インディアナ・アヴェニュー・サクセス・ストーリー
2008年1月、アメリカのネット・オークションeBayに突如ウェスの
ワールド・パシフィック時代の未発表音源と大きくアピールされ、
出品されたのを覚えているでしょうか。
全9曲は親切にも数十秒の試聴も設け、ファンを驚かさせた。当サ
イトの「ニュース速報」でも即座に掲載したが、結果的に高額で
あったため誰にも落札されず、半月もたたないうちにeBayから姿
を消してしまった。
出品者はオレゴン州セーラム在住のアメリカ人ギタリスト、ジム・
グリーニンガーで1990年に状態のよくないテープを入手し、自ら保存のためにディジタル化を行った
と言う。
著名なジャズ・プロデューサであり、モザイクのオーナーでブルー・ノートでの長い実績と発掘など
で知られるマイケル・カスクーナは、eBayで買い手がつかなかったその一週間後にグリーニンガー本
人から電話を貰ったそうである。
カスクーナは、彼が入手した時点で既に何人かの手に渡っていたであろうと思いながらにも売買契約
に応じて初めて聴いたとき、ウェス本人かもしくは関係者が行った"デモ録"ではないか、と感じたそ
うである。私も数曲で同感するところがある。
2010年夏になってカスクーナは友人のジョージ・クラビンと最近知ったゼヴ・フェルドマンに入手し
た音源を相談したところ、新レーベル、レゾナンス・レコードを発足したばかりのクラビンが大いに
乗り気で、リリースに向けてのプロジェクトを計画すると約束した。
フェルドマンもレゾナンス・レコードに加わり、まずこの音源の録音データを探るため、2011年にか
けてインディアナポリスに3回も出向き、そして当時のウェスの仲間や識者たちからの記憶をたどり、
ようやく録音データを解明させた。
2012年3月(日本は4日先行、アメリカはウェスの誕生に合わせ6日)になって《Wes Montgomery/
Echoes of Indiana Avenue》と題され、限定1000枚のLPとCDが同時リリースされた!!
オークションeBayから消えて殆ど諦めていたこの音源が発売予約されると聞いた2011年12月、ウェス
・ファンなら誰しもが驚き待ち望んだ発売日であった。
このリリースでウェスの50年代の録音がどんな形にせよ聴けたことは第一なれど、初めて見る写真や
ウェスに関わった人たちの記事に当時のインディアナポリスの状況が浮かんできたことが何よりだ。
個人的に興味を抱いたのがこのCDのタイトルにもなっている "インディアナ・アヴェニュー" インデ
ィアナ大通りと言っておきます。
今までウェスを知るうえでどこそこのクラブやバーに出演したなどメディアを通して知ってきたが
「具体的にどこなの?」という疑問もあったが知る由もなかった。
それが付属するブックレットでデイヴィト・ナサニエル・ベイカー博士が解説している。
それに、1980年モンク・モンゴメリがマギー・ホーソンに応えたインタビュー記事の一部、バディ・
モンゴメリの自伝が未刊となった一部などから、ウェスの幼少時代のことなどが浮かび上がってき
た。
その前に、トロンボーンを持ったデイヴットがウェスと背中合わせ
で撮った写真をよく見るが、デイヴットは1931年インディアナポリ
ス生まれですからウェスより8歳年下で、今も存命で音楽関係に携
わっているようです。
ベイカーは、高校のバンド部(同級生にスライド・ハンプトンがい
た)でトロンボーンを吹いていた。
彼は、インディアナ大学で音楽教育の学士号と修士号を取得し、教
育者となったことで名前の前にDr.が付くが、ジョージ・ラッセルが
率いる小さなジャズ・バンドでトロンボーンを演奏した経験から、
スタン・ケントン、メイナード・ファーガソン、ライオネル・ハン
プトンやクウィンシー・ジョーンズなどのビッグ・バンドで彼は大
きく進展した・・と言う経歴である。
以下、ウェスが幼少から青年時代にかけて"何処でどのように"成長
してきたのか、そのサクセス・ストーリーを読んでいただきたい。
【インディアナポリス インディアナ大通りとウェス・モンゴメリ】として先ずはそのデイヴッド N.
