Record Producer & Composer, Quincy Jones:
Wes Montgomery(g) Alonzo Johnson(ts) Buddy Montgomery(p) Monk Montgomery(b) Robert "So-
nny" Johnson(dr)
Columbia 30th Street Studio, N.Y.C.; Jun.15,1955
Love For Sale [3:41] Columbia FC38509 EPIC HLT-8014
Leila [2:56] −
Undecided [3:07] −
Blues [3:18] −
Far Wes [3:18] −
モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットによる1955年6月録音から一曲〈ラヴ・フォー・セール〉
がCBS/コロンビア・レコード《Various-Instrumentalists Almost Forgotten/Columbia FC38509》
として日の目を見たのが1983年のことでした。
残りテイクは行方不明とされてきたが、2014年4月レゾナンスレコードから発掘リリースされた。
《Wes Montgomery and The Montgomery-Johnson Quintet/EPIC HLT-8014》しかも10インチ装丁と
いうコレクターズアイテムでのリリースである。
というのは、当時エピックレーベルとしてリリース予定されていたことに拘ったことである。
このグループはハンプトン楽団を退団したモンクがしばらくシアトルで生活したあと故郷に帰り、
おもにモンゴメリ3兄弟とジョンソン兄弟が主導で1955年から56年にかけてモンゴメリ・ジョンソ
ン・クウィンテット(以下:MJQ)として結成された。
そのMJQが1955年、ニューヨークへ出かけての録音情報はいままで以下のとおり交錯していた。
@コロンビアのジョン・ハモンドに係るアルバムに数面分の録音をした。
Aアーサー・ゴットフリーのオーディションを受けた。
Bクウィンシー・ジョーンズの制作により録音した。
まず、@について《Various-Instrumentalists Almost Forgotten/Columbia FC38509》のライナー
ノーツにはジョン・ハモンドとの係りがあるようなニュアンスで書かれてあり、MJQの録音がされ
たと受け止められる。
しかし、その録音が〈ラヴ・フォー・セール〉を含むものであるとの確信は得がたい。
当時、ジョン・ハモンドはよくオーディションの録音をしていたようだが、その多くはリリースさ
れることはなかったという。
彼はいつもスタジオB(NY52番通)を使っていたということで、上記の録音データと合わない事が分
かる。
AとBはエイドリアン著の《ウェス・モンゴメリ》に説明されているが両者ともテープは行方不明
である」と、記載されている。
アーサー・ゴットフリーはCBSのスタッフであり、CBSはコロンビア・レコードを所有していたが、
傘下にジャズ、クラシックを扱うレコード会社として1953年に設立されたエピックにまで彼が影響
を及ぼしていたなら、クウィンシーとの関わりも感じられるが、AとしてMJQはオーディションのた
めの録音をしたという単独説が有力である。
一番確かなBはこのたび発掘リリースされたこのアルバムのライナーノーツに書かれてあった。
クウィンシーはウェスが退団した後の1951年から53年にかけてトランペッターとしてライオネル・
ハンプトン楽団に籍をおくが、ウェス同様ほとんどソロとしての出番はなかったようです。
つまり同じセクションにはクリフォード・ブラウンやアート・ファーマーが鎮座していたことによ
り、演奏よりアレンジャーとしての手腕がかわれ、53年のヨーロッパ・ツアーの成功に貢献した。
この時、ストックホルムでクリフォードとアートが地元のミュージシャンと共演した録音にも、ク
ウィンシーは自作曲や編曲で支援したり、他にもパリなどでも同じような行動をしていた。
しかし、ハンプトンは一切の部外活動を禁じていたことから話がもつれ、帰国後の12月にクウィン
シーは退団した。
もちろん、クリフォードやアートなどの大物も含め多くのメンバー・・その中にはエレキ・ベース
で奮闘していたモンク・モンゴメリ・・も退団した。
クウィンシーは退団後、アレンジャーとしてフリーの活動を始めた。翌年の12月にはエマーシーで
ヘレン・メリルのバックにクリフォード・ブラウンを配した《Helen Merrill/ EmArcy MG-36006》
そう、あの名盤はクウィンシーの編曲・指揮でした。
