熊本県立水産高等学校 回顧録

天草へ帰る

この年齢になっても、心が弾む。 故郷はただそこにあるだけでいい。
私は長崎廻りで帰ることが多い、長崎駅から茂木港行きのバスに乗る。
長崎駅前は昔とずいぶん変わっていた。ただ茂木港に着くと昔と変わらない海がある。
雲仙と故郷の島影がかすんで見える。
待合室は伽藍としていた、季節はずれのフェリー乗り場は車も3台待っているだけ
乗船者は私を含めて5人位で静かであった。
待合室で乾杯しようと思ったが酒はなかった。
缶コーヒーを飲みながらフェリーを待った。
フェリーが入ってくる様子をカメラで撮りながら思った。
故郷を出てから40年以上になる、仕事を替えながらいろんな所に住んだが、
故郷だけは忘れることはなかった。
故郷が其処にあるから何処へでも行けた。私の人生の起点である。


故郷の海は青い、巴崎の松の緑はあくまでも青く
海は鏡のように凪いでいる。
運搬船が巴湾を、ゆっくりと、海面に航跡を残しながら
今まさに船出しようとしている。
卒業写真の校歌の背景の様である。
我々の卒業を・社会に船出する生徒達に何かを伝えようとしていたのか。
熊本県立水産高等学校 第11回生の卒業写真の風景である。
白砂青松の青春であった。


校庭の前は海である。
巴湾の奥にある母校は、富岡城跡の一角にあった。
木造モルタル二階建ての、今は無き校舎に青春の全てが其処にあった。
友と語り・共に笑い・共に泣き・時には喧嘩し・時には悪さもした。
天草灘に、沈む夕陽を見ながら伴に歌を唄った友よ、いづこ。
我はただ青春を懐かしむ。


熊本県立水産高等学校    綱領

克己忍耐
迅速確実
質実剛健
整理整頓


水産高校生



夏季実習

早朝、5時55分ごろより校庭に静けさを破って軍艦マーチが流れる。
みんな目を覚ましている。だが起きてはいけない、軍艦マーチが終わるのを
横になったまま待っている。
その曲が終わると、「起床」「起床」と先生の声がスピーカーより流れる
我々水産高校1年生は、寝床をたたみ、白い実習服に着替え廊下へ整列する。
20名の2列横隊で点呼を受ける。「1・2・3・・・・10 満 ・ 欠」
水産高校名物の、夏季実習の始まりである。
天橋立にも似た、巴崎 その内海である巴湾に面して校舎が立っている。
木造モルタル作りのみすぼらしい校舎である。
熊本県立水産高等学校である。

夏休み前の一週間、月月火水木金金 訓練の日々に明け暮れる時がきた。指導は先生方、
指導員として、三年生の先輩が多数参加する。ある意味では、学校公認のしごきである。
ある先生は言う、人間の体力の限界に挑戦すると。

点呼を終えると、朝食前のランニングとなる。
富岡城跡の校庭を出て、袋が池を右手に見、天草灘を見下ろしている頼山陽の碑の
あるところまで約2キロのコースを隊列を乱さず、走るのである。
走り終えた後、校庭の手洗い場で歯磨き、洗面をし、朝食となる。
アルミの椀に、竹の箸
このときに、箸の使い方・汁椀の持ち方と食事のときの作法を教えられる。
汁椀を持つとき以外は、基本的に左手は使わないようにする、海軍方式だそうな。
(また、左手は受け手であるため、空けておくとも)
食事が終わると、短い休憩時間をとり、いよいよ本番になる。

1時限目  相撲

3年生の相撲部の黒帯の先輩へがむしゃらに向かっていく、まだ中学を出て間もない、
ひ弱い細い体で何回も、何回も投げ飛ばされながらの相撲経験であった。
なかには、見ていてかわいそうな仲間もいた。
それでもみんな歯を食いしばり頑張っていた。
学校の正門から校庭に続く道は、狭くて急な下り坂、その坂道を逆にうさぎ跳びで
登る訓練もひかえていた。とにかく疲れる。

2時限目  バレーボール

バレーボールとは名ばかりであった。走る。走る。うさぎ跳び、ボールを使っての練習は
短い時間、それも校庭を転げまわる埃まみれのレシーブの特訓。これも疲れる。
2時限目が終わる頃には、汗は出尽くし、焼けた肌に塩の結晶が浮かび上がる。
みんな、水を飲みたい、だが水のみ場には先生が監視しており、顔を洗い手に取った水で
口の中をうがいするだけ、飲む事は禁じられていた。
ただ、水で顔を洗うことがこんなに清清しいものと強烈に思ったのもこのときである。
普段は、何も気にせずただ顔を洗っていただけだった事を思うと、なんと清清しい。
新しい、発見であったか。