ベイカーの話から・・
「インディアナポリスはジャズ活動の中心として、素晴らしい音楽、有名なミュージシャンやライヴ・
ハウスの発祥の地として長い間語り継がれてきた名高い伝統を持った都市である。
インディアナポリスは1940から1950年代の数十年間にジャズの黄金時代を築いた。
この時代にこの都市は、モンゴメリ・ブラザーズ、J.J.ジョンソンのような国際的に有名な大物ジャズ
・アーティストを生み出した。」
「リロイ・ヴィネガー、ラリー・リドレー、カール・パーキンス、スライド・ハンプトン、メル・ライ
ン(注: 後年になってメルヴィンとは言わない)、フレディ・ハバード、ジミー・スポルディング、ヴァ
ージル・ジョーンズ、ジミー・コー、デイヴィッド・ヤング、デイヴィッド・ベイカー、有名なピアニ
スト、エロール・グランディ 、テナーサックスのアロンゾ・プーキー・ジョンソン、ドラマーのアール
・フォックス・ウォーカー、オーティス・キラーレイ・アプルトン、ポール・パーカーのような地元の
有名人。また同時にたくさんの有名なジャズ・ライヴ・ハウスも生み出した。」
「クラブ、劇場、ビストロ(小レストラン)、などもライヴ・ハウスとして含まれる。
これらの店で特にクラブは、正規のジャズ教育が確立する以前、何世代にも渡って、向上心に燃えたジ
ャズ・ミュージシャンのための練習場として、またプロ・ミュージシャンの技術向上のための場として
の重要な役割を果たしてきた。」
「ほとんどのクラブでは当たり前のようにジャム・セッションが幾度となく繰り返され、多くのミュー
ジシャンが育った。
それは、ミュージシャンやヒップ・ホップ風のファンにとって、地元の床屋やビリヤード場、それに通
りの街角と同じような社交場となり、黒人と白人ミュージシャンとの有意義かつ有益な場ともなった。
今では100チャンネル以上有するケーブル・テレビや複合型映画館が出現しているが、当時この場所が主
要なエンターテインメントの源であった。
地元で有名なミュージシャンを出演させ人気を集めたことで、ウェス・モンゴメリ、カール・パーキン
ス、それにフレディ・ハバードのような隠れた天才アーティストが全国的に名をあげることとなった。
インディアナポリスを訪れるミュージシャン、出演契約交渉担当者、エージェント、およびレコーディ
ング関連の人々は、これら初期のスターがどのクラブに最も頻繁に現れるのかを正確に知っていた。」
「1940から1950年代、インディアナポリスでは、20以上のクラブやライヴ・ハウスが点在していた。
一般的に、主要なクラブは主に黒人が住んでいる街の大通りに面しているか、またはそれに近い場所に
あった。インディアナ大通りと、オハイオ通りとの交差点から、新しい住宅プロジェクト、ロック・フ
ィールドガーデンにかけてのインディアナ大通りの一部が最も賑わっており "The Avenue(大通り)" と
して知られていた。
(注: 地図で示すB-D間ニューヨーク通りとキャピトル大通りの交差点を北西斜めに16番通りに突き当
たるまでの約2700mがインディアナ大通りですが、オハイオ通りはBの下、Fから東へ延びているので
デイヴッド・ベイカーの勘違いなのか、もしくは当時はそこまであったのか分かりませんが、通称 "大
通り" と言われるのはHがロック・フィールドガーデンなので、B-C間あたりのことを指していると
思われる)
ウエスト通り(現在、キング牧師ことマーチン・ルーサー・キング通りとして知られている)とインディ
アナ大通りの角には、 "ウオーカー・カジノ" と深夜営業店として知られている "ミサイル・ルーム"
があった。
(注: "ウオーカー・カジノ" と言っていることから賭博場もあったのであろう正式には "マダム・ウォ
ーカー劇場" が地図で示すAである。 "ミサイル・ルーム" はその筋向いE-F間のウエスト通りの葬儀
場の隣のビルの地下にあったという。)
振り返ってみると、"サンセット・テラス"、"コットン・クラブ"、"アンリズ"、"ジョージス・バー"、
および "ミサイル・ルーム" はインディアナ大通りにあるライヴ・ハウスの中でも歴史的に最も重要な
場所であった。」
(注: "ミサイル・ルーム" 以外はインディアナ大通りにあったことになる)

「"アンリズ" のハウス・グループは、ピアニストのエロル・グランディ、カール・パーキンス、バディ
・モンゴメリ、ウェス・モンゴメリ、リロイ・ビネガー、フリップ・ステュワート、それにモンク・モ
