![]()
9 齧缺と王倪1 (2)誰が知る
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽♪∽∽♪∽∽∽∽♪∽∽∽∽
さらに、試しに私からお前に問いを出してみよう。
民は湿地で寝るなら、腰を病み、偏調をきたして死してしまうが、
ドショウではどうだろうか。
人間は木の上にいると、ガタガタと震えて恐れにのっとられてしまうが、
猿ではどうだろうか。
いったい三者の誰が、まさに〈居処〉を知っているということになるだろうか。
民は、(束ねた刈り草や囲った)家畜を食べ、
麋や鹿は、(一角聖獣の餌となる)美しい草を食み、
ムカデは、帯(へび?)を(じっくり長々と吟味して)甘いと思い、
フクロウやカラスは、(時間が経って腐ったような)鼠をうまいとする。
いったい四者の誰が、まさに〈味〉を知っているということになるだろうか。
∽∽∽∽*∽∽*∽∽∽∽*∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
☆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さらに、試しに私からお前に問いを出してみよう。
民は湿地で寝るなら、腰を病み、偏調をきたして死してしまうが、
ドショウではどうだろうか。
【且吾嘗試問乎女 民湿寝則腰疾偏死 鰌然乎哉】
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜*さて、急き立てるように質問してきた弟子に、師は質問返しをします。
でも、思いのほか、見えやすいたとえですね。ん?・・・それにしては、【民湿寝則腰疾偏死】と、随分大げさなわりに、
それと対比させたのが、【鰌】とは・・・!?これは、弟子の興をついた展開というだけなのでしょうか?
また、それを聞いた私たちは、実際に「湿地」に「寝る」ことはないのだからと
概念的なシミュレーションで、視点(尺度の支点)を変えてみることに、
「そりゃそうだ」と、それで何かを「知った」気になるだけなのでしょうか?「湿」・・・それは「水の中にひたす」こと!?
「悲しみ」や「憂い」に、どっぷり浸ったまま、体の動きが麻痺したように、
「より深くねむり」に誘われている人は、いないでしょうか?「腰」・・・それは「〈引きしめられた〉からだの要(かなめ)」!?
その中心が「偏る」時、人は病み、そして死を早めることにもなりかねません。とはいえ、もともと湿地の泥の中に棲む「ドジョウ」くんと比べられても‥
となりそうですが、そこは話は話として、そっとしておくに限る・・・かな?
それとも・・・「鰌」・・・それは「全身〈引きしめられた〉水の中の生物」!?
ん〜、ちょっぴり、意味深・・・?☆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
民は木の上にいると、ガタガタと震えて恐れにのっとられてしまうが、
猿ではどうだろうか。
【木処則惴慄恂懼 猿猴然乎哉】
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜*またまた【木処則惴慄恂懼】とは、とってつけたような仰々しい形容!?
それなのに、【猿猴】をひき合いに出して、それで終わり?天地篇や応帝王篇などに「猿猴の便」という言葉が登場しています。
これらは、似かよった話のようですが、前後の意味が釈然としなかったせいか、
似た字や言葉が入り交じり、誤りだとして、加筆されたり削除されたりして、
様々な説が飛び交っています。天地篇の話を中心に、私なりに受け取った印象で、ここに再現してみます。
∈ ∈ ∈ ∈
∈ ∈ ∈ ∈
夫子が尋ねた。
「道を治めるのに、相対するものをそのまま放っているかのような人がいます。
不可を可とし、不然(しからず)を然(しか)りとして‥。弁者の語る言葉の
『堅白*を二つに並べ離すも、仮宿に宙ぶらりんに吊るしておくが如し』という、
そういう人を聖人というのでしょうか?」 (*堅白‥論理的分類をする詭弁)老タン(老子)は言った。
「これは、相並相対の足どりは難なくつづき、手にする枝は次々に伸びるような、
形はその力を最大限に尽すとも、心はやすらいでいる*者のことだ。
つながれ留められている犬(の足どり)は、同じところにどんどん重なるが、
【猿猴】(の足どり)が便(軽業的融通自在)なのは、山林から来たからだ。」
(*心はやすらいでいる‥?(おそれる)天地篇⇒〔休の人→心〕応帝王篇)
∈ ∈
∈ ∈相互に出す足の歩みは、どこまでもスムーズに・・・力を出し尽くす!?
手にする枝、繰り出す技はまるで生きているかのように、どんどん伸び尽くす!?
そして、
続く足跡、受け継がれた痕跡だけが、道の上に残されているのかもしれない‥。さあて・・・
私たちは「つながれ留められている犬(狗)ではない」と言い切れるでしょうか?
