ニュース速報 No.92(2008.12.7号)


オリン・キープニュース新たな発言
リヴァーサイド・レーベル(1953年設立)創立55周年記念として、オリン・キープニュース自 らが監修し《キープニュース・コレクション》とし900タイトル以上の中から厳選の20タイトル が8月20日にユニバーサル・ミュージックからリイシューされている。 国内盤のみ話題の高音質素材CD(SHM-CD)として限定生産されたほか、キープニュースによる最 新ライナー・ノーツの日本語訳付という興味深い特典も見逃せない。 「若かりし日にプロデュースしたレコードの中から、時の流れという試練を乗り越えたものだ けを選んだ」というキープニュースは、「20タイトルについて、自身で新たなライナー・ノー ツを書き下ろすことにした。 あの本当に素晴らしかった日々を思い出し、傑出した演奏やミュ ージシャンについての話を加えることにした」ということで、ウェスが関わった4タイトルに ついてキープニュースからの初耳話を紹介する。

★《ナット・アダレイ / ワーク・ソング / UCCO-9490》 ナット・アダレイ(cor) ウェス・モンゴメリ(g) ボビー・ティモンズ(p) サム・ジョーンズ、 キーター・ベッツ(cello, b) パーシー・ヒース(b) ルイ・ヘイズ(ds)                       1960年 1/25、27、28、ニューヨークにて録音 1) ワーク・ソング               6) サック・オブ・ウォー 2) プリティ・メモリー             7) マイ・ハート・ストゥッド・スティル 3) アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユー 8) コートにすみれを 4) ミーン・トゥ・ミー             9) スクランブル・エッグ 5) フォールアウト 本サイト【時代別アルバム】【リヴァーサイド録音】の【Work Song/Nat Adderley】で説明した あらすじに追記します。 キープニュースがこのアルバムを選んだ理由として「ナットのまさに開花寸前の時期を代表する 作品で、これまで仕事をしたことのあるミュージシャンの中でも最も冒険心に優れた知的なプレ イアー、リーダとして記憶に残っていたからである。しかしこのアルバムを個人的な視線でまつ わる思い出としては、私が経験した数々のレコーディングの中でも最も目まぐるしく、最もやり がいのあった4日間だった」からだという。 経費節減のために《本アルバム》と《インクレディブル・ジャズ・ギター》を1日置きにレコー ディングしようというアイディアを出したのはキープニュース自身で「ひとつのレコーディング に遠方よりミュージシャンを呼び寄せるなどという贅沢は、めったにできるものではない。 だがほんの数ヶ月前にウェスのデビュー・アルバム収録の時は急遽スケジュールにはめ込んだ」 と弁解するが、ウェスの2枚目のリーダ・アルバムを録るにあたり「どうせウェスを呼び寄せる なら、ナットの創意に富んだプロジェクトでもフィーチャーさせようと考えた。ナットはユニー クなサウンド編成でのアンサンブルを絶えず試みており、このレコーディングでのコルネット、 ギター、チェロというフロントラインは、その後誰かが再現したという話は聞いたことがない」 という。 ナットは管楽器編成での試みはあったが、このユニークな編成は明らかにウェスをリヴァーサイ ドの主要メンバーとして迎えた証拠でもあり「ナットもキャノンボールもウェスのギターをイン ディアナポリスの深夜セッションで見て以来、ともにウェスとの間に特別の絆を有したというこ とを再認識しなければならない」と念押ししている。 「両方のプロジェクトにウェスのほかにパーシー・ヒースを参加さたのは緊張を和らげるつもり だったが、最初のつまずきはナットの2回目のレコーディングを行なう水曜日(1月27日)、彼か ら来られないと連絡があったときMJQのジョン・ルイスにリハーサルのために呼び戻されたと 思い、それを皮肉交じりに書いたこともあった。売れていただけに厳しく統制さていたという感 じだった。そこでサムの友人のキーター・ベッツに来てもらった。