」という。物で無いもののすがただ。これを「惚恍(こつこう:うっとりするようではっきりみえないさま)」と謂う。これを出迎えても頭もみえず、 これに従っていっても後(姿)もみえない。



 


執古之道
以御今之有

(だが)古えの「道」をしっかりつかみとり、以って、この今有るものを御していくならば、





「手かせ+人が両手を出してひざまずいた姿」で、すわった人の両手に手かせをはめ、しっかりとつかまえたさまを示す。
とる。選びとってしっかり守る。



原字は「午(きね)+卩(ひと)」の会意文字で、堅い物をきねでついて柔らかくするさま。御はそれに止(あし)と彳(いく)を加えた字で、馬を穏やかにならして行かせることを示
す。つきならす意から、でこぼこや阻害する部分を調整して、うまくおさめる意となる。




能知古始
是謂道紀

古えの始まりからよく知ることができる。これを、「道の紀(のり:いとぐち)」と謂う。





己とは、曲がっておきたつさま。または、曲がった目じるし。紀は「糸+音符己」で、糸のはじめを求め、目じるしをつけ、そこから巻く、織るなどの動作をおこすこと。
のり。いとぐち。物事のはじめ。また、はじめから順序よく整理するための手順。すじ道。


 

執古之道 以御今之有
能知古始 是謂道紀


*
(だが)古えの「道」をしっかりつかみとり、以って、この今有るものを御していくならば、古えの始まりからよく知ることができる。これを、「道の紀(のり:いとぐち)」と謂う。



 

▽ ちょっとシンプルな解釈!? ▽

視之不見 名曰夷
聴之不聞 名曰希
搏之不得 名曰微
此三者 不可致詰 故混而為一
其上不t 其下不昧
縄縄不可名 復帰於無物
是謂無状之状 無物之象
是謂惚恍
迎之不見其首 随之不見其後
執古之道 以御今之有
能知古始 是謂道紀


それをよく視ようとしても見えないものを、名づけて「夷(い:小さくて目立たないこと)」という。それをよく聴こうとしても聞こえないものを、名づけて「希(き:すきまがないこと)」という。それをしっかりつかもうとしても得られないものを、名づけて「微」という。これら三つのものは、(それ以上)問い詰めること致すことは不可能で、故に、混ざり、そして一つに為っているものだ。
その上にあっては、さやかでなく、 その下にあっては、くらくはない。ずっと長く続いて名づけることは不可能で、物が無いところに復帰していく。是を「無状の状(かたち無きかたち)」という。物で無いもののすがただ。これを「惚恍(こつこう:うっとりするようではっきりみえないさま)」と謂う。これを出迎えても頭もみえず、 これに従っていっても後(姿)もみえない。(だが)古えの「道」をしっかりつかみとり、以って、この今有るものを御していくならば、古えの始まりからよく知ることができる。これを、「道の紀(のり:いとぐち)」と謂う。





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