下記はダウンビート誌に記載されてあるデータですが、曲目が若干違うようです。
Wes Montgomery(g) Buddy Montgomery(p) Monk Montgomery(b) Billy Hart(dr) Elvin Bunn(cga)
14th. Newport Jazz Festival : July. 1967
Tquila
Bumpin'
このフェスティヴァルでウェスはリクエストに応じた2曲を電激ビートでプレイしていたと同誌
に書いてあったが、日本からも2組のプレイアーが参加していた。
袴姿でバンブー・フルート(尺八)の山本邦山がいっそう民族的なプレイを見せたあと、もうひと
組は原信夫とシャープス・アンド・フラッツも出演していたというので、現評論家当時バンドの
一員として活躍した本多俊夫氏の話しを交え紹介するが、ダウンビート誌には彼等の事で次のよ
うにかかれてある。
『今回のフェスティヴァルで他の革新的なビッグ・バンドとの交渉が間に合わなかったが、ただ
ひとつのビッグ・バンドで卓越した新しさの人達がいた。それは東京のシャープス・アンド・フ
ラッツの18人で、優秀なショー・バンドはテナー奏者の原信夫によって指揮された。
彼等はニューポート訪問中に近くの更正施設でも収容者のためにコンサートをしたが、それは最
初のジャズ・フェスティヴァルの呼び物であった。』
【ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルの思いで】
音楽評論家 本多俊夫
ウェス・モンゴメリ・クウィンテットの演奏が始まると、ステージの前を陣取った全米各地か
ら集まったレポータやカメラマンまでが取材を忘れ中にはゴーゴーを踊り出す奴もいたね。
ニューポートに初出演、なかなかの好評を博した我シャープス・アンド・フラッツの連中と一緒
にウェス・モンゴメリのステージを観ていていささか興奮気味に話し合っていた。
「彼は独学だからあのようなプレイが出来たのだ!」
「何と言ってもユニークだよ!」
「兼ねてから噂は聞いていたが、いや驚いたね!」
演奏が終わると私はステージ裏へ駆け込んでいた。
本多 : 本当に素晴らしかった。
ウェス : ありがとう。
本多 : あなたの奏法はたいへんユニークなんですが、それにしてもよく指が動きますね。
ウェス : いつもの通りさ。君もギターを演るのかい。
なんて話したのですがもう古い話しなんで殆ど忘れてしまったよ。
徳井 : それでウェスと逢った感想を聞かしてください。
本多 : ウェスと握手を交わしたとき彼の手が固くて大きかった印象が強く、私もギターの
経験はあるもののあのような乗りを披露するのはウェス以外にはいないと思った。
徳井 : 1960年中頃、既にウェスはアメリカでは一流の人気プレイアーだったのですが、日
本ではどうだったのですか。
本多 : その頃、私はラジオ日本のジャズ番組で《インクレディブル・ジャズ・ギター》を
流したのですが、このアルバムは私自身ウェスを初めて聴いて感動したお気に入り
の一枚でね、でも彼の知名度もまだまだ低いものだったよ。
徳井 : ニューポートの翌年6月にウェスは昇天したのですが。
本多 : 突然ウェスの死が報じられが信じられなかったよ。いつまでも彼の独特な演奏が目
に浮かぶようで・・本当に日本に来てもらいたかったね。
徳井 : どうして日本に来なかったのでしょう。
本多 : さっきも言ったように、日本ではウェスの人気も薄く彼の腕を賞賛する評論家も少
なく打算的な興行主は手を出さなかったんですね。
徳井 : 残念ですね。最後にウェスのベスト・ソロなど聞かせてください。
本多 : 私は以前から心に決めたベスト・ソロとして3曲掲げる事が出来ます。
@《Helen Merrill / Emarcy MG-36006》のアルバムから〈You'd Be So Nice To
Come Home To〉のクリフォード・ブラウンのソロ。
A《Star Dust / Decca DL-4194》のアルバムから〈Star Dust〉のハンプトンの
ソロ。
B《Full House / Riverside RLP-434》のアルバムから〈Blue 'N' Boogie〉の
ウェスの見事なソロ。
これに尽きますね。
このインタヴューは、1992年11月13日私の手紙から突然本多氏より電話を戴き親切にも答えてい
ただきました。(このときがおとずれるまで大事に温めていました。)
ここでウェスの日本公演についての記事がSJ誌1968年8月号【MY LIFE IN JAZZ】のコーナー
で、マックス・ラッシュなる人物が "ウェス・モンゴメリの想い出" として投稿されていたので
一部を紹介する。
「1953年の冬、私がまだインディアナ軍事地区の兵徴募機関の渉外担当下士官だった頃、インデ
ィアナポリスの有名ホテルのラウンジで、その頃素晴らしいカクテル・ピアノを聴かせるアール
・ヴァン・ライパーというピアニストを知り、何度か通ううち彼の家に招かれ
たことがあった。
そこで彼のトリオが二流のサパー・クラブに出演していた時のテープを聴かせてもらったが、そ
のひとりがウェス・モンゴメリだったのです。
・・中略・・1961年になるとウェスの名前は全米各地にとどろいていましたが、その頃私もウェ
スを日本に呼ぶようにあるプロモータに話したところ、『ウェスはまだ日本に招くほど大物でな
い』と断られました。
それをウェスに伝えたら、他の2兄弟からも『日本にはたいへん行きたいが、でも飛行機では何
処へも行きたくない』とのことでした。
1967年の夏、私はモンゴメリ3兄弟とサン・フランシスコの "エル・マタドール" で再会しまし
た。
その時も日本行きの話しをしたところ『特にバディが飛行機に弱いんだ。彼だけでも船で2〜3
週間先に出発させなきゃならない。
その問題が無ければ明日にでも行きたい』と答えてくれました。」
この記事を読んで、ああ "日本の××" さん何で呼ばなかったの、そう思い出した《ボス・ギタ
ー》の映画の話しもつぶれたんだ。
この年のダウンビート誌には、バディー・リッチのグループやウッディー・ハーマンのグループ
の日本ツアーがこの秋に予定されていると書かれてあり、日本のジャズ・ファンの投票から得ら
れた最近のテーマというコーナーでは何処から調査したのか次のようなことも書かれてあった。
質問 : あなたはどんなジャズ・アーティストを観たいですか?
回答 : 1番目の選択は エロル・ガーナ 、第2番にナンシー・ウィルソン、3番目はウェ
ス・モンゴメリであった。
どこが『ウェスはまだ日本に招くほど大物でない』と言うのでしょう。なんて不運なウェス・・
おお神様。
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