3時限目  バスケットボール

3年生の部員の先輩とマンツーマンのターンの繰り返しである。
城山の中腹には稲荷神社があり、そこへ続く階段は長い、その階段をウサギ跳びで
上がって行く、登りつくとみんなへばってしまい稲荷神社の境内に倒れこんでしまう。
遅い仲間もいる。時間がかかる、全員が登りきるまで待った後、しばらく休憩を取り、
帰りはゆっくりと降りて行く、みんな言葉も出ない。


昼休み時間になると、すこしは元気になる、昼食を済ますと昼寝の時間となる。
それを、午睡という。強制的にみんな横にならされ、しばらくの間うたたねをする。

午後なると、水泳の訓練が始まる。
泳ぎのうまい生徒、泳げる生徒、泳げない生徒と班別に分かれての訓練である、自分は
泳ぐことは少々の人には負けない自信があったのでどうってことはなかった。
惨めなのは泳げない仲間だ、学校所有の和船に乗せられ湾の中央で海中に放り投げられる。
もちろん、先生・先輩のなかで泳ぎのうまい人が監視しているが、溺れそうになっても
すぐには船に引き揚げてもらえず、しばらくは海の中でばたばたすることになる。
不思議なもので、泳げなかった仲間も3日もすれば、泳げるようになり、最終日には
約2キロの遠泳をこなしてしまった。途中の訓練では、白い6尺の褌で街中を歩いて
校庭から1キロぐらいの所まで行くには、恥ずかしいものがあった。

そのあとの時間は日によって違う。

トイレ掃除、

田舎の昔のトイレである、便器に水を流し塩酸を使って綺麗にする、真っ白くなるまで 
  又、一点の汚れもないように何回も何回も洗い、終わりには、
タオルで素手できれいに拭きあげる。
先生が言う『その便器が舐めれるか』。おかげで、今になってもトイレ掃除が全然苦にならない。
海の上では女性はいない、トイレ掃除も男の大事な仕事となる。

手旗信号

赤色の旗を右手に、白色の旗を左手に、いろはにの順に教え込まれる。
一人でも間違えると、その班の全員が校庭一周の罰則が待っている。全体責任である。
船の中で、誰かが大事なことをひとつでも間違えば全員の命にかかわる事態になることを
体に教え込むのである。
手旗信号は基本的には、カタカナ表示をさかさまに、表すことである。
後日談であるが、校庭の端と端で手旗信号で女生徒と通信している男子生徒がいたのも
水産高校ならではと、微笑んだものである。
まさに、青春真っ盛りであった。

ちなみに、熊本水産高校には、漁労科・製造科・増殖科があり製造科と増殖科には各々
10名の女生徒が在籍し、3学年で60名ほどの女生徒がいた。

漁労科は漁船に乗り組み、海へ出て行く生徒たちである。天測をやっているのを見ると、
羨ましい気もした。実習船は以西底引きの熊本丸2隻、生徒たちはその船で東シナ海に乗り出し
航海実習・漁労実習を行う。実習船が出港するとき皆は岸壁での見送りをするが、
ボート部はライフボート2艇でボート部員が゛湾の出口まで見送る。
湾の出口では「櫂立て」の号令で総員、長くて重たいオールを立てての見送りとなる。
実習船は、ときには、水産庁の調査船として北洋鮭鱒の調査も行っていたと聞いている。

製造科は水産製造科であり、魚介類の加工の勉強が主体である。
ただ基礎勉強として一年生で普通高校の化学・物理を習得しなければならず、
物理の先生はよく言っていた。
「お前たちは、大変だけどよく頑張ってくれた」と。(背の高いハンサムな先生だった)
二年生からは専門科目が増える。缶詰・瓶詰め・ハムソー・塩蔵・冷凍冷蔵と食品製造の
勉強をする。
私は水産製造科で瓶詰め・缶詰の実習があった。小さな簡単な缶詰の巻き締め機があり、
巻き締めては、その部分を切り取り、巻き締めの状態を勉強していた。
卒業前はハム・ソーセージのたんぱく質の定量分析をやったが、ほとんど友達に任せて遊んでいた。
全然覚えていない。

増殖科は真珠貝の養殖も実際に行っており養殖業の勉強をする。
真珠の収穫時に何個か貰ったことがあったが今は何処へいったか判らない。
水産試験場・真珠会社へ就職した生徒もいる。

