ウェスとジョージ・ベンソンの出会い
 SHAPE OF THINGS TO COME
音楽評論家のスコット・ギャロウェイがジョージ・ベンソンへのインタビューを交えたライナー・ノ
ーツからウェスと関わった部分を抜粋して紹介する。
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ベンソンは17歳の頃には自己のバンドをスタートさせ、ダンサブルなR&Bとジャズを融合させたよ
うな "jazz-people music" を演奏するまでに成長していた。
(訳注: "jazz-people music" とはダンスが絡んだクラブ系、それともR&Bが絡んだスムース系のは
しりだったのでしょうか? でもこの頃のベンソンは60年代中ごろからのファンク系に進んでいったと
思う)
ベンソンが初めてウェス・モンゴメリに出会ったのはこの時期(1960年頃)であったという。
ウェスは兄のモンクと弟のバディとともにマスターサウンズというバンド名でツアーやレコーディン
グをしており、自身の名前ですでに少数のアルバムをリリースしていた。
(訳注:この時期というのが微妙で、マスターサウンズは1960年2月1日を持って解散し、その数日後"モ
ンゴメリ・ブラザーズを結成させていることと、自己名義のアルバムがあったということからみるとこ
の話はモンゴメリ・ブラザーズではないかと思われる。以下の文章も同じようにモンゴメリ・ブラザー
ズと見るほうが話があうようです。)
実際、ウェスの才能と右手親指の正当でない使われ方はミュージシャン仲間では早くから知れ渡ったい
た。
「マスターサウンズがピッツバーグに来たとき、ウェスという名前は聞いたことがあったし、僕は彼が
白人だと思い込んでいたんだ。
何故って、みんながピックを使わないからクラシック・ギタリストか・・みたいなこといっているのを
聞いたから・・でもウェスを見るなり親指で弾いていたので噂の人だとすぐわかったよ。ジャズ界では
"baddest cat(偉大なやつ)" だった。
今まで聴いたこともなかったサウドだったよ。」とベンソンは振り返る。
そして「マスターサウンズはクロフォーズ・グリルという静かで洗練されたスゥイング・バーで演奏し
ていたが、僕のメンバーはちょうど道の反対側にあるメイソンズ・バー&グリルで演奏していたんだ。
ある夜、僕は彼らを見に行った後、ウェスの兄弟はメイソンズにやってきたんだ。そりゃこちらのほう
が飲み物は安いし綺麗な女性はたくさんいるし、ジュークボックスがある大きな溜まり場で一晩中賑わ
っていたからさ。
僕たちがバックでR&Bを演奏しているとバディが近づいてきて『いいフィンガリングだね、君はジャ
ズを演ってみるつもりはないのかね?』と言ってきたから、僕はジャズ・プレイアーじゃないのでと答
えると『トライするべきだ』と言われたよ。」と話続けた。
ウェスについて「そのとき、ウェスが一緒だったかどうかはっきりと覚えていないんだ、とにかく静か
な男だったから。それに女性に人気があっていつも彼の周りを取り囲んでいたからね。
僕が、ギタリストに何か弾いて見せてと頼んだのはウェスだけだったが、彼は『君に何も教えるものが
ない、僕は自分が演ることで精一杯なんだ』と断られたよ。」とベンソンは言う。
・・・中略・・・
ベンソンの次の移籍レーベルはロス・アンジェルスで急成長を続けていたA&Mレコードだった。
イージー・リスニング・ジャズで既にトップ・セールスを築いていたウェスが、社長のひとりであるハー
ブ・アルバートにベンソンとの契約を推奨した。柔らかな口調だったがきっぱりと「次を担う奴だよ」と
言い切った。
アルバートはベンソンの獲得に腹心の友人クリード・テイラーを送り出した。
「僕はそのことに対して今でもウェスに感謝しているよ。」とベンソンは言う。
