ウェス・モンゴメリ25回忌
ダウン・ヒート誌もウェス・モンゴメリの25回忌を決して忘れていなかった。 「Birth Of The Modrn Guitar/Wes Montgomery」を1993年5月号で掲載していた。
近代ギターの誕生                                                                                           没後25年を迎えたウェス・モンゴメリ                                                             ビル・ショウメイカー                                               ジャズを継承させているのは何だろうか?    『彼は50年代後期から60年代前期の正統派音 革新的機軸を採りいれているところだろうか    楽をとりあげそれをギターで表現したんだ。 ?興味をそそるような歴史だろうか?それと ハード・バップじゃなく、ソウル・バップだ も永久に残る謎や論争だろうか? ったんだ。 1993年で70歳になっていたはずのウェス・モ シングル・トーン、オクターヴ、それにブロ ンゴメリの場合その答えは総てに該当する。 ック・コードで効果的に繰り返すコーラスに NYのジャズ・シーンへ突如として登場した 次ぐコーラスというあの構成、あれがジャズ 1960年から、心臓発作により急死した1968年 の醍醐味なんだ。 6月15日までの8年間のうちに、ウェス・モ ライオネル・ハンプトンのように我が道を行 ンゴメリはルイ・アームストロングやチャー くという黒人の伝統、キャノンボール・アダ リー・パーカーがそれぞれの分野で成功した レイのような陽気で愉快で外向的、それらを ことを、ギターで成し遂げた。  彼はギターで演ってみせた。 即ち、現在でも他を寄せつけないパフォーマ これがまた、オーネット・コールマンやジョ ンスで独創性に優れているという点で、彼は ン・コルトレーンが地方のどこかで、音楽の 遠回りしながらも確立したのだ。 修業を積んでいた時期であったことを考える 『ウェスをみて、ジャズ界で何が起こったの と、ウェスの音楽に対する素質は素晴らしい かを考えなければならない』、とギタリスト ものといえる。 のジョン・スコフィールドはいう。 彼はメインストリームに留まり魂のこもった 教会的要素を備え、かつ革新的奏法を編み出 し、その総てが彼の親指から弾きだされたサ ウンドに込められ、伝わっていったんだ』。
『彼のヒット作の大部分は60年代初期に作 彼は目下、ウェスの60年代初期のトリオでオ った作品に手を加えたものでね』、とギタリ ルガンを弾いていたメルヴィン・ラインとレ ストのケヴィン・ユーバンクスは強調し、ウ コーディングしている。 ェスの芸術面において見過ごされていた部分 『2コーラスにも及ぶハイ・ポジションでの にスポットをあてている。 シングル・トーンは、ソロイストのバックに 『それらの曲は、他のものとは効果的に違う ホーンのリフといったビッグ・バンドの形式 オリジナルで、スタンダードな曲とは別の形 に因んでおり、彼のこういったテンポをとる 態であり、ウェスは独自のサウンドを発展さ 才能は、まさにハンプトン時代に培われたも せるのに苦労しただろうと思うよ』。 のだったよ』。 『ウェスは、セロニアス・モンクやウェイン 『ウェスが演っていた音楽とは、40年代の傾 ・ショーターと同じようなことをしたといっ 向のものだった』、とギタリストのテッド・ てよい。 ダンバーは結論づけている。 ミュージシャンが即興的にしたことを確立し 『すんなりプレイできるようになるには、音 ていくのに何かが必要な場合、つまり自分の 楽そのものを熟知していなければならない。 作品でなくても自分というものを最大限に表 それこそウェスがしていたことなんだ』。 現するという演り方である。 それは、ウェスの何とも素晴らしいギターに 作曲者はどうでもよかったということであり 、ジャズ・クルーズで聴こうとされているよ うなものではないんだ』。 そして『彼は素晴らしい伴奏者でもあった』 とギタリストのピーター・バーンステインは 付け加えた。
