Lionel Hampton Vol.9/1950/MCA Coral 6.22422
アルバム名 : Lionel Hampton Vol.9/1950
アルバム番号: MCA Coral 6.22422
リリース国 : Germany
リリース年月: 1976
メディア  : LP


Duke Garrette, Ed Mullens, Benny Bailey, Leo Shepherd, Walter Williams(tp) Al Grey, Jim-
my Wormick, Benny Powell, Paul Lee Higaki(tb) Bobby Plater, Jerome Richardson(as) Curtis
Lowe, Billy Williams, Johnny Board(ts) Lonnie Shaw(bars) Lionel Hampton(vib) Doug Duke(p
.org) Wes Montgomery(g) Roy Johnson(b) Ellis Bartee(dr) Sonny Parker(vo)
                                                                     N.Y.C.; Jan.25,1950
          Sad Feelin'                             [2:45]      
          Hamp's Gumbo                            [2:40] 

Lionel Hampton(vib) Doug Duke(org) Wes Montgomery(g) Roy Johnson(b) Earl Walker(dr) Jim-
my Scott(vo)
                                                                     N.Y.C.; Jan.26,1950               
          Please Give Me A Chance                 [3:10]       
          I Wish I Knew                           [3:01]       

既に周知のごとく、ウェス・モンゴメリは1948〜50年にかけてハンプトン楽団に在団していたが 当時のハンプトン楽団といえば、多くの若きミュージシャンが一人前のプロになるための登竜門と して殺到していた。にも係わらずその実状に詳しく迫った文献がみあたらないため多くの謎を抱え ていた。 が、幸いにもウェスに関しては彼へのインタヴュー記事などからその時の行動や考え方が早くから 窺えていた。しかし、最近ハンプトンの自叙伝から総ての様子を記した本が、ワーナー・ブックス の“Hamp”というタイトルで出版されていることを確認したので、その一部を紹介する。                                            = T h e P o s t w a r Y e a r s (戦後篇)= ライオネル・ハンプトン                                              ブラック・ミュージックは、確か1940年の 私がブラック・ミュージックを白人ファンの 終わり頃から注目を集めたと思うんだ。 あいだに流行らせる役目をしたと思ってる。 ビルボード誌が、R&Bのチャートを(ブラ それ以前からも多くの素晴らしい黒人ミュー ックのレコードしかチャートに入っておらず ジシャンを広く紹介してきた訳だが、例えば )掲載し始めたのが1949年のことだったよ。 1948年暫くの間、私はギターにウェス・モン R&Bそのものがブラック・ミュージックを    ゴメリ、ベースにチャーリー・ミンガスを加 意味していたが、昔のレース・レコード(差 えたバンドを率いていた。 別的な意味を持つ人種レコード)よりは、よ 誰もミンガスと演りたがらなかったときに、 っぽどましな呼び方だと思うよ。     私がカリフォルニアからNYまでのロードに 私と古くからの友人で皆も知ってると思うが 連れていったんだ。   ナット・キング・コールが〈ネイチャー・ボ インディアナポリスでは、小さなホームタウ ーイ〉を一位でヒットさせたとき、白人のフ    ン・バンドでプレイしていたウェス・モンゴ ァンにおおいに受けたのがその前年で、私は メリをみつけ彼もその後大物と呼ばれる一人 いつも彼に他のことは考えるな、唄うことに となったが、同じ頃いたトランペッターのテ 専念すべきだと言ってきたがそれがとうとう ディ・バックナーはいつ聴いても美しいサウ 成功したんだ。 ンドをだせる奴でね、ルイ・アームストロン それにビリー・エクスタインも白人が好みそ グからペットを贈られたことがあり、『君こ うな曲をレコーディングしてたようだ。 そ真のトランペッターだ』、と褒められたぐ らいなんだ。   