ンゴメリ、ソニー・ジョンソン、フォックス・ウオーカー、ウィリス・カーク、ジェイ・リー、または
ベニー・バース、ジミー・コー、プーキー・ジョンソン、ジョージ・サボイ、チャーリー・コックス、
バディ・パーカー、スライド・ハンプトン、およびメイシオ・ハンプトンらで構成されていた。
インディアナポリスに来訪したバンドがダウン・タウンの劇場に出演したあと、いつも "アンリズ" で
はその晩、地元のミュージシャンとデクスター・ゴードン、ワーデル・グレー、ジーン・アモンズ、そ
れにソニー・スティットのような有名人との間の総力戦が見られるかもしれないという可能性があった。
有名人でもここでのバトルは少なからずも一目を置いていた。
"アンリズ" の入口ドアの上には『ここは世界的ミュージシャンになるための登竜門です』と書かれた
看板があった。」
「"ジョージス" は "アンリズ" から通りを隔てて反対側にあった。
ここではキング・コラックスとエディ・クリーンヘッド・ヴィンソンのような、よその町のエンタテイナ
ーや、まだ無名のジャズ・コンテンポラリー(フレディ・ハバード、ジミー・スポルディング、ラリー・
リドレイ、ポール・パーカー、ウォルト・ミラーなど10代の有能な若者で結成された)のような地元のグ
ループなどが頻繁に出演した。このクラブの評判は口コミで全国的に広がり、サラ・ヴォーン、ダイナ・
ワシントン、ディジィ・ガレスピー、などの有名人もよく出入りしていた。」
「"ミサイル・ルーム" のオーナーはジャック・ダラムという元警察官が深夜営業していた。
深夜営業するクラブは、地元のミュージシャンたちが定時の出演後に集まって互いに演奏しあいディスカ
ッションする場として重要な役割を果たしていた。また、これら深夜のセッションには有名ミュージシャ
ンが、地元の人気ミュージシャンと交流を図るためによくに出入りしていた。」
「"ミサイル・ルーム" は主に、ギターのウェス・モンゴメリ、オルガンのメル・ライン、ドラムスのポー
ル・パーカーがメインのハウス・グループ "ウェス・モンゴメリ・トリオ" でほぼ全国的に名をあげた。
1959年9月、雑誌【ジャズ・レヴュー】に掲載された【インディアナ・ルネッサンス】と題された、作曲家
およびジャズ評論家であるガンサー・シュラーの記事により、 "ミサイル・ルーム" とその驚異的なハウ
ス・グループの存在がジャズ界に知らしめられた。
(注: エイドリアン・イングラム著、小泉清人訳【ウェス・モンゴメリ】の34頁参照。また"ミサイル・ル
ーム" でのメル、ポールとのトリオは1959年からというオリン・キープニュースの証言があることから、
前年まではソニー・ジョンソン、ミンゴ・ジョーンズ、アール・ヴァン・ライパー等とよく入れ替わって
いる)
この地をロードするミュージシャンたちは、ウェスと彼のトリオの優れた才能を目の当たりにした。
そのひとりとしてキャノンボール・アダレイがオリン・キープニュースに報告をしたことで、ウェスとの
リヴァーサイド・レコード契約話が始まった。また、ノースサイド付近の完全な黒人街でもクラブがあっ
た。
"カクタス・クラブ"、"ミスター・ビーズ"、"19番ホール" および "ハバブ" などのクラブはすべて30番
通りに位置していた。
(注: チルドレン・ミュージアム[子供博物館]が面した30番通りは地図で示すD-G間の16番通りのもっと
北側にある) "ミスター・ビーズ" は "カクタス・クラブ" から通りを挟んでちょうど真向かいにあった。
両クラブは純粋な意味での地元クラブであった。
"ハバブ" は地元のミュージシャン(当時はウェス・モンゴメリやアール・ヴァン・ライパー・トリオ)
を雇っていたバーであったが、しかしすぐに中西部で最もよく知られるジャズ・オルガン・ルームの一つ
となった。
ハンク・マー、ジャック・マクダフおよびジミー・マグリフのようなアーティストが呼び物であったが、
ジャズオルガン・グループが出演しないとき、当時は多楽器奏者と知られているローランド・カークのよ
うな、有能で新しいまだ知られていないようなグループも出演していた。もうひとつ、多くのジャズ・ク
ラブがあったのは16番通りであった。
(注: 地図で示すD-G間ですが東西にさらに延びており、西側の先にはインディアナポリス・モータース
ピードウェイがある)中でも "16番通タヴァーン" と "ターフ・バー" が最も有名であった。