現在まで伝えられているモンゴメリ・スト 『ハンプトン以後、ウェスのプレイに聴かれ ーリーは魅力的なものだ。 るクリスチャンの影響はそれ以上のものだと ギターとアンプを買い、他の迷惑を避けよう 思うよ。 と親指を駆使しチャーリー・クリスチャンの 誰かを真似るといった外面的なものではなく ソロを練習していた20歳の新婚さん。       、遺伝というか血筋的といった類のものだと そして成長していく家族を抱え、昼間の仕事    思うね』。        を持ち、閉店までインディアナポリスのラウ    ジム・ホールは『ウェスの円熟期のスタイル ンジに出演し、明け方までに及ぶ掛け持ちの    で唯一クリスチャンから受けている部分は、 仕事までこなし、瞬時にして一躍有名になっ    まるでダウン・ストロークしているかのよう た地方のミュージシャン。            なサウンドをひきだす彼の才能だった』、と クリスチャンの影響を受けたギタリストとし    語った。         て彼のスタイルは成されてきたが、それは暗    ピアニスト兼ヴァイビストのバディと、“マ 記していたソロを何度かプレイした1943年の    スターサウンズ”を率いて全国的な名声を得 初演から、ライオネル・ハンプトンのビッグ    たベーシストのモンクとの短いロードを除い ・バンドにいた1948〜50年を経て、彼がイン    て、ウェスは“ミサイル・ルーム”という地 ディアナポリスに帰るまでにわたった。      元のラウンジで自己のスタイル完成させた。 ケニー・バレルはハンプトンのバンドでダン    『ウェス・モンゴメリについて総ての話が信 ス・ナンバーを弾くウェスをみており、どれ    じがたいようなことだよ』、とメルヴィン・ ほどクリスチャンの影響があったかは思い出    ラインは50年代半ばのことについて切り出し せないというが、彼らの世代に広まっていた    た。 クリスチャンの影響力は認めている。       曲を覚えるのに一度、多くても二度聴いただ 『クリスチャンは、チャーリー・パーカーが    けでほとんど何でもプレイでき、おなじアド サックス奏者らに及ぼしたように、我々のた    リブを繰り返すことなく何コーラスでも演っ めに基礎を築いてくれたと思う』。        ていたという。
また、ダンバーは偶然の出来事がモンゴメ 彼はウェスのプレイに夢中になっていた。 リ・サウンドの進展に大きく貢献したのだと 『兄貴はもしその場に電話があったら、真夜 信じている。 中にも係らずリヴァーサイドのオリン・キー 彼はウェスがアンプを改造したラジオ屋まで プニュースを叩き起こしただろうね』、と弟 ついていったという。 のナット・アダレイがいっていた。 『どこをどうしたのか解からないが』、と前 後にNYでキープニュースに会った際、キャ 置きしながら、『ピックを使わずただ弦に触 ノンボールの熱意が彼にも伝わりウェスと交 れて親指で弾くだけでいいんだ。そのことに 渉する決意がついたという。 より感度がよくなるからね。つまりタッチが 『その頃、私の視力は両眼とも2.0だった』 いいため音を聴きだすタイミングが判りやす と初めてウェスのプレイをみたときのことを く、次ぎの音をだすのに素早く移れるという キープニュースは語り、『ウェスの真正面に ことがギターとアンプを一体化したウェスの 座っていたのに、彼の親指がぼやけたように 見解だった』、と説明してくれた。 見えてね』、と説明してくれた。 ウェス・モンゴメリの噂がロード中のミュー のちの話は歴史的物語となっている。 ジシャンらに広まり、キャノンボール・アダ レイはウェスが出演する“ミサイル・ルーム ”に立ち寄った。      
