レコーディング・データをみて解かるように、3セッション7曲で《ウィロウ・ウィープ・フォ ー・ミー》は構成されている。 ケリィ・トリオとウェスの共演は1965年6月下旬から66年5月の間に集中しており、欧州での成功 が彼の自信をより一層深めるとともに、脂の乗りきった魅力溢れるプレイでファンの心を掴んだ。 これらのデータで共通していることがある。それは3セッションとも総て【金曜日】ということが わかった。 当時WABC−FM放送局は毎週金曜日 "ハーフ・ノート" よりこのウェスをゲストに迎えたケリイ・ト リオを初め、コルトレーン、キャノンボール、アル・コーン等々、大物ミュージシャンの音楽番組 "ポートレイト・イン・ジャズ・ショー" をオン・エァし多くのファンをラジオの前に釘付けさせ るほどの聴取率を稼いだ。 この時代、カセット・デッキはなかったがオープン・デッキはマニアの間では広く普及しており、 これらがエァ・チェックの絶好の的になったのも当然のことであった。 ヴァーヴはこのエァ・チェックされた比較的状態のよいテープか、もしくはWABC−FM放送局より3 セッション分のマスター・テープを譲り受け《ウィロウ・ウィープ・フォー・ミー》と題しリリー スした。 では、何故それらのテープに挟みをいれたりオーケストラをオーヴァーダビングしなけれはならな かったのか。 1992年6月、ウェスの命日に近いある日、私は某マニアからこれ等3セッションを含む7セッショ ン分のエァ・チェック・テープをついに探し当て何度かフィードバックさせるうち、ここに意外な 事実を発見した。 《ウィロウ・ウィープ・フォー・ミー》での問題点とその事情は次のようであった。 B・プライスリーが前述で語っていたように、 「〈サリー・ウィズ・ザ・フリンジ・オン・トップ〉ではケリイのソロをあんなにも露骨にカット する必要があったのか?」 という疑問に答えると、これはケリィのソロが2コーラス目に差し掛かったとき、突然司会者がメ ンバーの紹介で割り込み演奏そのものの音量が下げられ、その後ウェスのソロに移ったとき放送時 間の関係でフェイド・アウトされていたので、この部分を編集したという訳である。 また、〈フォー・オン・シックス〉ではケリイのソロがこれから乗ろうとしたとき、やはり放送時 間の関係で同じように司会者のコメントが被さり、それを聞いたウェスは慌ててテーマを弾きだし たということであったが、テープ編集の際このコメントがエンディング・テーマにも重なったため イントロのテーマと差し替え、更にケリィのソロをカットし継ぎはぎだらけにしてしまったという 訳である。 ほか〈インプレッションズ〉ではケリィのソロはもともとなく〈ポートレイト・オブ・ジェニー〉 や〈オー・ユー・クレイジ・ムーン〉のヴィヴラートには手を加えていないようである。 予想外の受賞  ヴァーヴ経営陣は《ウィロウ・ウィープ・フォー・ミー》のリリースにあたって、これら演奏と コメントが重なった部分を当然カットしなけれはならなかった。 その最大の理由は、当時このテープの著作権がWABC−FM放送局に帰属されており、ウェスを亡くし たヴァーヴは既にその権利もなく恐らくWABC−FM放送局の了承も得ないまま表向き同じ1965年録音 の《スモーキン・アット・ザ・ハーフ・ノート/Verve V6-8633》からの残りセッションとし、隠蓑 のようにオーケストラを被さなけれはならないという苦しい台所事情があった。 しかしながら、この素晴らしいブローイン・セッションはのちに全く予想もしていなかったアメリ カ・レコード界のアカデミー賞といわれるグラミー賞をも獲得、ヴァーヴの思惑は見事に的中した のである。