彼も実力のあるベーシストで チェロもこなしておりエラやチャーリー・バードなど注文の多い一流どころのバックを長い間務 めていた」というが、さらに円滑に運ばない主たる原因があったようです。 本サイトのあらすじでは『27日は再びナットのレコーディングに参加したが、2曲目の〈フォー ルアウト〉に入った時アル中のティモンズが酔い潰れたため、録りなおしはピアノ・レスになっ たことからこの曲名(脱落)がつけられた』と記載したが「まだ24歳という若さなのに、ひどい麻 薬中毒症状のため初日は(1月25日)3曲で切上げ、2日目は何とか4曲録りあげたが、ティモン ズは2曲を録ったところで脱落してしまった」というからアル中でヤク中だったのかな?。 あとの2曲はフロントラインのトリオでバラッドを録るつもりだったらしく「ナットはティモン ズのことで自身が消耗しており、続行は無理と判断した」ということで、3回目のレコーディン グ(1月28日)は、ウェスが《インクレディブル・ジャズ・ギター》を録りあげたあと、ナットと サムらと再び合流し、私自身4日間で5回目のレコーディングを組んだことになった。 その晩、寝たのは翌日になっていたと思う。しかし、いま聴き返してみても素晴らしい作品であ ることに私は満足以上の感慨を覚えている」と全てを語った。

★《ウェス・モンゴメリー / インクレディブル・ジャズ・ギター / UCCO-9485》ウェス・モン ゴメリ(g) トミー・フラナガン(p) パーシー・ヒース(b) アルバート・ヒース(ds) 1960年 1/26、28、ニューヨークにて録音 1) エアジン                 5) ウエスト・コースト・ブルース     2) D-ナチュラル・ブルース         6) イン・ユア・オウン・スウィート・ウェイ 3) ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス  7) ミスター・ウォーカー 4) フォア・オン・シックス           8) 風と共に去りぬ キープニュースはこのアルバム・タイトルにいて「《インクレディブル・ジャズ・ギター(驚異 のジャズ・ギター)》なるネーミングを新人のウェスに使うと言うことは極めて高慢なことでは あるが、若くても才能が認められれば誰しもが納得する事と思い付けたが、初期のリヴァ−サイ ド作品において2回目の事だった」あとのひとつはビル・エヴァンスの2枚目のアルバム《エヴ リバディ・ディグス・ビル・エヴァンス(皆が気に入るビル・エヴァンス)》と言うが「思惑どお りだったし、誰からの苦言もなかった」と前置きし「評論家から高評を得たものの、本人らは私 のやり方に戸惑いを感じていたようだ。しかし、エヴァンスの才能はまもなく認められることも 分かっていたし、ウェスのインクレディブルも間違いのない事実だった。」と話す。 キープニュースがウェスを知る決定的な機会となったのは、既に承知のごとくキャノンボール・ アダレイが巡業先のインデイアナポリスで見出し報告を受けたこと以外に「1959年9月になって キャノンボールからウェスを獲得する熱烈な要望があった頃、自社にジャズ・レヴュー誌が届き 評論家(ほかにも肩書きがある)としてのガンサー・シュラーの書いたインデイアナポリスのオル ガン・トリオのバンドについて想像もしなかったレヴューが印象的で、偶然この異なるふたつの 出来事が決心させた」と言うことで、その数日後インデイアナポリスへ飛んだ訳です。 「ウェス・トリオがレギュラー出演している "ターフ・バー" で一晩聴き、アフター・アワーズ は案内された "ミサイル・ルーム" にも席をとり観察したが想像以上の素晴らしさに驚いたとい う話は、過去何度も言ってきたが決して大げさなことではなく紛れもない事実だから。」 未明に3年契約を交わしたあとキープニュースに不安がよぎったらしく、昔の日本でもあった就 職したら上京へと同じく当時としては成功を目指すには先ずニューヨークへ移住しなければなら ないと言うことが必須条件でしたが「移住できない条件を沢山抱えている若手ミュージシャンも 少なくなく、ウェスも6人の子持ちで7人目の出産日が近いことから叶わぬこととして、レコー デイングの段取りは距離と時間を考慮すればよい」と考えた。 