字源的アプローチによる 新解釈

 

はじめにお読みください


 


 

     14、胡蝶の夢

 


昔者荘周夢為胡蝶

昔、荘周(荘子)は夢の中で、胡蝶(全身を覆い尽くす大きな蝶)になった。


. ◆(略)

 


「肉+古」で、〔古〕はただの音符とする説や、「祝祷を収めた器」とする説などがありますが、「顎の下の肉が大きく垂れふくらむ」「大きく表面をおおい隠す」意を含み、「全体に大きくかぶさる」「うわべをぼやかす」意。
また、「中国の北方や西方に住む遊牧民族の総称」「その産物」も表します。



【胡蝶】は『こちょう』として、固有名詞化した単なる「(その地域の)蝶」
というのが、一般的なところです。(あまりに有名なほどに・・・) 


それはそれでいいのですが、私はここにはもう少し深い含みを感じるのです。
その蝶は「全身を覆い尽くすような、周よりも大きな存在」だとの示唆を‥?





栩栩然胡蝶也

ひらひらと自由に舞い飛ぶ胡蝶(全身を覆い尽くす大きな蝶)だった。


. ◆「楽しく跳びまわる蝶になりきって」とされています。


「木+羽」で、「羽のように葉の飛び散る落葉樹」→「くぬぎ」です。


【栩栩然】とは、「羽のようにふわふわと飛ぶさま」を表すとされています。


その大きな蝶は「木の葉のように自由にひらひらと舞い飛ぶ存在」だったのです。


『荘子』至楽篇の中に、奇妙にして難解な文があります。

  種に幾(糸×2+ほこ/命の糸を守るもの)がある。
  水を得ると、すなわち〔繼←×糸〕(幾つかの糸のまとまり)をなす。
  水と土の際を得るとすなわち鼃蠙(両棲生物の殻の中に珠)の衣をなす。
  陵屯(土盛りの中で蠢きはじめる、こもった生気)が芽生えると、
  すなわち、陵舃(土盛りを登る、水辺から干潟をつくるもの)をなす。
  陵舃が鬱棲(鬱蒼とした茂みの中の鳥の巣づくり)を得ると、
  すなわち、烏足(三本足の烏=太陽、陽気の奇数的能動?)をなす。
  烏足の根は躋螬(高さをそろえようと群れる虫)をなす。
  その葉は【 胡蝶 】をなす。
  【 胡蝶 】が胥(並び相対する偶数足)となると、化けて蟲をなす・・・
  ・・・・・・・・・・・・・万物はみな機から出て、みな機に入る。


「羽のように飛ぶ」のに【栩】という「木」のつく字をあてがっているのは、
その葉は【胡蝶】をなす‥という下りと、何らかの関係と意図があってか‥?





自喩適志与
不知周也

自ずと邪魔な既成物は抜け去り、心の向う志とぴったりと適合して、 自分が周であることなど知らなかった。


. ◆「のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。」とされています。


「口+兪(丸木の中をくりぬいた舟→じゃまな部分を抜きとる)」で、
「疑問やしこりを抜き去ること」→「さとる」「たとえる」という意味です。



「[しんにょう]+[啻の変形](一つにまとめる、一本になった)」で、「ゆく・まともに向う」「思い通りの」「かなう」「ぴったりとあてはまる」の意。



「心+士(=之:いく)」で、「心が目標を目ざして進み行くこと」です。



【喩】は、「愉」と通用して「たのしむ」「よろこぶ」と解釈され、
「自然と心ゆくまで楽しむ」といったニュアンスで捕えられているようです。
よって、自由で楽しいあまりに「自分が人間であることを忘れるほどだ」と。


【自喩適志与 不知周也】という下りは、一つのキーポイントかもしれません。
つまり、「飛べない人間」という「既成概念」こそが、「不要な邪魔もの」かも知れず、そういった「既成物がなくなり、身も軽く、本来の心の向おうとすることと一体となっている存在」こそが、まさに「自分」であるという実感と一致していたがために、「人間(周)」のことを「知る由もなかった」・・・
と言っているのかもしれません。




