さて、漢字の 愛
はどのようにしてできたものだろうか。
もともとは (心)と (夂)と (旡) が組み合わさってできたものだ。
「心」は心臓の象形、「夂」は下向きの足(足をひきずる)を表わし、
「旡」は人が胸を詰まらせて後ろにのけぞった(まんぷく)状態を示している。
これがどうして「あい」なのか・・・学説としては、いろいろある。
藤堂明保氏は「心がせつなく詰まって、足もそぞろに進まないさま」、
白川静氏は「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとするさま」などとしている。
『漢字源』EPWING版 学習研究社 ⇒
編者 藤堂明保 松本昭 竹田晃より
めでる
という表現は、今ではほとんど死語になっているといえそうだ。
では‥と、漢字から現代語に置き換えて 愛する
とすると、どこかしっくりこない。
その言葉を表にかざしすぎてしまうと、なんだかキリスト教的な概念がつきまとい、
こそばゆいような、少々うさんくさいような感覚をもってしまう人も少なくないにちがいない。
それとも、恋
の延長線上の多少変形した概念、いい方の問題‥程度のことだろうか。
あるいは、好
が強烈になった、性的欲求に基づくもの‥とする人もいるかもしれない。
ちなみに 恋
のもともとは 戀「心+絲+言」で、糸がもつれたように心が乱れることから、
好
は「女」(母)が「子」を抱くように、だいじにかわいがることからできた・・・とされている。
実は、この 愛
は、さらに古くは「夂」がついていない
「旡+心」という字だったようだ。
これによく似た
「旡+火」という字があるが、これは現在の気(氣)「气(ゆげ)+米」で、
自然界にある「目に見えない気体」という概念で、ひとくくりにされてしまったもののようだ。
私の知るかぎり諸学説では、
と
は、音の違いからか、同源とはみなされていない。
だが、私には、ここに秘密があるのではないかと思えるのだ。
古来の
は、外界に存在する無機的気ときわめて類似してはいるものの、それとは別の、
あくまでも人体(有機的生物)の中で、運動、刺激、摩擦、代謝などによって起こる火によって、温められ、熱せられた「見えない気体状のもの」の充満する
旡の状態を示していたものであり、
一方
は、同様に人体の中、気持ちや感情とも関係するだろう
心(心臓、中心)によって、
その温もりなどによる変容(生育)をもたらす原動力ともなるような「目に見えない何か」が、
充満して留めおかれる 旡の状態を指し示していた・・・といえるのではないかと。
後に、足 夂が加えられ、
を懐に道(生)を歩んでいくのを 愛
といったのかもしれない、と。
漢字の字源のはなしはこのくらいにして、
古来日本の独自の概念に則り、音と漢字の融合において培われた日本語・・・ (⇒ことだま)
やまとことば としての
めでる
のはなしにもどるとしよう。
その音に近いものに、「めでたし」ということばがある。
これは 目出度しとも 芽出度しとも書くことがある。ただの当て字だろう・・・
というところで決着がつきそうだが、出産祝いには
女出度し
となるやもしれない・・・
などと、私のような素人考えでは何でもありのようにして単純に類推、想像してしまいがちだ。
ところが、
専門家に言わせると、現代同じ「め」でも、古代には厳密には違う発音をしていたらしいのだ。
では、目 と 芽
と 女(雌)
・・・ これらは現在、たまたま偶然、音が同じというだけだろうか?
