Wes Montgomery(g) Harold Land(ts) Buddy Montgomery(p) Monk Montgomery(b) Tony Bazley(dr)
Los Angeles; Apr.18,1958
Hymn For Carl [4:32]
Montgomery Funk Montgomeryland Funk [4:00]
Stompin' At The Savoy [4:17]
note: There is another data as reference. "Forum Theater, Los Angeles, April 24, 1958"
上記3曲以外にも〈サウンド・キャリア〉〈ボック・トゥ・ボック〉〈ボーバルズ・バングルズ
・アンド・ビーズ〉が挿入されているが、既に《モンゴメリ・ブラザーズ・アンド・ファイヴ・ア
ザーズ》や、《キスメット》で発表されている。
初めに、このアルバムは国内で再発された 考えてみるに、ウェスがワールド・パシフィ
とき【初期のモンゴメリ・ブラザーズにおけ ックでレコーディング・デビューしたとき、
る快演】などと“モンゴメリ・ブラザーズ” 彼は広く世間に脚光を浴びた訳ではなく、む
バンドと紛らわしく宣伝されていることがあ しろ“マスターサウンズ”で活躍中のモンク
った。 とバディに注目がむけられ“マスターサウン
勿論1958年のレコーディングであるから“マ ズ”名義のアルバムが売れた時代でもあった
スターサウンズ”が活躍の最中であった。 ため、それら7曲がお蔵になっていたのであ
しかし、このアルバムが1961年6月にリリー ろう。
スされたとき、既に“マスターサウンズ”は しかし、ウェスがのちのリヴァーサイドで人
解散しており“モンゴメリ・ブラザーズ”が 気を博した裏には長兄モンクによる尽力も忘
活躍していたというのも事実である。 れてはならない。
そんななかウェスは“モンゴメリ・ブラザー 最初にワールド・パシフィックのリチャード
ズ”のメンバーとして、またリヴァーサイド ・ボックにコネをつけるまで、モンクはあら
で独自のグループを結成し、その人気は確実 ゆるチャンスを利用してウェスのことをアピ
に上昇していた。 ールしてきた。
ワールド・パシフィックのリチャード・ボッ 彼がウェスのことを初めて紹介したとき、
クはこの状況から、1958年にレコーディング 『実はもうひとり弟がいるんだ』。彼はまる
したがリリースのチャンスを逃していた7曲 で信じられないというように頭を振りながら
のなかから3曲をピック・アウトし、既にリ 、『彼にはとても適わないよ…ほんとに…彼
リースしていた3曲を抱き合わせ、再びその のプレイを聴くまで少し待ってくれないか、
恩恵に授かったのである。 彼の名前はウェスっていうんだが…何ていう
か…説明しにくいんだ』。
“マスターサウンズ”を率いるモンクは、 彼はMJQのミルト・ジャクソンと一緒に仕
エレキ・ベースもアップライト・ベースも弾 事をしたことがあり、1957年の《ブルーズ・
きこなすプレイヤーとしてどこのリズム・セ アンド・バラッズ》で〈ブルーソロジ〉と
クションにもめったに存在しない、当時とし 〈フォンテッサ〉で“マスターサウンズ”と
ては数少ないジャズ・プレイヤーのひとりで は全く違ったタイプのプレイを披露しており
あり、その印象は〈ヒム・フォー・カール〉 個性的なピアニストととして成長していた。
でのウォーキング・ベースの乗りのよさで、 更に彼は作曲家として編曲者としても才能を
ハロルドとウェスのバックで聴くことができ 発揮しており、こういった一面をみると本当
る。 に驚嘆させられる。
他のベーシストなら、小人数のグループで効 パシフィックにおける一連のアルバムはモン
果的なプレイをするという問題を克服させる ゴメリ兄弟の音楽的進歩を記録した【モンゴ
ことは難しいであろう。 メリ物語】なのである。
それは、それぞれの楽器が持つ調子の相互関 3人の男の物語、彼等の音楽、彼等の過去、
係において、非常に合わせるのが難しく抹殺 そして彼等が向かっていった未来の方向のこ
し合うのは簡単なことであるが、彼のエレキ とである。
・ベースはウェスのギターと見事に融合して それらはこのレコーディングの足跡のなかで
いる。 一層よく語られており、忘れようとしても忘
1957年、“マスターサウンズ”の初アルバム れられない物語なのだ。
がリリースされる僅か2〜3カ月前にヴァイ
ブを始めたばかりのバディは、『ちょっと弾 =本アルバム=ライナー・ノーツ参考
いてみただけなんだ』と、モンゴメリ家特有
の控え目ないいかたで答えた。
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