般若心経






日本人は、「般若心経」と言えば、玄奘が訳した有名なお経のタイトルを思い出すかもしれませんが、実は、サンスクリット語(梵語)の原文の冒頭にはこの言葉はないのです。そこには「ナマス(礼する、帰依する)サルヴァ(一切の、すべての)ジュニャー・ヤ(智・にむかって)」という意味深長な言葉が添えられているのみなのです。「帰依する」とは、「すぐれたものを頼みとして、それに従っていく」といった意味です。普通なら「人」や何かの「教え」に「帰依する」ものだというふうに考えがちですが、実際には本文に入る前に一言、「すべての<智>に対して帰依します」と言っているのです。

最初に出てくる「観自在菩薩」というのも有名な固有名詞となってしまっていますが、本来特別な者を指していたのではないのです。アーリア(貴き)・アヴァロキテシュヴェラ(観る、照見する、見渡す+自由、自在)ボーディ(目覚め)サットヴォ(求める者、本性のままに向かう者)で、「貴き、自由自在に照見できる目覚めを求めている者」という意味なのです。ですから、自由にいろいろな状態が心に現れるままのものを「(自分自身で知っていくというような)自己観察」しながら、「覚醒(目覚め)」を求めていこうとする姿勢を持っている者のことを指しているのだと考えられます。

 続いて、カンビラ(深遠な、深妙な)ヤーム(中にて)とあります。ヤームということで、内面のことを表わしていることがわかります。それは表層のことではありません。自分の心の奥という深いところに向かうことを意味しています。

 次に、プラジュニャー(般若、知恵、内なる智)パーラミター(波羅蜜多、彼岸に、彼方に+到る)ヤーム(中にて、於いて)ときます。プラジュニャーというのは、ただ単に「般若(知恵)」と訳されることが多いのですが、プラとジュニャーとに分解でき、ジュニャーというのは冒頭にでてきた「智」のことですが、プラとはプラティヤハー(中に入る)、プラティドラマ(家に入る)といったふうに使われているようなプラで、「中に、内の」という意味をもっているようです。「智(ジュニャー)」にもいろいろあって、「分別智」はジュニャーナ、「知覚、感受性」はサミジュニャー、「知識」はジュニャーナムといってプラジュニャーとは別のものとして考えられているようです。それは「中の智、内なる智」ということで、外から教えることができるような単なる「知識」や「知恵」ではなく、自分の中でのみ「知っていくことのできる知恵」ということができると思います。パーラミターは普通は「迷いの世界である此岸(しがん)から仏陀の悟りの境地である彼岸に到ること」と解釈されていますが、私はもっと一般的な意味をもっていると思っているのです。そこに川があれば必然的にこちら岸とあちら岸とができるような、「一方の彼方の岸」のこと(ある意味パラレルワールドのようなこと)を表わしていると思うのです。それは「岸」というイメージとは違ってくるかもしれませんが、例えて言うなら、こちら側が「水(液体の世界)」なら、あちら側が「酸素と水素(気体の世界)」といったような意味においてです。自分自身の中で質的変容が起きるということを表わしているのだと思っています。

そして、チャリヤーム(行を)チャラマーノ(行じつつある時)ビャアヴァロカヤティ(観照する、照見する)スマ(過去形)となっています。玄奘は、チャリヤームを訳していません。そこでここまでを、「観自在菩薩が般若波羅蜜多(彼岸の智慧)を行じている時」と解釈されています。しかし、原文は違っています。「行を行じつつある時、観照した」といった訳になります。そして、ここの「行」というものをどのようにとらえるかが問題となるところです。「諸行無常」などと使う時の「行」は、仏教においての「一切の生死変易する(とりかえ変わる)存在」の意味をもっています。次の「行じる」というのは、「修行する」など使われるような「行い」ととっていいものだと思われます。つまり、「さまざまな様相が心に現れているがままに行わせている時」ととれるのです。しかし、玄奘にとっては、悟っている人の心の中に「一切の変易する存在」が残されているものだとは考えられなかったために、特別な「般若波羅蜜多を行じていた」としたのかもしれません。それに、「行」というのは、「あらゆる心理作用」という意味の、次の「五蘊(ごうん)」の中の一つに挙げられるものだけに、解脱している人がそんな「行(心の変化)」を「行じていた」などとは、とても認められないことだったに違いありません。しかし、ここでは「観自在」という言葉がキーワードになるように、「自由」に発生する感情や心の状態、境地でありながら、ただそれらは鏡にうつし出される姿のようにして自覚していくようなもので、来るものはとらえ、去るものは追わないという状態だったといえるのではないでしょうか。それがまさに「観照する、照見する」ということですから。