"ターフ・バー" は素晴らしいグループのモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテット(当時はまだ国内で
も無名であった)が長い間そこのステージで演奏していたことで評判が高かった。
そのメンバーはウェス、バディとモンク・モンゴメリ、テナー・サックスのプーキー・ジョンソンとドラ
マーのソニー・ジョンソンであった。
ウェス・モンゴメリは、世界中の聴衆を魅了させるためにインディアナポリス市から出身した多くの偉大
なミュージシャンの中でも一番の大物のひとりであった。
新しく発見されたレコーディング・コレクションは、ウェスの魅力だけでなく、彼もその一部を担ってい
た素晴らしいインディアナポリスのジャズシーンをもとらえるものである。」
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バディ・モンゴメリもインディアナ大通りのライヴ・ハウスについて次のように語っている。
「ダウン・タウンの西側にある町、ハウヴィルは10番通りにあり(注: 地図で示すI-J間が東西に延びて
いる)東へ行くとインディアナ大通りに突き当たる。この大通りにロック・フィールドガーデン(注: 地図
で示すH)があり、続いて "サンセット・ラウンジ・ダンス・アンド・ナイト・クラブ" (通称: サンセッ
ト・テラス)、"リド劇場"、そして世界的に有名な "マダム・ウォーカー・ビル" のちの "マダム・ウォー
カー劇場" がある。この "ウォーカー劇場" の近辺がジャズ・ライヴ・スポットのメッカであった。」
「"ジョージス・バー"、"リッツ"、"スカイ・クラブ"、"440クラブ"、"コットン・クラブ"、そして "ア
ンリズ" などが営業していた。更に南下するとダウン・タウンの中心部になるが、反対に10番通りを西へ行
くと、かの有名なインディ500レースを開催していた、インディアナポリス・モータースピードウェイがあ
り(注: 前項と同じ地図で示すD-G間ですから正確に言いますと16番通りになる) "モンゴメリ・ブラザー
ズ" がプロ・デヴューを飾った "ターフ・バー" がこの辺りにあたったよ。」

上の写真、左は当時のウォーカー劇場で右が現在のもの
です。南方向に向かって撮ったものです。
下段左の写真は北方向に向かって撮っていますが、玄関
歩道上に丸で囲んだ部分に3つのウォーク・オブ・フェ
イムがあり、そのひとつに"ミュージシャン、ウェス・モ
ンゴメリ" と彫刻されてある。
ここで、今まで出てきたライヴ・ハウスの名前と場所を整理しておきます。
●インディアナ大通り付近;
"ウォーカー劇場"、"サンセット・テラス"、"コットン・クラブ"、"アンリズ"、"ジョージス・バー"、
"リド 劇場"、"リッツ"、"スカイ・クラブ"、"440クラブ" など。
●ウエスト通り付近;
"ミサイル・ルーム"
●16番通り付近;
"16番通タヴァーン"、"ターフ・バー"
●30番通り付近;
"カクタス・クラブ"、"ミスター・ビーズ"、"19番ホール"、"ハバブ" など。
30番通りは少し離れているがデイヴッドとバディの2人だけの話でもざっと16店舗あるが、例えばウェスの
写真(今回リリースされた表ジャケット)に見られる場所はエセックス・ハウス・ホテルですがイングラム著
によるとその中にあったとする "500クラブ" 、さらに "キース・スーパー・クラブ" 、 "ハーバー・クラ
ブ" などホテルのラウンジや酒場も含むと20店舗以上あったということになるのでしょう。
バディの話を続けます。
「インディアナ大通りの数あるライヴ・ハウスの中でジャズを専門に演奏していたのは "アンリズ" だけだ
った。ここでは地元の人気ミュージシャン、シンガーが主流で、たまにジャム・セッションとなると来訪の
一流ミュージシャンの飛び入りもあり、週末は大盛況だった」と言う。
ここからバディはウェスとの昔話になる。
「コロンバスからインディアナポリスに帰ってきたとき、モンクとウェスはギターを持っていた」と言う。
ウェスが17歳とあるから1940年頃の事になるが、モンクも初めはギターに興味があったのでしょうか、初耳
です。
「2人が寝室で演っているのを見たことがある。ウェスの手指は細くてしなやか、まさにギターを弾くに相
応しいものだった。我々はウェスの天賦の才に気が付き、彼には "神の手" が備わり、そして時代を先取り
