Wes Montgomery(g) Buddy Montgomery(vib) Riche Crabtree(p) Monk Montgomery(b) Benny Barth
(dr)
Los Angeles; Apr.22,1958
Overture: Not Since Nineveh; Olive Tree;
Stranger In Paradise; And This Is My Beloved;
Night Of My Nights; Sands Of Time [6:47]
Olive Tree [4:58]
Not Since Nineveh [7:20]
Baubles, Bangles, And Beads [3:25]
Fate [5:16]
And This Is My Beloved [6:22]
Stranger In Paradise [4:51]
このレコードも国内盤は未発売である。挿入曲〈ゼスチックレイト・アンド・リメス・ハヴ・ア
イ〉においてウェスは、喫煙のため小休止!
話は少し遡るが、1953年暮れモンク・モンゴメリはライオネル・ハンプトンとの数年間のロード
を終え2~3カ月シアトルに滞在しその後インディアナポリスに帰ってきた。
彼はハンプのもとでフェンダー製のエレキ・ベースを弾きこなしたが、それを活かすためにも独自
グループの早期結成を企てていた。
末弟のバディも常々そのことについて賛成の意向を示しており、モンクが不在の間彼は "インディ
アナポリス・ジャズ・クウォーテット" なるバディ・モンゴメリ(vib) をリーダとし、アル・プラ
ンク(p) 同じインディアナポリス出身のベニー・バース(dr)そして驚くなかれエレキ・ベースにウ
ェス・モンゴメリをたてたコンボを一時的ではあったが結成していた。
そしてモンクがリーダとし新たに結成された "マスターサウンズ" にはピアニストがリッチー・ク
ラブトリーに変わったが、彼にとって一番悲しいのはみんなの説得にもかかわらずウェスの参画が
実現しなかったことである。
その背景には、モンク以前にウェスもまたハンプトン楽団での2年弱のロードで、肉体的にも精
神的にも疲れ果て帰った経緯があり、そのことで再び家族に迷惑をかけることができなかった。
そのことはモンクも十分認識しており、必要以上にウェスへの勧誘はしなかった。
最強の助っ人は得られなかったものの、こうして "マスターサウンズ" が誕生したわけでグループ
のネーミングはバディの妻ルイス・アン・モンゴメリが提案したものである。
モンクの経験から活動の舞台はシアトルに決められ、1957年1月14日“デイヴス・ブルーズ・ルー
ム”で3カ月間の契約を交わした。
しかしその成功も束の間グループはどんな事態にも備えていたが続く3カ月は日照り状態あった。
そこでその間を利用して彼らは共同出資でデモ・テープを作り、モンクをシスコやロスへレコード
会社と専属契約を得るべく送り出した。
『総ての資金を費やした。本当に最後のあがきだったよ』、とモンクはいう。
ハリウッドへ行く途中モンクはシスコに立ち寄り、そこでレイ・ゴーラムと逢った。
彼はマーケット・ストリートでノン・アルコールのナイト・クラブ、“ジャズ・ショーケース”を
経営しておりモンクが持参してきたデモ・テープを聴き、即座に“マスターサウンズ”との契約に
応えた。
吉報に彼らはシアトルをあとに、新天地と 自作の〈ウェス・チューン〉と〈デクスター
なるサンフランシスコに移動し西海岸を中心 ズ・デッキ〉の2曲でアレンジを任されたと
に活動が始まった。 いう。
グループの人気が徐々に高まる1957年夏のあ 2作目の《キング・アンド・アイ/ World
る日、モンゴメリ家と以前より親交の深いレ Pacific PJM-405》 がアメリカのジャズ・ア
ロイ・ヴィネガーがワールド・パシフィック ルバム売り上げ第1位としてダウンビートに
・レコードのディック・ボックに電話をかけ ランキングされるとボックの思惑とは反対に
た。 グループ内ではもう一度ブロードウェイ・ミ
『聴いてもらいたいテープがある。凄いグル ュージカルを題材にしたいという声が揚がっ
ープなんだ』、ボックは彼らのプレイを聴く た。
なり極めて簡単にレコーディングの段取りを 色んな試みが討論されたが“マスターサウン
設定した。 ズ”のアレンジ担当バディが《キスメット》
初レコーディングは《ジャズ・ショーケース を提案した。
・イントロデューシング/ World Pacific バディは、関係者がこのアルバムのテスト・
PJM-403》 と決まり、『いまだに全く信じら プレッシングを聴こうとしたとき『私は一度
れないよ』、とモンクはいう。 も演劇やミュージカル、それに映画を観たこ
『こんなふうになるとは思いもしなかった。 とはなかったが』、と前置きし『映画のサウ
私がいえるのは心から感謝しているというこ ンド・トラッグ盤を聴いてメロディにたいへ
とだけだよ』。 ん印象づけられた。とくに転調するところが
ここでウェスにまつわるエピソードを紹介す いいね』、と答えた。
ると、そのアルバムで彼も間接的に参加して
いる。
“キスメット”は1911年クリスマスの夜に 『さらに大切なことは、ウェスのプレイによ
NY公演で初日を飾り、俳優オーチス・スキ ってグループのサウンドが一段と引き締まっ
ナーが演じ成功した最高のミュージカルとな たことだ』、とバディは強調した。
った。 結局、ウェスが“マスターサウンズ”に参加
以後1920年、30年、44年の映画化に伴い、再 したアルバムはこの《キスメット》1枚限り
びシスコにおいて53年8月17日初日の幕開け であったが、彼らが2年前にデビューした“
に引き続き、12月3日にはNY公演で贅沢な ジャズ・ワークショップ”と契約が切れた19
舞台装置を施し大ヒットとなり、54年にハリ 60年2月1日をもってこのグループは解散し
ウッドのオスカー賞に相当するブロードウェ た。
イでのアントアネット・ペリー賞を獲得する モンクはこのことについて、『我々はウェス
と同時に、最優秀音楽賞、最優秀ミュージカ 抜きで長い間演ってきたが、彼なしではもう
ル演劇賞、最優秀ミュージカル演出賞、最優 これ以上続けたくなかったんだ』、と意味あ
秀脚本賞をもさらったのだ。 りげなコメントを残した。
同様の成功はロンドンにおいても収められこ その裏にはモンゴメリ3兄弟を中心とした新
の“キスメット”こそ長年にわたって愛され グループの結成“モンゴメリ・ブラザース”
たヒット作であり、多くの音楽家や評論家に の話が進められており、その時点ではサック
よると“キング・アンド・アイ”以上に優れ スのハロルド・ランド、ドラムスのローレン
たブロードウェイ・ミュージカルであるとい ス・マラブルが加わる予定で、コロンビア・
う。 レコードと契約交渉中であるという噂であっ
このアルバムにおいての成功はバディの着眼 た。
もさることながら、客員ウェス・モンゴメリ
のギターによる影響が大きい。 =本アルバム及びジャズ・ショーケース=
より複雑な音楽のタペストリーを織り込むた ライナー・ノーツ参考
め、ウェスレィ(ここではWesのことをW
esleyと紹介している)がグループの他
のメンバーとは違った、彼独特の素晴らしい
糸を織り込んでいる。
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