最期のプログラム

第1面 第4面
ウェスがなくなってもう少しで・・35年になりますが、タイトルの【最期のプログラム】とは
ウェスの葬儀で配布された【葬儀プログラム】である。
コレクターよりゲットしたが、よくもまあ、残っていたものと感心した。
コレクターは教会スタッフのボランティアにより作られたと説明してくれた。
サイズは、28cm×52cmを2つ折りにし、第1面が表、2面3面がウェスの思い出や葬儀プログラ
ムが記載されてあり、4面が裏になる。
経年によるシワがあり更に縦に折られていたが、状態はまずまず残っていたことが奇跡である。
下記がその翻訳文(少し頼りない部分もあるが意味合いはほぼ合っている)で、特に興味があった
のはウェスが初めて聴いた曲は今まで言われてきたとおり〈Solo Flight〉と書かれてあった。
しかし、初めて買ったギターとアンプが30ドルと説明されているが・・この1940年代って楽器
の相場は知りませんが・・やはり300ドルが妥当と思われる。
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1923年 1968年
記憶の中に
ジョン レスリ "ウェス" モンゴメリ
1968年6月18日 火曜日 午後1時00分
PURITAN パプティスト教会
872 WEST 27TH STREET
INDIANAPOLIS, INDIANA
ジョン・クローク牧師
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死亡記事
ジョン "ウェス" モンゴメリは1923年3月6日、インディアナ州インディアナポリス市で母フ
ランセス・アーリントンと父トム・モンゴメリの息子として生まれました。
彼は1943年2月21日、シリーン・マイルスと結婚し、2人の息子と5人の娘が生まれました。
ジョン "ウェス" モンゴメリはジャズ・クウィンテットのリーダでした。
19歳になるまで彼はギターを全く弾いた事がありませんでした。しかし、お金を集めて買ったエ
レキ・ギターを独学で国際的に有名なギタリストになりました。
ジョン "ウェス" モンゴメリはよき父親でありよき夫でもありました。
彼はメソジスト病院で1968年6月15日、この世を去りました。
ウェス・モンゴメリ45歳、過去7年(訳注:67年まで)で5回もダウン・ビート誌の世論投票でジ
ャズ最優秀ギタリストに選ばれ、そしてプレイボーイ誌世論投票では類似の名誉賞を6年連続勝
ち取りました。
1966年、彼のアルバム《Goin' Out of My Head》は "Best Instrumental Jazz Performance"
部門でグラミー賞を勝ち取り、そして同じくチャート史上最高のアルバムとしてビルボード誌に
よって称賛されました。
レコード・ワールド誌は彼を1967年のジャズマン・オブ・ザ・イヤーと絶賛しました。
【彼がグラミー賞を勝ち取ったアルバム《California Dreamin'》にはレコードチャートにランク
された〈Bumpin' on Sunset〉と〈Windy〉がはいっています。】・・(訳注:お気づきでしょうが
間違った説明です)
彼の死後《A Day In The Life》がビルボードのレコード・チャートで37連続のベストセラー・ジ
ャズ・アルバムになっています。
彼は死の直前までバディとモンクの加わったクウィンテットのリーダでした。
グループの最後の演奏はフェニックスでのシーザース広場でした。
ウェスが最後に演奏したのは5月22日、州のフェアグラウンズ競技場(訳注:正確に記載されてい
ないがインディアナ州と思われる)でのコンサートでした。
インディアナポリスで1923年にジョン・レスリ・モンゴメリとして生まれ、オハイオ州コロン
バスの学校に通いました。彼は17歳のときにインディアナポリスに戻りました。
彼が19歳で結婚し、ギターを全く弾いたことが無いとき、ベニー・グッドマンと一緒にプレイ
した伝説のギタリスト、チャーリー・クリスチャンによる楽曲を聴きました。
後に彼はその曲が〈Solo Flight〉だったと述べました。
クリスチャンの音楽に魅かれ彼は30ドル(訳注:これは 300ドルの間違いと思われる)をかき集め
楽譜が読めないにもかかわらず、新しいエレキ・ギターとアンプを買いました。
クリスチャンのレコードに学び8カ月間独学の後、ウェスはインディアナポリスにある440
クラブや他のナイト・クラブへ出演することから始まりました。
彼は決して楽譜を学ぼうとはしなかったが、4年後の1948年そのユニークなスタイルはライオネ
ル・ハンプトン・ビッグ・バンドと一緒に演奏する仕事をもたらしました。
彼は2年間ハンプトン・バンドと一緒に演奏しましたが、絶え間ないツアーで家族と会えない
ことを淋しく思い、それでインディアナポリスに戻ってきました。
それからは音楽とは全く関係のない仕事に就き、週末だけターフ・クラブやミサイル・ルームな
どで演奏しました。
1959年にアルト奏者ジュリアン・アダレイはモンゴメリの演奏を聴いて、ニューヨークにある
リヴァーサイド・レコードの経営者に報告しました。
レコード会社はミスター・モンゴメリと連絡を取り、彼のレコーディングをするように依頼しま
した。
彼は2枚のアルバムのうち、一枚は兄弟とのトリオで作りました。
最初のアルバムは国際批評家投票でギターにおける1960年代の新人賞としてダウンビート誌に認
められました。
ウェスがギターを弾き始めて15年ほどたち、その後死ぬまでひたすら成功が続きました。
未亡人 ;シリーン・モンゴメリ。
2人の息子 ;ジョン・L・モンゴメリ・ジュニア、ロバート・モンゴメ
リ。
5人の娘 ;シャーリン・グレイソン夫人、シャロン、サンドラ、
フランセス、トニィ・モンゴメリ。
1人の姉妹 ;エルヴェナ・フロイド夫人。
2人の兄弟 ;カリフォルニア州サンフランシスコのチャールズ・F・バ
ディ・モンゴメリ。
カリフォルニア州サンフランシスコのウィリアム・H・モ
ンク・モンゴメリと4人の孫。
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教会の礼拝
オルガン序曲
行列聖歌
讃美歌242番..................."COME YE DISCONSOLATE"(なやむものよ)
詩篇朗読.......................詩篇23篇
祈り
ゴスペル................"BEYOND THE SUNSET"(ビヨンド・ザ・サンセット)
感謝 :
モンゴメリ家の遺族は、ウェスへ哀悼を捧げてくれた人々に感謝します。
決意------教会------STREATTA ブライアント夫人楽器演奏 :
"JUST A CLOSER WALK WITH THEE" (黒人霊歌)
注目 :
死亡記事が読まれる間にソフトな音楽。(バックに流れていた曲)
"THERE IS A FOUNTAIN FILLED WITH BLOOD"
慰めの言葉 :
家族-------牧師 JOHN J. CROOK
祝福
退場賛美歌
オルガン後奏曲
誓約、と埋葬
ニュークラウン墓地
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ウェス・モンゴメリ
名誉な人
友人と音楽仲間。
棺を運ぶ人
ウェス・モンゴメリ・クウィンテット
サマーズ葬儀場(教会)
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