 ここまでを口語訳すれば、「貴き、自由自在に(心の内を)観ることのできる目覚めを求める者は、(心の)深みの中の彼岸(変容する境地)に到る内的智慧の中にて、行(変易が起こるがまま)を行じつつある時、それを観照していた」といった感じになるでしょうか。

 続きをみてみましょう。パンチャ()スカンダース(蘊、あつまり、陰)は「五蘊」ということですが、「色・受・想・行・識」という五つの集合体ということです。それは人間が現実的に存在するために含有している五つの(身の)構成要素といえ、物質と精神との諸要素を収めているものとされています。「色」は物質、肉体的なもの、「受」は感性に受容される感覚・印象、「想」は概念構成とか心理的表象、「行」はあらゆる心理作用、「識」は意識や精神活動などととらえられていますが、はっきりとした定義づけはされていないようで、その受け止め方には違いがみられます。

 訳の続きです。グー()シュチャ(等、それらの)スヴァバーヴァー(自性、本性)シューニヤン(空、ゼロ)パシュヤティ(視る、看破する)スマ(過去形)となっています。「それらの本性は空であるということを看破した」という意味ですが、玄奘は、この箇所を原文の翻訳ではなく、自分が(勝手に)意図した言葉をあてがっています。それは、「それらの自性は」となるところを「皆」と変え、「五蘊は皆空である」としたばかりでなく、続く言葉として「度一切苦厄」(一切の苦厄から救われる)を挿入しています。こういう言い回しこそ、宗教にみられる「アメ」の部分なのかもしれませんが、こういうところに私はひっかかっていたのです。しかし、やはり原文に従って見るなら納得がいきます。その「自性、本性」つまり、それらの「性質」を見続けて、その大元となる「原因」を見つけ出すと、突然あたかも「消えてなくなる」ような「空」だったということを「見破った」ということになるのです。

 イハ(ここで、今)シャーリプットラ(舎利子、身子)ルーパム()シューニヤター()シューニヤタィヴァ(空 如是)ルーパム()と続きますが、玄奘は「舎利子」以外の部分を省略してしまっています。「身子(しんし)」とは、「あなた」のことです。「ここで、あなたよ、色(物質)までも空であり、空も同様に色でもあるのだ」といった意味になります。一見、「空」が目指す境地のように思われ、それで終わりのように錯覚する人もいるかもしれませんが、「空」からも「物質」になるのだと説明しているのです。

 その後は、「空は色とは異なるものではなく、色は空と異なるものではない。」「色即是空、空即是色。」と同じような意味の繰り返しで、決め打ちをしているかのようです。そして「受、想、行、識もそのまま同様だ」と続いていきます。

 ここの「色(しき)」は「色(いろ)」のことではありませんが、喩えとして、光の三原色が一か所に集められると、「透明」とでもいうべき「光」になることが、また、その光がある条件下で、三色にも、虹色にも分光されて「色」が現れるといったことが思い出されます。なぜなら、人間の心の中の状態も同様のことが起きるともいえそうだからです。刻々と変化する心の表情の各状況()は、これは最初「偶然」に起こっていたもののように思われているかもしれません。しかし、意識の目をあてるという「観照(観察)」をして、その「性質、特徴」が理解できるようになれば、それこそ、「自由自在」に、色を消したり、出したり、違う色を作ったりといった「応用」ができるようになり、その時には、起こる現象は掌握され、コントロールできるようになっています。たとえ同じどんな「現象(状態)」があらわれても、その時にはそれは「偶然」ではなく、「必然」になっていて、心の中に動揺などが起きるようなこともなくなっていることでしょう。これは、ネガティブだと思われている状態、つまり「苦厄」などが一切なくなるという意味ではなく、たとえ、それらを「感じ」ようとも、それに同化したかのようにして心が動じるといったようなことはないという意味になるのではないでしょうか。