もしウェスが生きていたなら、ベンソンと一緒にA&Mで活躍していたでしょうが...ウェスはこの先長く
ないことを知っていた。
それを否定し、先輩は若い後輩にチャンスを与えてくれたのだ、とベンソンは解釈していたようだ。
「ウェスはすでに成功していたよ。次を担う奴について何の心配の様子もなかったし、毎日の練習やギグ
に忙しかった。彼のギターはまるでコルトレーンだよ。
けれど、唯一ステージに飛び入りさせたのもウェスだったが僕はあまり乗る気にならなかった。誰だって
彼がフレイした後なんて尚更でしょう。
彼が司会して『紳士淑女の皆さん、僕の友人が来ています・・ジョージ上がってこいよ』と言って、演奏
させたんだ。」とベンソンは語った。
ウェス・モンゴメリは、1968年6月15日に45歳で逝去した。
その2カ月後A&Mでジョージ・ベンソン最初のレコーディングがおこなわれ、グレン・ミラーのカバー
〈チャタヌーガ・チュー・チュー〉では原曲のスイング感を損なうことなく、熱い南部の雰囲気を作り出
している。(訳注: アルバム別の《ロード・ソング》の項でも説明しましたが、小川隆夫氏がベンソンへイ
ンタヴューした記事には「ベンソンがA&Mから第1弾を放った際のキャッチ・フレーズが "第2のウェス
・モンゴメリ" であったことを忘れてはなるまい。
ベンソンは次のように『あれは別に初めから計画されていたものではなかった。
A&Mに最初に吹き込んだアルバム《シェイプ・オブ・シングス・トゥ・カム》は実のところウェスのため
にセッティングされていたレコーディングだったんだ。それがさっきも言ったように、彼が突然この世を
去ったため代役が必要となった。
レコーディングを中止するにはあまりにも費用をかけ過ぎていたんだね。そこで僕に白羽の矢が立ったとい
う訳だ。』と答えた。)
ピアノのハービー・ハンコックとハーモニカはサックス奏者のバディ・ルーカス・・アレンジのドン・セベ
スキーとの重大な関係のスタートである。
ベンソンのファースト・アルバム《シェイプ・オブ・シングス・トゥ・カム》は彼の演奏が呼び物となった。
それはひっそりとテイラー自身の囲い込みに向けてのアイデアであった。
ベンソンには分からぬように、アルバム裏の写真が潜在意識へのメッセージがあるようにも思える。
裸のようにも見え、顎を支えるぎこちない手がいま彼が誕生したばかりのようで、斃れた先人ウェスからバ
トンを引き継いだ次なる偉大なギタリストである。
ベンソンはA&Mに続いて2作品《デル・イット・ライク・イット・イズ》とビートルズに便乗した《ジ・ア
ザー・サイド・オブ・アビィ・ロード》をレコーディングした。
クリード・テイラーはベンソンを引き連れ独自のレーベル、CTIとKuduを立ち上げた。
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このライナー・ノーツには、その後ウェスとの関わりは記載されていないが、60年にウェスと出会いその後63
年ごろオルガンのジャック・マクダフに見込まれ一緒にツアーを組みジャズを勉強したようである。
そのツアー中、コルトレーン、ケニー・バレル、ジム・ホール等を目の当たりに、シスコの "ジャズ・ワーク
ショップ" で再びモンゴメリ兄弟に出くわした。
「ピッツバーグで出会ったキャットかい」とバディに声をかけられ「やっぱり君はジャズも演れるじゃないか」
と言われたそうである。その後の素様しい躍進は言うまでもないことである。
このライナー・ノーツはベスト盤《アンソロジィ/ジョージ・ベンソン》に書かれたもので、挿入曲の聴き物は
〈我らのウェス〉である。
もとは《ライヴ〜メローなロスの週末》で聴かせたが、ステイーヴィー・ワンダーがベンソンのために作曲した
陽気な曲となっている。
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