「私は雇われアレンジャーとして仕事をしたけど、当時ほとんどのアレンジャーはプロデュースも
やらなければならなかったんだ。
私はプロデューサーがどんなものだかわかっていなかったけど、それをやっていた。」二つの仕事
を兼ねるのは今では当たり前のことですが、編曲者はそれがどのように仕上がるのか一番気にかか
るところですからおのずから指揮にも影響を及ぼしたくなるのは極自然のことです。
この53年にコロンビアテレビ局の子会社、CBSレコードの傘下にジャズ、クラシックを扱うエピック
・レコードが設立された。
「CBSでは当時、黒人用ラジオで流せるようなリズム・アンド・ブルースの新しいレーベルを立ち上
げようとしていた。
マーヴィン・ホルツマンがその担当で、ドン・コスタや私のようなアレンジャーと一緒に、エピック
というレーベルを興すことにした」とクウィンシーは語るが、ここでの立場は専属的な意味合いとは
思えない行動もある。前述のようにエマーシーや他でも仕事をしている。
55年になって「モンゴメリ3兄弟とのこの日のセッションは試しに録音したものだった。」と語るの
はこのたび発掘リリースされた本アルバムのことですが、クウィンシーは「私がライオネル・ハンプ
トン楽団のメンバーとしてナップタウン(インディアナポリスの別名)に行ったとき、ウェスの部屋で
寝泊まりした。」と言っていることから、既にウェスについての技量は見抜いていたことになる。
「それは私のアイディアなのだけど、マーヴィンは22歳の新参者である私を信頼してくれていた。」
と言いMJQの全員に声をかけ、このセッションのために車に乗せ、自ら連れて行った、と説明している。
確かに、エピックでのセッションですが、たとえばサックス奏者、ソニー・スティットの1955年録音
のジャズ・アルバム《Sonny Stitt Plays Arrangements from the Pen of Quincy Jones/ROOST LP22
04》は9月から10月にかけてのニューヨーク録音、それにそれ以前の1月でもエマーシーでクラー・
クテリー・セプテットにアレンジャーとして加わっている。
当時はこれが通常なのかどうかわかりませんが、とにかく、クウィンシーのMJQセッションについてそ
れらを裏づけるBとして録音したと言う証言話がある。
あるアメリカのラジオ放送局のスタッフが「私は今日プーキー・ジョンソンがベアーズ・プレイスで
のギグの前に、なんとか数分間だけ話をすることができたよ。 彼は、そのオーディション・セッショ
ンはクウィンシー・ジョーンズの依頼で行われたと言っていた。
プーキー自身ハモンドを知らなかったから、ハモンドがそこにいたのか、いなかったのかは覚えてない
そうだ。
グループは午後4時30分ごろにニューヨークに到着し、クウィンシーの家で6〜7時間過ごしたあと、
夜11時30分ごろレコーディングを始めたと言う。(訳注:プーキーによると、クウィンシーの家では単に
休憩しただけとのこと)プーキーによれば、グループは当時シアリングのようなサウンドを持っていて、
クラブの中ではかなりタイトに聴こえたが、その晩、マイクを通して聴いてみるとラグっぽいサウンド
になったという。
彼が言うには、グループはいささか疲労した状態であったため、その日は中止となったそうだ。
何面分レコーディングしたかを覚えていなが、その録音月日は正しいみたいだと言っていた。
近いうちに行われるインディアナポリスでのライヴで、プーキーに十分なインタビューが出来るので、
さらに詳しい情報が得られると思う。」というものです。
ラジオ放送局のスタッフの話のあとプーキーも亡くなっていますが、彼の証言からするとジョン・ハモ
ンドを知らない、ということ、クウィンシーの話の中にジョン・ハモンドもアーサー・ゴットフリーも
出てこないので@とAには〈ラヴ・フォー・セール〉絡みの録音ではないと判断する。
ただ「火の無い所に煙は立たぬ」と言うが@もAも何らかの形でMJQとの接触があったのならば、クウィ
ンシーとは別の音源が残っていると信じたい気持もある。
最後にクウィンシーが自身の才能についてこのように語っている「才能のあるミュージシャンが自分の
才能に気が付く前に私は見抜いていた」と言い、「ウェスは自分の才能に気付いていなかったし、誰も
ウェスが何者なのかを知らなかったんだ。その時点ではまだね。」と締めくくっている。
これほどまでにウェスの才能を見出しながらも、何故、録音をお蔵にしたのか・・本当の理由も言って
ほしかった。
仮に、その後ウェスがエピックと契約し、クウィンシーの編曲・指揮についていたら・・どうなってい
たでしょうね。
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