する意志と創造力で自分自身を表現できる能力が生まれながらに携えていた」と言うから、モンクはこの時
点からギターを諦めベースに転向したのでしょうか。
「ウェスがクラブ出演する頃、ジャズのみ演奏するプレイヤーもジャズ専門のクラブも少なかったことは事
実で、多くのミュージシャンは生活のため選り好みすることなく何でも演っていたようだが、ウェスはジャ
ズに拘ったことで仕事は限られたが、逆にそれが上達の道を極めたと思っている。」
ウェスが本格的にジャズに取り組んだ様子を一般的に語られるフレーズですがそのきっかけが、「両親の別
居で父親が住むコロンバスに移住した(注: 1930年)頃にウェスはギターに興味を持ち出した(注: 1931年)と
思う。
1942年にチャーリー・クリスチャンの〈ソロ・フライト〉を聴いたことが始まりで、当時ウェスは19歳で結
婚し溶接工としても働いていたが、300ドル(注: イングラム著では350ドル)もの大金でギターとアンプを買
い、練習に没頭していた。(個人的疑問: こんな高価な楽器が買えたとは思えない)
ウェスは音楽教育も受けず譜面も読めなかったが、全ては耳から学び取っていた。やがてクリスチャンのレ
コードからコピーしたソロをクラブで披露できるまでに上達していたが、ある日演奏を終えるとステージか
ら降りられないほどの拍手大喝采を浴びたそうだ。ほかにレパートリーは無く何とも気まずい思いをしたよ
うで・・それからなんだ、本気になって練習をしかけたのは。」ここまでの話ですとウェスはピックを使っ
ていたことになると思うのですが、このあとバデイは「それからピックを箱ごと買い、自分に合ったものを
探していたが、妻のシリーンが余もの音量に耐えかねて苦言を呈したことから親指で弾くことを思いついた
ようです。
ウェスのソロは益々創造力を増し管楽器プレイヤーのようなサウンドで演奏するようになっていた。
ガレスピーやパーカーの演奏を聴いてはギターを極めていったが、当時としてはこんな奏法をするプレイヤ
ーは他に見当たらなかった。
試行錯誤、誰のものでもない彼自身のサウンドを確立させた。それはギターという楽器を極限までに挑戦し
たという精神を評価するもので、ギターを完璧に熟さなければ良いサウンドは出せない、と言うことを彼は
学び取ったと思う。」
ステージで恥をかいたことがきっかけでしたか、バディの話を整理するとこの出来事は1943年 "440クラブ"
での出来事でウェス20歳の初舞台となる。
いずれにしてもサムピックはやはり19-20歳ぐらいから本格的に使ったようですね。
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次のモンクの話でさらにウェスの幼少から青年にかけてのことが明らかにされます。
「私が9歳、ウェスが7歳の時に(注: 1930年)、私の両親は離婚した。
そこで父との時間を過ごすために、ウェス、私と年上の兄ジューンはコロンバスに移った。インディアナポ
リスを離れクリスマス休暇に行ったのだが我々は最終的にそこに10年間生活した。
我々が再びインディアナポリスに戻ったのは、僕が19の時(注: モンクは1921年生まれですから1940年)だっ
た。
ウェスが8歳ぐらいの時、家の近くにプリーチ・オバノンという名の・・・結構男気のある・・・やつが住ん
でいた。彼はティプレという、一種の5弦ギターのようなものを演奏していた。
よく演奏しながら歌って通りを行ったり来たりしていたものであった… 単にハッピーな男だった。
彼が歌っていたほとんどは、歩きながら思いつきで作っているようであった。
皆が彼の演奏を聴くのが楽しみにしていたので、我々の家のまわりにきて演奏しては子供たちがそれに合わ
せて踊っていた。子供たちはそれだけで楽しかった。
ウェスは弦楽器に興味をもち始めたことで、彼がウェスに教えていたのを覚えている。
「最初に覚えなければいけないのは、チューニングの方法だよ。
一番簡単で覚えやすいのは、『(G)My (C)Dog (E)Has (A)Fleas (犬にノミがいる)だ。簡単だろ?』(注: こ
れはウクレレのチューニングですね。私は4弦から1弦をすべて開放で引いたとき "は・な・こ・さん" と
聞きました。)彼はそんなにたくさんのコード・チェンジを知らないが、演奏はなかなかよかったよ。