                        コンサートやレコーディング、それにラジ はっきりとは覚えていないが、そういえばそ オ中継やらで我々がブラック・ミュージック の就任式典にほかの黒人ゲストはいなかった を広めていったことにより、人種(白人と黒 ように思う。 人)の境界線を無くす手援けをした、といっ ということはその時点では、公式な場でのラ てよいと思うんだ。               イヴ・パフォーマンスはまだ完全に人種の境 私が最も光栄に感じていることの一つは、19 界をこえていないということだね。 49年1月19日に大統領ハリー・S・トルーマ    それからは大統領という条件下で、一人の人 ンの就任式典に招待され、プレイしたことな 間が成しえる改革に注目するようにしたんだ んだ。 けどね。 我々はブギ・ウギ風にアレンジした〈ミズリ 我々は黒人のステージは勿論、白人だけのス ー・ワルツ〉でトップを飾ると大統領は気も テージでも出演していたが、たまに白人のコ 狂わんばかりに跳びあがって大手を振ってい ンサートで数人の黒人が階上の席で観ている たし、会場は大いに沸き立っていたよ。 ようなこともあったようだ。 でも、何も大統領だけのために演った訳では とにかく私のバンドはよく働き、1年52週で ないんだけど、終わると彼のほうから握手を 百万ドルの収益を上げていたが、そのうちの 求めてくれたんだ。 51週が一晩興行だったんだ。 トルーマンは在職中、人種差別撤廃をスロー それに音楽業界にも手を広げ、音楽出版“ス ガンに力を尽くしてくれ、ジーン・ケリーな ウィング・アンド・テンポ”を設立し主に私 ど多数の白人パフォーマー達と一緒に、リナ の作品を出版したんだが、“ハンプトン・レ ・ホーンと私をその式典でプレイさせること コーズ”というレーベルも同時に発足し、グ から始めたんだ。 ラディスが双方の経営者に就いた。
アーメット・アーテガンが、アトランティック・レコーズを設立したのが同じような時期で、彼 はまだ1万ドルの資金が不足だったので、グラディスと私に共同経営の話を持ちかけてきたとき、 グラディスは私にこういった。 『私達には私達のレーベルがある。パートナーなんて要らないわ』。思えば、あれが今まで彼女が 下してきたビジネス上の決定で唯一の誤りだった。だって我々には出資することもできたんだから ね。グラディスは少々見栄っ張りな性格で、いつも指にダイアをはめ毛皮のコートを着ていたが、 小さなスポーツカーを乗り回すほどの行動派でもあった。 1949年、女性国防軍(The WANDS)の最高司令長官マリー・ビザーンにより、1948年度モースト・ アウトスタンディング・ウーマンに選ばれた彼女は、キャリア・ウーマンの鏡、そしてアメリカの バンドでは唯一の女性マネージャーとして、ビジネスや経営能力において類稀なる手腕を発揮した として栄誉が授けられたんだ。
私にとって稼げるバンドとはいつも数人の グラディスはジェロムをとくに気に入ってい シンガーを雇っているということで、ジミー たらしく、彼の頼みに応じて金も貸していた ・スコット、ジャッキー・パリス、ジャネッ が、他の男には貸さなかっただろうけど、と ト・フランクリン、イルマ・キャリー、他に にかく彼女に気に入られた人物はちょっとし も女性シンガー2〜3人が唄ってたね。 たことで上手くやっていけることができたん ジェロム・リチャードソンもその頃に登場す だよ。 る。(訳注:このあたりハンプトンもはっき その頃のバンドマンのギャラは一晩で23〜25 りと覚えていないらしく、ディスコグラフィ ドルだけど、日給週給制だから出演しなけり 的にみてもクウィンシーと同じ1951年という ゃ差っ引かれるだけで、でも大抵出演してい ことになる)が、実は15年ほど前オークラン たがね。 ドで私のバンドに一時いたことがあるんだ。 大劇場やコンサート・ホール、それにクラブ その時も、彼の親父が学校をでるのが先だと など殆どが一晩興行で、移動にはバスで国内 いってジェロムを連れて帰ったが、シスコで を横断し北や南へとロードが続けられたのも 再会したときは勿論卒業していて私のバンド 行く先々で歓迎を受けたからであり、我々は に入ってくれたよ。 疲れをみせずにいつもよいショーを心がけて 彼はセカンド・アルトを担当し、フルートも きた。 こなし時には唄ったりもしてたようだが、あ の〈キングフィッシュ〉のレコーディングで は彼のアルトをフィーチャーしたことを覚え ている。
  そしてトロンボーンのアル・グレイがいた 確か1948年のことで、彼女は数人の友達と一 以前ジミー・ランスフォードやラッキィ・ミ 緒に踊りに来ていて楽屋のあたりをうろつい リンダーと一緒に演っていた彼は、“世界の ていたんだ。 ベイシー楽団”にいたスタンレイ・ダンスに 彼女の友達らは、彼女がシンガーになりたが 私のバンドにきたらまるで違う雰囲気だった っているのを知っていて、そのうちの一人が といってたらしく、『バンドの連中がプレイ 彼女に唄わせて欲しいって願って来たという のなかで手を叩いたり指を鳴らしたりすると 訳なんだ。 ライオネルがいうんだ。 その2週間後、私はデトロイトに住む彼女の 【Gate,eh-eh-eh‥指を鳴らせよ、 Gate !】 エージェントに電報を打ちオハイオ州でベテ 最初は何のことか解からなかったけどいまま ィと合流したとき、既に彼女はビーバップに でとは違った感覚、より力強くてリズミカル 夢中で、ディジー・ガレスピーやチャーリー で総てが新鮮に感じられたよ。 ・パーカーと共演してたんで、本当に驚いた 人生のより人間的な部分、音楽のより楽しい よ。 部分を教えられたよ。一度はハンプのような 1949年頃私はまだスウィングを演っていたが 素晴らしいリズム感を持ったプレイヤーらと バンドのレパートリーにいま流行のビーバッ 経験するべきだと思う。』と聞いたよ。 プ・サウンドを少しとりいれてもいいなと思 あの頃は素晴らしいプレイヤー達と一緒だっ う気持ちになったんだ。 た。 普段ダンス・ミュージックを演るときはシン ガーを使わなかったが、デトロイトのフォレ スト・クラブで初めてベティ・カーターに唄 わせてみたんだ。
