ギタリストのオルガンに関する問題
アイラ・ギトラー
私は気まぐれにNYからボストンへ何か美味いものでも食べようと飛行機にのりこんだが、何とも
贅沢で夢のような話だとおもっていた。
そして高級レストランのデュージン・パークでプライム・リブを味わった。それは "ジャズ・ワーク
ショップ" に出演中のウェス・モンゴメリへのインタヴューが本当の目的であった。
"ジャズ・ワークショップ" はボイルソン通りの内筋にあり、愛想よく物腰の柔らかな経営者ヴァテ
ィ・ハローツニアンはトランペットのハーブ・ポメロイのバンドが "ステイブル" で活動していた頃
サックスを吹いていた人物 (訳注: SJ誌の人名辞典にない) であるが、そのクラブはうす暗くて細
長く天井が低く手前に客席があり一番奥にステージがあるといった感じのよい店であった。
マスターの案内で席に向かうと、ウェスはオルガンのメル・ライン、ドラムスのジョージ・ブラウン
と演奏の最中であった。 (ボストンではウィーク・ナイトは1時に、土日は0時に閉店するよう法律
化されていたのでステージは早めに開演していた。)
このトリオはウェスが故郷のインディアナポリスにいた1963年の終わり頃に結成されたが、それはウ
ェスが1962年遅くに "モンゴメリ・ブラザーズ" が解散し彼が故郷に帰っていたから結成されたので
ある。
少し話を戻すが、1959年キャノンボールとガンサー・シュラーがウェスのプレイを聴いてリヴァー
サイドに推挙 (訳注: 評論家ガンサー・シュラーが絡んでいたとは初耳) したのを皮切りに、その秋
には《ウェス・モンゴメリ・トリオ》のレコーディングが行われ続いて1960年1月にはトミー・フラ
ナガン、ヒース兄弟によるウェスのリーダ・アルバムもリリースされた。
1961年、 "マスターサウンズ" で仕事をしていたベースのモンク、ヴァイブ兼ピアノのバディはウェ
スと組んで "モンゴメリ・ブラザーズ" を結成した。様々なドラマーを使うことでこのグループはか
なりの成功を収めたが結局は解散し、ウェスは故郷へ帰っていたというわけである。 (訳注: 話がい
かにも "モンゴメリ・ブラザーズ" 解散後にトリオが結成されたように説明しているが1963年の終わ
り頃に結成されるまでの間、こんな単純なものではないことに注意。) ここボストンのステージで彼
はインディアナポリスで過ごした頃について語ってくれた。
「そう、あの休んでいた頃・・・確か9ヶ月か10ヶ月 (訳注: これが "モンゴメリ・ブラザーズ" 解
散後の1962年の春から年末にかけての話になりその約1年後に先ほどのメルを含むトリオが結成され
たことになる。) の間僕は進むべき道に迷っていた。 "モンゴメリ・ブラザーズ" としてやり遂げた
かったが、うまくいかなかった。
我々兄弟は一緒に仕事ができるだけでよかったのだが、それすら、残念だよ、それで故郷に帰ったが
特にすることもなく、といってもそのままじっとはしていられなかった。」
1963年4月、ウェスはNYに来て2つのアルバムをリリースした。ひとつはストリングスをバックに
した《フュージョン》、もうひとつの《ボス・ギター》では彼のデヴュー・アルバムで共演したメル
・ラインがウェスと一緒にやってきてジミー・コブを加えトリオを組んだ。
その年の終わり頃、インディアナポリスへ帰ったウェスはメルとジョージと共に "ハブアブ" とい
うというクラブで4週間の仕事に就いた。もともとミシガン州レピッズから来たジョージ・ブラウン
という若いドラマーは、エネルギッシュでそのプレイはある意味でエルヴィン・ジョーンズを彷彿さ
せるものがあった。
「僕はよいサウンド作りのためバンドの編成にはある考えを持っている。色々と演ってみての結果に
今とても満足してるんだ。それは今までのものとは少し違うが我々がステージに上がったとき、観客
の眼がオルガンに注がれているのを見てロックン・ロールへの期待を想像するが、まあ一度聴いても
らえれば必ず気に入ってもらえるよ。」とウェスはいった。
ジョージは耳を清まし、メルはヴォリュームを抑え、まるでこのトリオは暖かな毛布で包んだような
サウンドを作っていた。
ウェスのギターはメルのサウンドに安心しているがオルガンの代わりにピアノやベースを使っても何
ら変わらない感じである。
ウェスはメルについて、「彼は目立ったプレイはしないがスタイルはピアノを弾くタッチと全く同じ
だよ。」 (メルはピアニストだった。今でもそうだがある晩のこと、彼は右手でピアノ左手でオルガ
ンを同じにプレイしたことがあった。)
更にオルガンについて、「オルガンて奴はフタをあけてプレイし始めるとうるさくて他の楽器が聴こ
えないんだよ。
しかしメルはヴォリューム・コントロールが巧いんだ。
ど派手に弾きまくる奴とは一緒に演れないね。何故って、僕のサウンドは親指で弾くからまろやかで
柔らかなんだ。だからってヴォリュームが小さいという意味じゃないが、例えばヴォリュームを上げ
たとしても柔らかさには変わりはないが突き刺すようなサウンドじゃない。普通オルガンとプレイす
るギタリストはピックを使って音を切るんだか、僕にはできなくてね。」
このモンゴメリ・トリオは私がボストンで会ったとき6〜7ヶ月間のロード中であり、3人はNYの
"ハーフ・ノート" と "カウント・ベイシズ" で契約を終えた後、ここに来るまでにフィラデルフィ