昔者荘周夢為胡蝶
栩栩然胡蝶也
自喩適志与 不知周也

 

*

あまりに有名な話ですが、実際はもう少し含みがありそうです。
昔、荘周(荘子)は夢の中で、胡蝶(全身を覆い尽くす大きな蝶)になった。ひらひらと自由に舞い飛ぶ胡蝶(全身を覆い尽くす大きな蝶)だった。自ずと邪魔な既成物は抜け去り、心の向う志とぴったりと適合して、 自分が周であることなど知らなかった。





俄然覺
則蘧蘧然周也
不知周之夢為胡蝶与
胡蝶之夢為周与

突然にして、はっと目が覚めたのは、 つまりは、振幅するように行き来する周だった。 さあ分からないぞ、周の夢で胡蝶になったのか、 胡蝶の夢で周になったのか。


. ◆「ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか。それとも蝶が荘周となった夢を見たのだろうか。」とされています。


【俄然】は、「平らに進んできた事がらが、急にがくんと変わった状態」です。


覺(覚)
「見+[両手+×印に交差するさま+宀(いえ)]」で、
「見聞きした刺激が一点に交わってまとまり、はっと知覚されること」です。



「艸+遽(獣の奮迅する姿・不安定にうごく)」で、
「(ゆらゆらする)かわらなでしこ」「すばやくはっとするさま」。


【蘧蘧然】は「はっと我にかえるさま」「おぼろげに形をそなえたさま」とされています。


この【蘧】の意味を、獣で言うなら駆ける時の脚の「俊敏で柔軟な交代交差」、草で言うなら、なでしこの振り子状の「ゆらゆら感」のような感覚のものとして、「自分」という「主」の感覚が、「胡蝶」と「荘周」との間で、「振り子のように瞬間的に入れ代わっているさま」・・・と言えるのではないでしょうか。






周与胡蝶
則必有分矣
此之謂物化

周と胡蝶とは、つまりは分かれ目があるのは必至のことだ。 これこそ、「物は化ける」と言うものだ。


. ◆「荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだ。」とされています。


「棒を伸ばすため、両側から当て木をして、締めつけたさま」の象形。



「左右に違った姿勢をした人」で、「姿をかえること」を示しています。


中身は変わらない」のに、外側の姿形は「違ったものに化ける」という、
「物」としてあるものは「化」することは必至のこと‥ということでしょう。




俄然覺 則蘧蘧然周也
不知周之夢為胡蝶与
胡蝶之夢為周与
周与胡蝶則必有分矣
此之謂物化


*

「志」は「変わらないもの」でも、「物(姿形)」は「化けるもの」ということかもしれません。
突然にして、はっと目が覚めたのは、 つまりは、振幅するように行き来する周だった。 さあ分からないぞ、周の夢で胡蝶になったのか、 胡蝶の夢で周になったのか。 周と胡蝶とは、つまりは分かれ目があるのは必至のことだ。 これこそ、「物は化ける」と言うものだ。





▽ ちょっと深読み的解釈!? ▽

昔者荘周夢為胡蝶
栩栩然胡蝶也
自喩適志与 不知周也
俄然覺 則蘧蘧然周也
不知周之夢為胡蝶与
胡蝶之夢為周与
周与胡蝶則必有分矣
此之謂物化


昔、荘周(荘子)は夢の中で、胡蝶(全身を覆い尽くす大きな蝶)になった。ひらひらと自由に舞い飛ぶ胡蝶(全身を覆い尽くす大きな蝶)だった。自ずと邪魔な既成物は抜け去り、心の向う志とぴったりと適合して、 自分が周であることなど知らなかった。突然にして、はっと目が覚めたのは、 つまりは、振幅するように行き来する周だった。 さあ分からないぞ、周の夢で胡蝶になったのか、 胡蝶の夢で周になったのか。 周と胡蝶とは、つまりは分かれ目があるのは必至のことだ。 これこそ、「物は化ける」と言うものだ。