もう少し別の角度からもいろいろなことばをみてみよう。
目に関連付けられそうなM行の発声をする語に注目してみると、
「ま」は、まなこ・まぶた・まゆ・まばたき・まばゆい・・・などからそれをみて取れる。
あるいは、まと・まえ(へ)・まもる・・・なども関係がありそうだ。
「み」も、みる・みにくし・・・など、その音と「見」の漢字からつながりがありそうだ。
「む」は?と考えると、むく・むかえる・・・などが挙げられるかもしれない。
「め」には、めず(づ)らし・めぐむ・めぐる・めす・・・などの他、めぐしということばもある。
「も」は、もとむ、あるいは
もの(不可視だが存在する何か)あたりのことばがそうなのかもしれない。
ここで、それらが
めでる
と果たして関係あるのか、「め」音のことばに注目してみる。
まず、「めづ」という音声に相応していた漢字は‥というと、愛の他に
感・賞
が使われていた。
逆に、愛という漢字は「かなし」と訓よみして、悲・哀
と同じ意としても用いられていた。
上記の「めぐし」というのも、「切なくかわいい/黙って見ているに忍びなく、いとおしく気がかり」という意味で、愛の字の他に、優・愍(ビン・ミン:憐憫のような意)の字でも表現されていたようだ。
どうやら、「めづ」とは、自らの胸の内(心)が痛むほどに感じることが基本といえそうだ。
次に、「めす」という言葉は
見・召・食 の意味をもった、相手に対する尊敬語だが、ここには賞
の意味とあい通じるものがあるようだ。賞賛・賞味・褒賞ということばが作られるように、対象を「ほめたたえる」という気持ちの奥に、自分の内に受け入れて感じるその対象を「貝(財宝)」であるかのように見なしていることがうかがえるからだ。逆に自分から対象に対して能動を表すものの中に、まをす(もうす:申・奏)とかまゐる(もうでる:参・詣)いう謙譲語やまつる(祭・祀・奉)などがあるが、それらからも同様の気持ちが汲み取れそうだ。(一般的な自己卑下ではなく)
そうしたところから考えると、珍・希・稀
などの字で表現される「めづらし」(まれ)は、「容易に見がたい」と思えるものに出会い、それを「見続けていたい」と願う(希望する)ことで、そこには、やはり対象に「貝(財宝)」としての貴重なものを感じる気持ちから派生したものといえそうだ。
(※貝は目とは無関係)
「めぐむ・めぐみ」は、現代では「情け、憐れみなどを与える(与えられるもの)」という感覚で使われるが、もともと恵(惠)の字自体は「〔上の字(まるい糸巻きの輪をぶら下げたさま)〕+心」からなり、「与える」というより「相手をまるく抱き込む心」を表わすものだったようだ。また、それ以外に恤という字も当てられていた。〔血〕は「全身くまなく巡るもの」という意味から、恤は「心を配る・すみずみまで思い巡らせること」を表わすものだ。簡単に「心の血」ともいえるかもしれない。そうすると、「めぐむ」というのは、心の目でぐるりと見渡し、まるく包み込むことであり、そのことにより自ずと二者の差異によって流れ出でる(移行する)滋養となるものがあるといった感じを表現したものだったのかもしれない。
「めづ(愛)」と「め(目)」が何らかの関連があっただろうことは、(多少の違いはあるものの)現時点での学説でもいわれていることだが、「めくる」や「めぐる」は別扱いとされているようだ。けれども、恵・恤
という漢字と「めぐ」音を重ね合わせたところからしても、すでにそこには、包み込むようなまるや循環する「めぐり」という概念が含まれていたと思う方が自然ではないだろうか。
そんなこんなに思いを巡らせながら、自己流にことばを綴れ織れば、
目出(めづ)とは まなざしをむける
ことで、その対象に焦点を合わせるとき、
それを照らし感じることであり、同時に、擁くように対象と一体となり
みまもること・・・
そんな出会いとは、自分という枠から出ての、対象とのめぐりあいともいえ、
自他の違いに気づく稀な機会、貴重な新奇なめづらしきものとして、
また、それをすぐに壊れてしまいそうな(もろい)ほどの微妙で美しき魅力をもったものとして、
たまのように丁重に扱い、敬意をもって互いにもうしあげ、めしあがり賞味する・・・
そのなかでも丁度、節目に一遇できたなら、実にめでた(目出度)きことであり、
そうしたことに交わり組するものが、めぐみということになるのかもしれない・・・
なんてことを思ったりする。
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