ア、シンシナティ、デトロイト、バッファロ、それにロチェスタでの出演もこなしていた。
この最中、困ったことにオルガンの取扱いと運搬に関する問題があった。
「オルガンを運ぶには力が要るんだよ。まあ、これに限らないが、つまり運び込んだり出したりする
のにね。」とウェスは困った様子であった。
移動の度オルガンはトレーラーで運ぶが、載せてしまうときはメンバ全員が協力していた。
「もちろん共同作業さ。メルもジョージも僕には手伝わせない気持ちだが見てみぬ振りできる訳ない
よ。」とがっしりした逞しい体格のウェスは笑って退けた。
このロードでオルガンに関して運搬とは別にもうひとつの問題があった。
「できるだけメンバでリハーサルしようと努力してきたが、」とウェスは再び困った様子で、「巡業
中は何でもメンバで取組んできたが、リハーサルの場所がないんだ。オルガンを運び込むとまるで馬
小屋だからね。
例えば月曜の夜から契約すれば火曜からリハーサルできるという訳なんだ。開店が恐らく朝の11時か
遅くとも12時だからそのころクラブに行けばいいんだが、それでまだ誰もいないと思い楽器のセッテ
ィングをし音を出すや否や2〜3人入り始め、カウンターに座ってビールをひっかけるんだ。
いいかね、朝っぱらからビールだよビール。
それに彼らはジューク・ボックスを掛けるかのごとく僕のところにやってきてリクエストするから、
リハーサルも何もあっもんじないんだ。連中ら開店していなかったらどうするの?
オーナーが近くに住んでいるので、この状態を説明し相談に乗ってもらおうと思ってる。全く困った
もんだ。もし他にスタジオを借りようものなら出費がかさむ事になるし・・・。」
昼からでもまじめに聴きたいと思っているお客さんはどうなの?「だけどそう多くはないと思う。
我々は本当に困ってるんだ。」とウェスは説明した。
初日のステージでウェスは全体のサウンドが前席でどのように響いているのか考えていたが、私は
2〜3の曲を既にテープに収めていた。そしてフィード・バックさせウェスに聴かせてみた。
バランスは良いがステージの上ではそんな風に聴こえないといった。
「僕にはギターのサウンドが切れているように感じる。ギターはオルガンよりも伸びるはずなんだか
、」といいながら「しかしパワーはオルガンのほうにあるので、電気楽器を2つ使うことにしたんだ
よ。クォーテットがピアノ、ベース、ドラムス、それにギターというのはごく自然のことだが、僕が
オルガンについていっている事実こそ自然であり当り前でもあり偶然に気付いたことなんだ。」
モンゴメリ・バントのさし当たっての計画を尋ねてみた。
「 "ハーフ・ノート" での契約があるのでそれまでここにいるつもりだよ。僕には仲間が帰りたがっ
ているのかNYへ行きたがっているのか判らないが、とにかくオルガンを運ばなければ・・・もしメ
ルが帰るといえばそれまでだし、その時はオルガンをどこかに預けなければ、 "ハーフ・ノート" に
置くわけにもいかないし・・・表に運び出しトレーラーに積んだままにしておくわけにもね。」まる
でバンドの中に4人目を抱え込んでいるようなものですね、というと、「全くだ。」とウェスはあい
づちをうち、「何て重い奴だ。重すぎるよ。」と語ってくれた。
このインタヴュー記事で、その結末がダウン・ビート誌1964年8月13日号に掲載されているの
で紹介する。
『ダウン・ビート誌7月16日号においてウェス・モンゴメリーが述べたこれらの基本的な問題はその
後まもなく彼を悩ませるようになった。
彼はそのオルガンをインディアナポリスに置いてきたが、それは誰かが6月下旬と7月上旬の "ハー
フ・ノート" との契約のためにオルガンを貸してくれるだろうと踏んでのことでした。
けれど、利用できるものはひどい状態のものだったため、結局ドラムスのジョージ・ブラウンとオル
ガンの代わりにピアノを弾くメル・ラインらのレギュラーメンバーにベーシストのサム・ジョーンズ
を加えることになった。』と書かれてあった。
サム・ジョーンズが "ハーフ・ノート" でウェスと共演したことは判っていたが、 "ウィントン・ケ
リィ・トリオ" と活動した1965年代ではなくこの時だったのですか。
もうひとつ興味深い話をします。
これはジャズ批評73号、 (1991年12月30日号) でコルトレーン・コレクターの藤岡靖洋氏が "コル
トレーン情報" として掲載した記事によるものですが、『64年、エルヴィン・ジョーンズの誕生日に
NY州バッファローのあるホテルの一室にい合わせたメンバは凄い。コルトレーン、エルヴィン、ジ
ャック・マクダフ、レッド・ホロウェイ、それにウェス・モンゴメリと当時ウェスの追っかけをして
いたジョージ・ベンソンで、ウェスはトリオで、トレーンは例のクウォーテットで各々別のクラブへ
出演したあとだった。』という。
エルヴィンの誕生日は9月9日というから、ウェス・トリオは "ハーフ・ノート" の契約を終えてい
たという話のつじつまは合うのですが、藤岡氏の話によるとこの日このバッファローで "コルトレー
ン・クォーテット" と "ウェス/マクダフ・コンボ" のコンサートが演られたというのです。
この記事はダウン・ビート誌にも載っていません、藤岡氏ならではの情報です。
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