プリーチはウェスにそれを持たせ、弾かせた。ウェスは真剣に興味を示したので、彼はコードの弾き方も2-3
教えていた。
ある日ウェスが帰宅したとき、『すぐ近くの角で50セントでギターを売っている男がいる』と言ったのを覚
えている。
そこでウェスはそのギターのためになんとか50セントを得ようと、あちこち駆けずりまわっていた。
でも無理だった。親父に言ってもどうせ『そんな馬鹿げたもの、無意味だ』と言われるのはわかっていた。
その次にウェスとギターについて覚えていると言えば、彼が質屋で13ドルのギターを見つけた時だった。
それは新品のようで、ちゃちな玩具とは違った。
ウェスはそのギター欲しさに喚いていたが、とても彼に買える金額ではなかった。
そこで、僕は貯金箱からそのギターを与えるため、彼に13ドルをあげたのを覚えている。
その後、"エンプレス劇場" で毎週土曜日の午後にコンテストがあった時期を覚えている。
映画が始まる前に、たくさんの子供たちがコンテストに出るために一列に並んでいた。そこで演奏すれば無
料で映画を見ることができたからね。
さて、ウェスはギターを演奏し、年上の兄のジューンはドラムスを叩いた。
僕もギターを持って出たのを覚えているが、まるで演奏しているかのように、ただそれをかき鳴らしていた。
他の子供たちは、我々より遥かに、10倍も、下手くそだったので、我々には良いイヴェントであった。
でも、ステージにあがり演奏する・・そのことが何より最高だったね。
観客はただ単にステージ上のおどけたパフォーマンスを楽しんでいた。
ジューンは僕より2才年上で、彼は10代の終わりで亡くなった。
(注: モンクは1921年生まれだからジューンは1919年生まれ、彼が16歳でモンクが14歳、
ウェスは12歳でコンテストに参加したことになり、1935年と言うことはテナー・ギターを買ってもらってか
ら間もなくのことになる)
ジューンは非常にドラムスが上手かった。彼が17か18歳の時、チック・ウェッブのバンドがコンテストを催
すために町にやって来たのを覚えているが、そのコンテストで勝ち取ったんだ。彼は、ドラムスの教育を受
けたわけではなかったが、生まれつきの才能を持っていた。
兄が亡くなって(注: 2年後の1940年)から、僕が19歳、ウェスが17歳の時、母親と暮らすためにインディアナ
ポリスに戻ってきた。10年経って、僕は再び『ママ』と呼ぶのに少し抵抗があった。
僕がインディアナポリスを去った時にまだ赤ん坊だった弟のバディがもう11歳にもなっていた。
家にピアノがあって、バディがそのころ練習したのを覚えている。バディにとってそれはごく自然なことだ
った。
僕はいつもウェスについて何か不思議な感覚を覚えている。
夏の夕方、公園の人だかりを見つけると、ウェスがその中心にいて演奏していたんだ。
ウェスはその時17歳で、益々上達していたが、どのように練習していたかわからない。
まさにひとりでやってのけたが、仲間との時間を大切に過ごしたりしていたことは知っているが、グループに
入って特に目立つような事はしていないのは確かだよ。
インディアナポリスにアレック・スティーヴンスという名のギタリストがいた。
僕達がインディアナポリスに戻ってくる前、アレックは既に人気ミュージシャンであったが、ウェスも戻って
から、注目を集めた。ウェスとアレックは非常に親密になり、一緒によく演奏をしていたのを覚えている。
今もアレックがウェスのターンニングポイントに大きく関与していたのだと確信している。
僕は21歳(注: 1942年)で結婚し、息子が生まれ家族ができことで引っ越し、自分の家を持った。
ウェスも19歳(注: 1942年)の時に結婚したけれども、兄弟としていつもウェスがどうしているのか気にかけて
いた。はじめてウェスがロードに出た時のことを覚えている。
たまたま実家に来ていたとき、ウェスは皆にスヌーカム・ラッセルから一緒にロードにでるオファーを受けた
と言っていた。スヌーカム・ラッセルと言えば、有名だったので素晴らしい事であるとわかった。
そのとき、レイ・ブラウンの名前を初めて聞いた時でもあった。
ウェスはこのバンドでの抱負を語っていたが、それは彼にとって音楽への大きな挑戦でもあり、計画的なもの
でなく宿命的なものを感じたよ。
(注: 上記バディの話で "440クラブ" の出来事が1943年ウェス20歳の時となるが、スヌーカムの誘い話も同じ
年だったと思う。レイ・ブラウンの名前が挙がったということはスヌーカムのバンドにいたということでしょ