「初レコーデイングはニューヨークが相応しいと思うのは信頼できるスタジオがあり、優れたエ ンジニアを使うことで最小のスタッフで済むことからウェスのプレッシャーを和らげることがで きると考えたからだ。」 不安話はこれだけではなかった。ウェスから飛行機嫌だと聞かされことについて「かなりあとで ウェスから聞いたことだが、キャノンボールの推薦からこのチャンスを得たことに対して好意を 無駄にできないという決意からフライトの恐怖心を我慢したようだ」と説明している。 そしてデビュー作は多くの評論家から高評を貰ったにもかかわらずレコードの売れ行きは「覚悟 はしていた」というだけに芳しくなかったようだ。 そこでキープニュースは、ウェスに絶大なるな称賛と大ヒットをもたらせるべく強力なサポート でのアルバム作りを考えた。 絶えずミュージシャンの芸術性を生かした純粋なジャズにこだわりを持っていたキープニュース は、丁度そのころリリースしたキャノンボール・アダレイの《ジャズ・ワークショップ》が大ヒ ットの兆候を見せ始めたことで目算はあったようです。 《ジャズ・ワークショップ》で共演していたナット・アダレイはニューヨークから戻り、ウェス のギターをフロントに入れたリーダ・アルバムをレコーデイングしたいとキープニュースに相談 を持ちかけたことから、ウェスを《ワーク・ソング》で共演させ、別にリーダとして《インクレ ディブル・ジャズ・ギター》を4日間一日交替で録ることを決定した。 ウェスをプロデュースするにあたり、堅実なリズム・セクションとして「どういう訳かあまりリ ヴァーサイドへは顔を出さないトミー・フラナガンだったが、話すと良い返事だった。その後親 しくつき合ったが、彼は伴奏者として文句の付け所がなかった。 ベーシストは《ワーク・ソング》にも共演するパーシー・ヒースを掛け持ちさせ、ドラムスには 彼の弟で新人のアルバート・ヒースを登用した。レコーディングはスムースで緊張しやすいウェ スもこのときばかりは何事もなく、ストレスからくる煙草の吸いすぎもなく、初日に5曲録りあ げることができたので残り3曲は2日後に予定した。」 ふたつのプロジェクトで《ワーク・ソング》ではボビー・ティモンズに足を引っ張られたが、こ のレコーデイングでも悔やまれる事がひとつある「それは永遠に悔やまれることなんだ。このセ ッションはどれもが名演であったにもかかわらず、アルバムに収録できなかったテイクが紛失し ていて、どうしてそうなったのか誰も知らないと言うんだ。古い録音を消して再利用に使ったテ ープをどれほど見たことか、恐らく誰かが許可していたのだろうけど、とにかくベストテイクと して選んだ曲は残され、ウェスによる文字通りインクレディブルなプレイを今でも聴けるだけで も良かったと思う」と言う。

★《ミルト・ジャクソン&ウェス・モンゴメリ / バグス・ミーツ・ウェス+4 / UCCO-9492》 ミルト・ジャクソン(vib) ウェス・モンゴメリ(g) ウィントン・ケリー(p) サム・ジョーンズ(b) フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds) 1961年 12/18、19、ニューヨークにて録音 1) S.K.J. 7) デライラ(テイク4) 2) ステイブルメイツ(テイク4) 8) ステイブルメイツ(テイク2) * 3) 星へのきざはし(テイク3) 9) 星へのきざはし(テイク2) * 4) ブルー・ローズ 10) ジングルズ(テイク8) * 5) サム・サック 11) デライラ(テイク3) * 6) ジングルズ(テイク9) * ボーナス・トラック      ボーナス・トラックに新しいテイクはなく、既に発表されたものであったことを前置きにします。 このレコーディングにおけるウェスとの共演はバグス(ジャクソンのニックネームで、袋という意 味ながら眼の下の弛みが大きな袋のようでいつも寝不足のような顔をしていることからつけられた) からの要望であった。 「ミルト・ジャクソンとの契約交渉で、彼が最後に示した条件はウェスとの共演でレコーディング させて欲しいというものであった。 既にジャズ界ではベテランの地位にあるジャクソンが、なぜ新人のウェスにこだわるのか不思議で したが、いいアイディアだったので断る理由もなく即座に了承した。」