クライミングロープ

クライミングロープといっても、山登りする時のような細いロープではなく、
鳥居型の支柱に下げてある太いロープである。高さは4〜5メートルぐらいはあったと覚えている。
このロープを足を使わず腕の力だけで、登る訓練をする。
握力・腕力がないとなかなか登れない、体を振るとロープは揺れ更に難しくなる。
なかなか、上がっていけない仲間もいる、そうなると先輩の竹刀で尻を叩かれることになる、
痛くはないはずだが仲間たちの前で恥をかくつらいものがある。
登りついたら降りるのであるが、手を滑らせてもいけない。早く降りようと手の力を
緩めると、摩擦で手の平を火傷する。
仲間たちみんな、必死で挑戦していた。

旗流信号

船のマストにいろいろな旗が揚げてあるが、その一つ一つに意味があるとは解っていなかった、
旗にはアルファベットでAからZまで、他に吹き流しみたいな細長い旗と色々あり、
その意味を教えられる。今でも覚えているのは、Z旗である。日本海海戦である。
東郷平八郎率いる連合艦隊の話を先生が詳しく教えてくれる。
(この先生は、海軍の特攻くずれと、噂では聞いていたが直接聞くことは出来なかった。)
はっきりとした、大きな声で話してくれた。迫力があった。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす
本日、天気晴朗なれ共浪高し」
1905年5月27日   旗艦三笠のマストに翩翻と翻るZ旗
『皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ』、Z旗の意味は本来とは違うが
日本海海戦のこのときの言葉を、今でもZ旗の意味として覚えている。
又、航海中に他の船とすれ違うときには、「貴船の航海の安全を祈る」という意味の
旗を揚げるとも教えられたが、今はどんな旗なのかも覚えていない。

旗流信号は「海洋実習の手引き」を教本にして行われるが、他にモールス信号の簡単な
話もある。覚えているのはSOSだけである。この信号もアルファベットの分だけあるが
殆ど覚えてはいない、SOSはトン・トン・トン・ツー・ツー・ツー・トン・トン・トンである。
まさかの時の知識としていまでも忘れないでいる。
他にも、ロープの結び方・救命方法などを教え込まれる。船のもやいの結び方は一つだけ
覚えている、一番簡単な方法で、引っ張れば引っ張るほど締まっていくという結び方だ。
だが、その名前はもう覚えてはいない。

午後の訓練は、比較的体力的には厳しさは和らぐ。
しばしの時間、自由時間の後夕食となる。皆食欲旺盛であった。

夕方になると、講堂に集まり校歌・逍遥歌の練習である。

熊本県立水産高等学校 校歌

茜に染めて  有明の 高松照らす  朝日影
文化は古く  黒潮に 乗せてしるけき 巴浦
ここ城跡の学び舎に 健児の息吹新たなり

図南の夢を 帆にはらみ 海神の子は 今ぞ立つ
ああ南の  海原に  極光仰ぐ  姿あり
栄冠うたた 神かけて 遠くも往かん 波枕

はろけき空に 眼をあげて 若き血汐ぞ たぎるなれ
舳先にあぐる しぶきにも うずく腕の たくましさ
打建てんかな 吾が友よ 祖国の栄え 目指しつつ

校歌と言えばほとんどの校歌に学校名が入っていると思うが、この校歌には学校名はなく、
知らない人が聞いたら、何の歌だろうと思うに違いない。
不思議と私の卒業した小学校も中学校も校名の入っていない校歌だった。
確か作詞者が同じで町長さんだったと記憶している。