「猿猴」とは、あくまで「猿」のことなのでしょうか?「形はその力を最大限に尽すとも、心はやすらいでいる」のは、犬?それとも猿?
──民は木の上にいると、ガタガタと震えて恐れにのっとられてしまうが、
猿ではどうだろうか半・眠・状態の「民」(⇒字源解釈)は、「木」を「居処」にしようとしても、
その足場が、「高み」や「山林」という、今や慣れない「未知」だとするなら、
背中はズイズイ、目はキョロキョロ・・・恐怖と不安に足はすくみ、
とても歩を進めるどころではなくなってしまう・・・
ところで、そんな「民」は、「猿」となる可能性はあるのでしょうか・・・
それとも、あくまでも民は民、猿は猿なのでしょうか・・・☆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
いったい三者の誰が、まさに〈居処〉を知っているということになるだろうか。
【三者孰知正処】
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜*それぞれ個々には、それにふさわしい「足置き場」や「持ち場」があって然り、
その区別を「理解」することと、比較や勝敗の軍配を下す「審判」とは、
まったく別のことなのかもしれません。「処」・・・それは「足をのせて、心のやすらいでいるところ」?
「自分自身に」もっともふさわしい「処」を、誰が「知る」のでしょうね。∈ ∈ ∈
老タンの話は続きます。
「丘よ、私はあなたに『聞く事もできず、言うこともできないこと』を告げよう。
凡そ、首(あたま)があり足があっても、心がなく耳がない者は衆(おお)い。
形あるものと、形なく状(すがた)ないものが、そろって共存している者は、
ほとんどと言っていいほどいない。」
∈ ∈☆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
民は、(束ねた刈り草や囲った)家畜を食べ、
麋や鹿は、(一角聖獣の餌となる)美しい草を食み、
ムカデは、帯(へび?)を(じっくり長々と吟味して)甘いと思い、
フクロウやカラスは、(時間が経って腐ったような)鼠をうまいとする。
【民食芻豢 麋鹿食薦 ?蛆甘帯 鴟鴉耆鼠】
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜*知ってか知らずにか、自らを養うにふさわしいものを、生物は口にする・・・
首(あたま)と足が必要とする食べ物、 心と耳が必要とする食べ物、
形あるものが欲する食べ物、 形なく状(すがた)ないものが欲する食べ物、
それらは、いったどんなものなのでしょう・・・?☆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
いったい四者の誰が、まさに〈味〉を知っているということになるだろうか。
【四者孰正味】
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜*「味」は、「何か」を「知らせる」センサーなのでしょうか?
その「滋養」を「求める衝動もと」は、「何」で「どこ」にあるのかを知らせる‥
また、時に甘いものを、時に渋いものを、とその「要求」は変化する・・・?
私たちは、「様々なものを養う」ものを、どれだけ吟味しているのでしょうね。∈ ∈ ∈
老タンはこうしめくくっています。
「動と止、死と生、廃と起 ‥これらはまた、
人の手やすきを以ってするところのものではない。
治めようとするところには、人が介在する。
物を忘れ、天を忘れる‥名づけて『忘己』‥忘己の人こそ、天に入ると言う。」∈ ∈
「道を治める」「知を治める」「天下を治める」・・・
「治めよう」として、そうしようとしている「おのれ」こそを「忘れる」・・・
この矛盾のようなパラドックス・・・「知る」とはいったい・・・?
それは、そうしようとしている「おのれ」を「忘れる」こと・・・!?
師の示す「知る」ことは、「おぼえる」よりも「忘れる」という、
『聞く事もできず、言うこともできないこと』・・・!?
○ 。゜: ○ o ゜O 〈大宗師編より9(1)のつづき〉
どんな人を「真人」といえるのか・・・
古えの真人は、
「わが身ひとつ」になっても逆らわず、成しても肩を張って見せることはない。
・・・このような者は、過ぎたることがあっても悔やんでふさぎこむことなく、
まさに的を得たことがあっても、得意になるようなこともない。このような者は、【 高みに登っても怖れることなく、】
【 水に入っても濡れることなく、】火の中に入っても熱がることもない。
・・・古えの真人は、寝ていても夢を見ず、覚めていても憂うことなく、
【 食べても甘んずることなく、】その息は深々としている。
真人の息は踵(かかと)をもってする。だが、衆人の息は喉でもってしている。
人とぴったり並行して流れるものに、小さく屈(かが)む者は、
言葉に喉がつかえ、エッ(哇)とむせぶようなものだ。
【(時間が経って腐ったようなものの)耆(うま)みの欲求が深い者は、】
天の「機(兆すからくりに組みいること)」においては浅いものだ。。゜ ○ o
★私達は、高みにのぼったら、やっぱりまだ、ガクガクとふるえる者ですね。
![]()