同じ1923年生まれというこ とが影響しているのか「ウェスが3月6日でミルトが1月1日生まれ、私が3月2日生まれなんだ が」花の23トリオということですか「ウェスは59年後半に初リーダ・アルバムを録るためにニュー ヨークへやって来たが、それからまだ2年も経たない61年末にこのユニークなプロジェクトが組め るなんて・・このときジャクソンはジャズ史上最も高い評価を受け、MJQの主要メンバーとして 既に10年近く活動していたんだ。バグスはウェスがジャズシーンに出現した当初から公に評価して いて、ウェスはそのことをとても喜んでいた。」これは本サイト【時代別アルバム】【リヴァーサ イド録音】の【Bags Meets Wes!/Milt Jackson And Wes Montgomery】で説明のとおり『2年ほど 前(59年頃)、ジャクソンがしばらく入院している間、上手く電話を活用していくうちに、彼の病室 は "ウェス・ファン・クラブ" の本部のようになってしまった』という熱の入れようはうなずける 話です。 「ウェスについては、まだ売り上げの貢献に至らないとはいえ存在がもたらす影響は大きく、ジャ クソンが持ち出した最後の契約条件がなかったとしても二人の共演は実現しただろう、とまでは言 わないがアイディアを即座に受け入れたことは正解であったはずだ。 さらに私が薦めるリズム・セクションのウィントン・ケリー、 サム・ジョーンズ、フィリー・ジ ョー・ジョーンズの3人を使おうと強く主張したのも良かったと思うが、なんと言っても聴き所は 2人のリーダのコラボレーションである。 2人の音楽や考え方や性格には共通する部分が多く、ブルーズをひとつの言語に例えるなら2人と も"はなし上手"といえる。」逆に"はなし下手"については「例えば賞賛されているミュージシャン でも、バラッドにおいてはただスローテンポで演っているだけで何も伝わってこないとけという者 もいるが、このアルバムでの2人の演奏はほかに類を見ない豊かさと充実感が伝わったくるよ」と いう。 ウェスのインプロヴィゼーションに対する独自のアプローチについて「どのように"理解し発展"さ せたのか、ウェス自身や彼を若い頃から知っているという人から納得できる説明をついぞ聞かなか ったが、ウェスと共演した事のあるロン・カーターの説明によると・・レコーディングのときは譜面 の読み書きができないことを承知の上で耳で聞きながら打合せしたが、ウェスの作曲も演奏も複雑 なうえに音楽理論に適っていた・・と説得力あるものだ」とあるのですが、このような打合せが役 立ったのも事実でしょうが、これだけでは本質的な部分が説明されていないようにも思います。 キープニュースは《インクレディブル・ジャズ・ギター》のライナー・ノーツでは「ギターの習得 はチャーリー・クリスチャンのレコードが先生となりかなり聴きこんでいた」と説明していますか ら、クリスチャンで"理解"し、ロンなどの耳での打合せで"発展"させたということでしょうね。 「ジャクソンもウェスも違う意味での不器用さは楽して成功を味わうというタイプではないが、と もに芸術性に富んだ実績を築き、同時代や後世のミュージシャンに多大な影響を与えた。そして一 緒にレコーディングできたこの2日間がいかに幸せなことだったかと、私はいつも感謝している」 といいながらにも、リヴァーサイド倒産後、ウェスがポップ路線のスターに祭り上げられ、栄光の 座を掴んだとはいえ、そのプレッシャーが一因となり重篤な心臓発作で若くして無くなった事を、 キープニュースは今も悔やんでいるようです。 しかし、このレコーディングで初顔合わせとなったウィントン・ケリーとの出会いは、その後の4 年間ウェスにとってジャクソン以上に大きな成果となったのも事実であり、私個人としては欧州ツ アーの体験やヴァーヴ、A&Mでの成功も考えると若死にとはいえ悔いのない生涯だったと思って いる。