 『ウェスは1マイルを4分切った最初のラ    キープニュースは、楽譜が読めないだけでな ンナーのようなものだった』、とジム・ホー    くコード進行も解からないウェスが、どのよ ルは突如ジャズ・シーンに登場したウェスの    うにして読める者と同じくらい早く新しい曲 インパクトの凄さを語った。           を習得したのかという最良の例として、ミル 『彼以降に登場した連中は、たぶんあの凄い    ト・ジャクソンと共演した《バグス・ミーツ オクターヴを真似ることができるだろうし、    ・ウェス》を挙げている。 親指であの素晴らしいフィーリングもつかめ    それは《フュージョン》のセッションとも同 るだろう。                   様であった。 ただウェスはどちらかといえば古い連中を置    『楽譜を一切目の前に置かない演り方や、前 き去りにしたタイプなんだ。           もって聴いていないはずのアレンジにもぴっ そこに、彼のプレイに対する魅力を感じると    たり合っていることに、オーケストラの人達 ころなんだ。                  が驚いていた』、とラインはふり返る。 キープニュースはウェスのリーダーやサイド    しかし、リヴァーサイドでウェスがレコーデ も含め約4年のうちに13枚のアルバムをレコ    ィングした数々のエピソードよりも信じがた ーディングした。                いことがある。 彼は、ウェスの常に完璧を求める限りない創    ウェスのリヴァーサイド作品が、初回リリー 造性とたゆまぬ努力に感銘していた。       ス時、どれ一つとして1万枚以上売れること 優れた技術力と同様に、ウェスのリヴァーサ    がなかったという事実であった。 イド作品は彼が卓越した耳を持っているとい    リヴァーサイドは1964年に倒産しウェスは移 う証である。                  籍した。 その多くが、ほとんどリハーサルの時間もな く、以前に共演したこともないミュージシャ ンとのレコーディングであった。   
 ウェスは典型的なクロスオーヴァー・アー 人気が出てくれば、もはやジャズ・アーティ ティストになった。 ストでなくなり裏切りものになる、とウェス クラブではインディアナポリス時代の情熱を はこのことを冗談っぽくいっていたが、私に 忘れていなかったものの、1964年から68年の 言わせればそれは成功の代償だろう。 レコーディングのほとんどが、今日の“スム もっとも、ジャズがポピュラー的な音楽だっ ース・ジャズ”に等しい60年代半ばのもので たビッグ・バンドの時代にはなかった問題だ あった。 』。 そのため、いままで彼を奉ってきた評論家や 『〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉より 関係者に叩かれる羽目に陥り、彼は精神的打 もポピュラー化された曲が聴けなかった時期 撃を受けた。 があったんだ』とユーバンクスは類推する。 この論争の中心的人物となったのがクリード 『マイルスが演った時は、コマーシャルだっ ・テイラーで、彼はヴァーヴやA&Mでポッ たろうか?実際はウェスの後期のアルバムに プな曲をちりばめたウェスのアルバムをプロ もジャズはあったんだ』。 デュースした。 『ウェスの活動パターンはアルバムと一致し テイラーはウェスとの作業について語ってい ていなかった』、とこの時期ウェスと連絡を る。 とっていたキープニュースは説明した。 『各セッションともウェスを交えて慎重に検 『クラブなどの観客に、後期のレコードから 討したものであり、決して一人で進めたもの の作品を演ってみせる手立てはなかったから でない。 、地方回りのウェスを観に行っても、いつも もし無責任なことをしていたら、とっくに彼 のとおりストレートなままのウェスしか聴け は私から離れていただろう。総て公平に進め なかった。 てきた。 以前からウェスのファンは後期のレコードに 家族を養い、芸術を貫き通そうとするジャズ うんざりさせられ、後期のウェスを気に入っ ・ミュージシャンは、良い意味でも悪い意味 ていた多くのファンは、彼がライヴで演って でも何らかの問題を抱えている。 いることについていけなかった。
もし今日、そんなサクセス・ストーリーがあったとしたら、ウェスのクラブ出演料が高くなるに つれ、主催者はストリングス・オーケストラとのコンサートを強いられることになっただろう』。 時が経つにつれ、ウェスは商業的妥協にも飽きてきたらしく、テイラーはもう一度以前のスタイル でレコーディングする計画を立てていた。 しかし、その希望を企ても実現されなかった。ジャズからクロスオーヴァーへ移行する中、ウェス ・モンゴメリは急速にスターの座に付いたという重責から斃れた。                                         =ダウンビート 1993年5月号=参考