SJ誌では元編集長の児山紀芳氏が
6月16日の朝刊でウェスの死を知り、
急遽取材に趣いたが皮肉も葬儀の終わ
った18日(火)の夜ロス・アンジェルス
に着いたと書いておられた。
間に合わなかったにせよ、取材にせよ
恐らく日本人で駆けつけたのは児山氏
だけと思うが、その当りの事情に詳し
い【特報!ジャズ・ギターの巨星墜つ
】より "インディアナポリスの長い暑
い日" のくだりを紹介する。
写真提供/高石賢一
「ウェスは死の直前まで兄弟と共にクウォーテットを組んでいたが、6月15日は久し振りの休暇
とあり実家にいた。
最近は、そのポピュラリティを反映して、彼のグループはスケージュールもぎっしりと詰まってい
た。今年の "ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル" を初め、この7月ロスでは "シェリーズ
・マン・ホール" への出演が予定されていたし、6月25日にはNJのルディ・ヴァン・ゲルダー・
スタジオでクリード・テイラーが次作の吹き込みをプロデュースすることになっていた。
更に8月20日から25日まで、NYの "ヴィレッジ・ゲイト" も "ウェス・モンゴメリ・クウォーテ
ット" の出演を既に予告ずみであった。
それだけに、ロスでもNYでも私が会った多くのジャズ・メンはウェスの死を悼み、同時にショッ
クを受けていた。
NYでは、誰よりもクリード・テイラーが今にも涙をこぼしそうな表情で私の問いに答えた。
A&Mレコードを通じて、いま意欲的なCTIシリーズを世に送り出しているプロデューサ、クリ
ード・テイラーはNYからはるばるインディアナポリスに飛び、葬儀に参列したひとりだ。
ロスに留まっていたバディとモンクの兄弟も既に実家に駆けつけていたと言うし、A&Mレコード
の経営者のひとり、ジェリー・モスやウェスと生前親交の深かった有能なアレンジャー、ドン・セ
ベスキ、マネージャのジョン・レヴィなどが葬儀に参列した。
その日インディアナポリスは異常な暑さがいつまでも続き、再びジャズの世界を襲った悲劇に、よ
り強烈な印象を与えたという。
葬儀はパプティスト教会で地元の沢山の人達を集めて、終始厳かに執り行われた。
教会ではコーラスとオルガンの合奏があり、ドラムスのロール音を殺した響きが教会を荘重な雰囲
気で包み、悲しみをさらに一層深いものとした。その音楽は、天才ウェス・モンゴメリが永遠にそ
の名を記憶されるであろうアメリカ黒人の芸術=ジャズの源を人々に知らしめるものだった。
クリード・テイラーはこのとき、『ジャズの世界で名を遂げたウェス・モンゴメリは、これでジャ
ズの故郷に永遠に還ったのだ・・』としきりに自分に言い聞かせていた。
・・その彼はCTIを設立し《ア・ディ・イン・ザ・ライフ》をプロデュースするまでに、編曲家
演奏家へのギャラやスタジオ使用料だけでも、実に6百万円以上の経費を費やしたということだっ
た。
彼がこれまで手がけた無数のレコードのなかで、たった一枚快心作を選べといわれたら文句なしに
《ア・ディ・イン・ザ・ライフ》 (訳注: なにせ37週間連続 "ビルボード誌ベスト・セラー" のト
ップ)だ・・と語った。
6月25日火曜日、予定ではウェスは休暇を終えてNYのクリード・テイラーのオフィスに次回作の
打ち合わせに来る事になっていた。
予定を変えてテイラーは、その日NJのイングルウッドクリフにあるルディ・ヴァン・ゲルダー・
スタジオにかけつけ、ウェスが生前吹き込んでいたLP一枚分の未発表テープを9月までに追悼ア
ルバムにして出すための最終チェックにはいった。」
まあ実際には翌年の2月に《ロード・ソング》としてリリースされたのですが、何をてこずって
いたのでしょう。
|