うか、それと1941年の暮れインディアナポリスに移ってきたが僅か26歳にしてこの世を去った天才トランペタ
ー、ファッツ・ナヴァロやトロンボーンのJ.Jジョンソンもこの時期スヌーカムのバンドに在籍しておりウェ
スと一緒だったのか、入れ違いだったのか興味がありますね)
ウェスはそのバンドと一緒に、ある期間・・・確か何ヶ月間・・ロードをしてきた。
ウェスが戻った時のことを鮮明に覚えている。
帰るとの連絡があり、母親の家で会うことになった。
彼を見るなり、『うわーっ!』と驚いた。革のバッグを持って、着こなしが上手になっていた。
髪をストレートにし(いわゆるコンク)、ダイアの指輪に大きなカフスボタン、それにゴールドチェーンの時
計をしていた。ウェス本来の姿であるような気がした。まるで年上の兄のようで、今までの努力がミュージシ
ャンとしての "サクセス" をもたらしたと思っている。」
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この時期のウェスのことは兄弟なればこそ語れるものであり、その舞台の一部がインディアナ大通り付近に点
在していたことが分かりました。
そして、天才ギタリストと知られていたことが既に幼少のころからであったということを改めて感じました。
挿入曲の検証:
リリースされた音源で、前述のように「インディアナポリスに3回も出向き、そして当時のウェスの仲間や識者
たちからの記憶をたどりようやく録音データを解明させた。」とあるが、下記の2曲がリヴァーサイドでの初
録音《The Wes Montgomery Trio/A Dynamic New Sound》と曲想もサウンドも大変似ていることから、キープニ
ュースが手掛けた中の失われた別テイクか、と一聴して感じた。
が、よく聴き比べてみると僅かなサウンドの違いやアドリブにおける"間"の取り方が特徴的に違う部分がみら
れる。
Wes Montgomery(g) Mel Rhyne(org) Paul Parker(dr)
unknown Studio, Indianapolis; period 1957-'58
Round Midnight
Darn That Dream
イングラム著【ウェス・モンゴメリ】の中でデイヴッド N. ベイカーのデータ的に参考になるコメントがある。
「モンゴメリ兄弟の中でも特にウェスは完璧主義者と言ってもよい。我々は50年代、チャック・ベイリーのリハ
ーサル・スタジオを彼の好意で自由に使っていた。ただリハーサルの間はテープを回しておくという条件(注:
アドバイスかも知れない)があった。
ウェスは何回かビッグ・バンドのセッションを演ったり、メル・ラインと最初の [ソロ・レコード] のリハーサ
ルを重ねていたことを思い出した。
そのリハーサル・テープはその後どうなったか誰も知らないが、ウェスのプレイは本当に凄かったよ。」
原文 (I remember him rehearsing with Mel for his solo record.) 直訳ではリヴァーサイド初録音
という説明はないが、 [ソロ・レコード] というニュアンスから、まさにそのためのリハーサルを行っていたと
も受けとめられる。
ただ、ウェスがキープニュースと交わした契約書は1959年9月23日ですから、もしかして上記のリハーサルはそ
の後ということ(初録音が10月5日)ですから、1959年9月24日〜1959年10月4日の間の "デモ録" となる。
日付的にはいずれが正しいか分かりませんが、どうやら録音場所は特定してよいと思う。
あえて記載すると下記のようになる。
Wes Montgomery(g) Mel Rhyne(org) Paul Parker(dr)
Chuck Bailey's Studio, Indianapolis; 1959
Round Midnight
Darn That Dream
次に "ハバブ" (ハブ・バブではなくがやがやと喧しい意味の言葉)でのライヴ録音とされるデータが下記のもの
です。
Wes Montgomery(g) Earl Van Riper(p) Mingo Jones(b) Sonny Johnson(dr)
Live at "Hub Bub", Indianapolis; period 1957-'58
Take The A Train
Misty
Body And Soul