   彼女に“ベティ・ビバップ”というニックネームをつけたのは私で、当時私も気に入っていた曲 で〈ザ・ハックルバック〉を伴にレコーディングしたんだが、でも殆どスキャットの彼女はまだ18 歳ぐらいでこれから大きくはばたこうとしているところだったよ。 私のバンドにはダイナ・ワシントンと同じ約2年半いたかな。(訳注:在団期間をディスコグラフ ィ的にみるとダイナは1944〜45年のレコーディングにみられ、ベティは1948〜49年の間にみらける 。)グラディスはベティにとても親切で、衣装のことまでアドバイスしていたがよく自分の服を与 えたりもしてたようだ。                そして、音楽界での女性の在り方についても色々とアドバイスしながらも、『男性が彼女を嫌って いた主な理由は男まさりだったからよ』。 だけど『彼女にとって有利だったのはバンドを経営していたことだわ』。とベティがいってたのを 思い出すよ。   私がベティを“ベティ・ビバップ”と呼ぶのを彼女は嫌がっていたが、グラディスは彼女に『今は そんなことを気にせず一生懸命やんなさい。そして一人前のプロになったら自分が呼んでもらいた いように呼ばせればいいのよ』。といっていたけど、彼女は未だに“ベティ・ビバップ”と呼ばれ ているんだ。 ベティは色んなところで唄うチャンスが欲しくて、ついに私のバンドから去ることになったが当然 【可愛い子には何とやら】数多くのバンドを経験することに、私は励まし奨め見守ってやったよ。
私がベティを雇った同じ1948年にシアトル (訳注:〈キングフィッシュ〉をレコーディ をロード中、クウィンシー・ジョーンズとい ングしたのはディスコグラフィ的には1951年 う名のまだ15歳の若いプレイヤーが楽屋を訪 10月MGMでのことであったため、実際にこ ねてきて、〈ザ・フォー・ウィンズ〉と題さ の話は約束どおり卒業したクウィンシーが入 れた自作曲をみせ『演ってくれないか』、と 団してから録音したことになる。) いってきたので‥‥それがすごくいい曲なん     だ。                       クリフォード・ブラウン、ファッツ・ナバ 話をするうち、この少年がシカゴでペットを    ロ、ジミー・クリーヴランド、ベニー・パウ 吹いていたと言うので演らしてみると、サー エル、イリス・バーティー、ビリィ・ミッチ ド・トランペットをなんなくこなしたんで暫 ェル、ジェロム・リチャードソン、(訳注: くのあいだ、たしか学校が夏休みだったので 何故ここでウェスの名前が思い出せないのか 雇うことにしたんだ。   、ハンプの××)なんかと本当に息が合って 少年はその間に〈キングフィッシュ〉という いて、ただプレイするだけではなく楽しませ 曲を書きレコーディングもしたが、本当に天 るということを知っていた。 才児だよ。 クリフォードはデラウェア州ウィルミントン 夏休みが終わる頃、少年は正式に雇って欲し のYMCAで、小さなローカル・バンドと演 いといってきたが、いうまでもなく私もその っているところをみつけたんだ。 気でいたにも係わらずグラディスは『少年に その頃私はソニー・パーカーと一緒に演って 学校を辞めさすつもりなの』、ということに いたが彼がブルーズをがなると必ずアル・グ なって、それで少年が卒業すれば私のところ レイがしゃしゃり出てくるのを観て、観客は で雇うという公認の約束をして別れたんだ。 やんやの喝采を送ってたよ。
ビリィ・ミッチェルは若きテナー奏者で、我々がオークランドの“オディトリュウム”に出演し たとき‥それが偶然かそうでなかったは忘れたが‥彼が吹き踊ってステージから後ろ向きに墜ちて いったことがあったんだ。 観客は彼をステージに押し上げてくれたんだが、その間ずっと吹き続けていたことに大爆笑を誘い それからはそれも演出の一部となったんだがね。その後彼は麻薬で捕まってしまったんで、急きょ ジーン・モーリスに代役を命じ、ロシアのコザック・ダンスをやらせたらこれが又はまり役となり 以降彼はあらゆる注文を押し付けれられることになったよ。               ジェロム・リチャードソンといえば、我々がブルックリンの“アーマリー”に出演したときのこと を思い出すよ。ダンス・ホールだと思ってたんだが、我々がプレイしても客は踊らなくてね、それ でワン・ステージが終わり交代のラテン・バンドが演りだすと、誰もが踊り始めたんだ。     ジェロムはこんな惨めなステージは耐えられないと言い出したんで、次のステージに上がったとき ジェロムにこう言った。〈ビギン・ザ・ビギーン〉を演れるかい?‥‥『ああ』、と彼は答えたの で、じゃあ君のフルートでラテン風に演ってみな、と私は告げ、リズム・セクションをラテン・ビ ートに変えると、みんなが踊りだしたのでその夜はずっとラテン・スタイルで通したんだ。 私のモットーは『いつも観客に合わせてプレイする』、ということなんだ。