★《ウェス・モンゴメリ / フル・ハウス+5 / UCCO-9482》 ウェス・モンゴメリ(g) ジョニー・グリフィン(ts) ウィントン・ケリー(p) ポール・チェンバー ス(b) ジミー・コブ(ds) 1962年 6/25、バークレー、ツボにてライヴ録音 1) フル・ハウス 7) キャリバ(テイク1) * 2) アイヴ・グロウン・アカスタムド・トゥ・ハー・フェイス 8) 降っても晴れても(テイク1) * 3) ブルーン・ブギ 9) S.O.S.(テイク2) * 4) キャリバ(テイク2) 10) ボーン・トゥ・ビー・ブルー(テイク1) * 5) 降っても晴れても(テイク2) 11) ボーン・トゥ・ビー・ブルー(テイク2) * 6) S.O.S.(テイク3) * ボーナス・トラック 「ウェスのスタジオ・レコーデイングでの最高傑作は《インクレディブル・ジャズ・ギター》だと 言えるが、音楽的にこれを凌ぐのがライヴ盤でもある《フル・ハウス》だね」とキープニュースは 断言した。 「スタジジオでのウェスは平凡すぎる」とウェスのライヴを何度も見たり聴いたりした人たちの声 があがるたび、彼のライヴ・レコーデイングの話題が自然に盛り上がってきた。 しかしこの時期のウェスは自分のバンドもなければレギュラー契約していたクラブもなかったこと から、ライヴ録りできる場所がなかった。 キープニュースは「その前に巧いプレイアーとのコンビネーションを築きガッチリ噛み合ったユニ ットに仕上げていなくてはと思うが、時の運にも左右されるし、各々のテクニックや経験も関係す るのでそう簡単にはいかなことをウェスは十分理解していた」と言うが、その運が早くも開けてき た。 「当時ウェスは兄弟達とサンフランシスコに滞在しており、バークレーにあるコーヒーハウスから 毎月曜の夜の出演を請けたと報告してきた。 すぐさまメンバーは現地で見つかったようで「あたるうちにマイルス・デイヴィスが "ブラツク・ ホーク" に出演すると聞いて共演メンバーのウィントン・ケリーに連絡を入れた。このときのベー シストはポール・チェンバース、ドラムスはジミー・コブ、うけること間違いなしと思っていたら ケリーから返事があって・・マイルスが狂乱のごとく反対している・・と言ってきた」どうやら、 キープニュースはマイルスも含めて要請したらしく「ケリーに俺(マイルス)は参加しないと伝えさ せた」うーん、それは確かにお怒りごもっともなことです。 それでケリーはマイルスにこう言い訳して「この要請はキープニュースからではなく私からお願い したことなんだ」ということにして、「結果、ギャラはマイルスに支払い、ケリーに渡されるとい うことで決着(あとあと問題はなかったと思うが)した」と、ケリーの機転で治まった。 以前までの話ですと、出演させないならギャラはマイルスに「その分あなたが支払ってくれるので すか」と詰め寄った、とありましたが実際は凄い話だったんですね。 それにしてもマイルスが出演していたらどうなっていたんでしょう。きっと蛇(帝王)ににらまれて 蛙(ウェス)は弾けなかったことから、この名盤は誕生していなかったでしょうね。 キープニュースの構想はとにかくワンホーンを加えたかったのでしょう「話はまだ続くのだが、仕 上げとして "ジャズ・ワークショップ" に出演していたジョニー・グリフィンの了承を得たことで 準備は整った。」ウェスは高く評価していた友人でもあるグリフィン、とキープニュースは説明し ているがどこで2人は繋がっていたのでしょう。やはりシスコのクラブでお互い見ていたのでしょ うか。 かくしてライヴ・レコーデイング行われる当日午後にリハーサルが行われた「曲数は7曲と決めら れたことから1曲にたいして2〜3テイク演奏する事になった。ライヴ録りのエンジニアには適任 のウォーリー・ヘイダーが簡単ではないこの作業に協力してくれたことで万事うまくいった。」 ウェスはキープニュースとの出会いから僅か8年後に全ての幕を閉じることになって「このアルバ ムを含めウェスと係わった全てが、彼の伝説を残す上で役に立ったことを誇りに思っている。私は 占いを信じる訳ではないが、ウェスとの出会いに強い何かを感じている。私の誕生日は1923年3月 2日、ウェスは同年同月の4日後、出会うべくして出会った運命を感じずにはいられない。」 ---------------------------------------------------------------------------------------- この手紙は、CD12枚組《リヴァーサイド・コンプリート・レコーディング》がリリースされ、その 録音データのことでキープニュースに質問の手紙を差し出し、返事をいただいたものです。