After Hours Blues(Improvisation)
私は〈Misty〉と〈Body And Soul〉を何度聴いてもライヴの雰囲気が感じ取られない。各楽器の録音バランスも
よくスタジオで録ったものではないかと思う。
これも、上記のようにチャック・ベイリーのリハーサル・スタジオで録ったものか、と推測すれば切りがないが
ベースのミンゴ・ジョーンズは "ハバブ" との係りを少なげに語っている。
「ある夜、私がインディアナポリスのインディアナ大通りにある最高のジャズ・クラブ、"アンリズ" に立ち寄っ
たとき、レギュラー・ベーシストのリロイ・ヴィネガーが出演できなかったとき、私に出演することができるか
どうかウェスに尋ねられました。
数週間後、彼がカリフォルニアに立っていたので、ウェスにリロイの代わりに出演してくれないかと言われた。
それで、私はウェスと数年一緒に働いた。
ウェスとは常に連絡を取り合っていたが、そのあとの数年間さまざまなグループとロードをした後で、インディ
アナポリスに戻ってきた。それからアール・ヴァン・ライパーとウェスと、また一緒に演奏することにした。
"ターフ・クラブ" では、8時から真夜中まで、それから深夜営業の "ミサイル・ルーム" で、午前1時から3時
まで演奏した。数ヶ月後、 "ハバブ" のオーナーとマネージャが、アールとウェスと私の三人を要請した。
新しい経営陣で、クラブを開こうとしていた。
"ハバブ" は毎晩のように素晴らしい音楽で知られるようになった。勿論オーディエンスのおかげで偉大なジャ
ズ・クラブになった。」
ミンゴはモンゴメリ・&・ジョンソン・クウィンテットの前身か
と思えるウェスがリーダとしたバンドに参加したと語っている。
「1952年、私はウェスと彼の素晴らしいバンド、エロル・グラン
ディ、プーキー・ジョンソン、ソニー・ジョンソンと演奏したこ
とがあった。」
この写真はそのモンゴメリ・&・ジョンソン・クウィンテット結
成前でテナーはプーキー・ジョンソン、ベース、モンク、ピアノ
がキャロル・デキャンプ。ウェスの後ろのドラムス、ハル・グラ
ント。
バディの妻アンの撮影。
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添付のブックレットには、パット・マルチーノの話から1963年と少し後の話になるが、大変興味深いことから
その一部も紹介しておきます・・
「私は、60年代初期がギター・プレイヤーにとってどのような時代であり、その中での親交について語ってき
た。
時代は違って現在も、ギター・プレイヤーは常に同じ気持ちであり続け、互いにファミリーのようである。
たぶん、それは楽器の中でもギター特有のなにか共通するものが、個々にあったかろらであろう。
1963年私は、レス・ポールにハーレムの7番大通り133番にあった "カウント・ベイシズ" に偉大なギター・プ
レイヤーが出演しているので紹介するからと誘ったことがあった。
当時私は、ウィルト・チェンバレン(注: 経営者と思う)の "スモール・パラダイス" (ベイシズの2ブロック北
側)というところで、ウィリス・ゲイターテイル・ジャクソン・バンドで働いていたが、そこにレスがよく観
に来ていた。
ワン・ステージ演奏後、レスをウェス・モンゴメリに会わせるために彼を連れだした。
"カウント・ベイシズ"(現在空地)のその夜は、満員であった。演奏が終わると、バー・カウンターのところに
立っていた私達のところにウェスがやってた。
彼らが互いに自己紹介したあと、ウェスがレスに『僕の好きなギター・プレイヤーはチャーリー・クリスチャ
ンで、もう一人はあなたです。僕はあなたの大ファンで、あなたと会えて光栄に思います!』と言っていた。
私は、ステージの途中だったために "スモール・パラダイス" に戻らなければならなかったが、ステージが終
了したあと、再び "カウント・ベイシズ" に向かった。
西から通りの東側に向かって7番大通りを横切っていた時、 "カウント・ベイシズ" の外に4人のギター・プレ
イヤーが立っていました。
なんとウェス、レス・ポール、グラント・グリーン、それにジョージ・ベンソンでした。
そこで私も彼らに加わり "ウェルズ" で朝食したことは忘れられない思い出でとなっている。」
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