逍遥歌・・・・・そぞろ歩きの歌

袋ヶ池の 月おぼろ さくら花散る春の夜に
青春の夢 消え難く おのこの心波立てり

黒潮薫る 南の 怒涛の歌に あこがれつ
臥龍の城の 下にして 集える健児 雲のごと

風赤銅の 肌に吹く 天草灘の東雲に
雲か山かと 吟ずれば 肉こそ躍れ若き児の

巴が埼の 松の風 白岩埼の 残照や
秋風寒く 黄昏て うら若き児に 涙あり

ああ故郷よ 同胞よ ああ父母よ 秋風よ
権現山の 夕しぐれ 懐郷の思い やみがたし

水産節

わたしゃ 好きだよえー
水産校の 生徒よー
色は 真っ黒けでよー
眼が光るよー
あー・おいとせ・おいとせ

色は 黒でもよー
水産校の 生徒よー
沖じゃ 鰹のよー
色おとこよー
あー・おいとせ・おいとせ

巴埼によー
ドンと打つ波はよー
かわい水高生のよー
度胸だめしよー
あー・おいとせ・おいとせ

落ち葉 かく子によー
情けが あればよー
鯨 捕る身にゃよー
血の涙よー
あー・おいとせ・おいとせ

こよい一夜はよー
緞子の枕よー
明日は万里のよー
波枕よー
あー・おいとせ・おいとせ

おきのかもめとよー
水産高の生徒よー
灘の何処でよー
はつるやらよー
あー・おいとせ・おいとせ

なだのいずこでよー
はつるもーよー
月の明りでよー
なみのはなよー
あー・おいとせ・おいとせ

日が暮れて、夜になると肝試しがあると聞いていたが、実際には何もなかった。
噂では真夜中 城山の中腹にある祠の前に物を置いてくる、次の人はその物を
もって帰ってくる、それを繰り返し全員が参加すると言うもので途中には先輩方が
恐怖を煽る仕掛けがあるということだった。
9時になると消灯の時間、そのあとも何もなかった。
1日目が終わった。皆疲れきり熟睡しているようだった。

2日目が大変だった、朝初日と同じように起きたものの、体中が痛い、特に足の痛みには
参った。階段を上がるのも、降りるのも手すりにつかまり、一歩一歩ゆっくりと歩くのが
精一杯、皆悲鳴を上げた。それでも地獄の特訓は続く、倒れこみながら・転がりながら
・砂埃だらけになりながら必死に動く、ただ不思議なもので、
3日目には痛みも少しづつ消え始め4日目にはなんともなくなっていた。

町の人たちは言う、水産高校生はこの夏季実習で体格ががらりと変わり逞しく、大人びてくると。

そんな日々が一週間続き、最終日は午後より2キロメートルの遠泳がある。
学校所有の和船・ボートそれに漁師の人たちが船を出してくれる。
遠泳の隊列の両サイドに等間隔に並んだ船には先生方総出で監視役となる。
町の端から学校の校庭まで一時間ぐらいだったと思うが整然と泳ぎきるのである。
最初は泳げなかった仲間も皆泳ぎ切ったものである。
そのあと暫く休憩し城山の雑木を切り出しに行く、ファイヤーストームの準備である。
切り出した雑木を校庭の中央に堆く積み上げていく。
訓練最後の夕食を済ますと、全員校庭に集まりファイヤーストームが始まる。
黄昏時に雑木に火を点け始まりだす。暗闇がせまってくると火の粉がばちばちと音を立てながら、
夜空に舞い上がっていく。
一週間の過酷な訓練に耐え抜いた達成感もあった、皆で肩を組み火を中心に円陣になって
校歌・逍遥歌・水産節を何回も繰り返し歌いながら、夜空に舞い上がり消えてゆく火の粉をみつめていた。
その光景は今でも忘れることはない。



水産魂

校庭の前は海である。
ある日先輩7名が校庭の海側に正座しているのを見た。
何があったのか、最初は判らなかった、
しばらくして先生が六尺を締めて現れた、先輩たちは上着を脱ぎズボンも脱いで、
パンツ一枚になった。
先生が海の中に入っていく、先輩たちも後をおった。
よく見ると、巴湾の中ほどにバスケットボールが一つ流れていた。
そのボールに向かって、先生も先輩も泳いでいる。
雪のちらつく、2月の寒い冬の日のことである。
推測するに、休み時間か自習時間にバスケットをやっていて、
ボールが海に落ちたのであろう。
そのことを、闇に葬ることなく全員の責任として捕りに行ったのである。
先生が率先垂範する、(この先生こそ、海軍特攻くずれと噂の先生である。)
良いとか悪いとか判別する以前の問題である。
水産魂を見た気がした。


水産放浪歌

富貴名門の女性に恋するを、誰が純情の恋と言おうぞ
暗き紅灯の巷に蠢く女性に恋するを、誰が不浄の恋と言おうぞ
ああ、雨降らば雨降るよし、風吹かば風吹くよし
月下の酒場に媚を売る女性にも睡蓮の如き純情可憐あるものなれ
酒は飲むべし百薬の長
酔うて窈窕美人の膝枕に快楽の一夜を明くれば、人生夢も無ければ恋もなし
叩く伝検操る舵輪、握るコンパス・六分儀、ああ我ら海行くかもめ鳥
明日の命を誰が知ろうぞ。さらば歌わん我らが水産放浪歌スタンバイ・ゴー

心猛くも 海神ならず
男と生まれて情けはあれど
母を見捨てて波超えていく
友よ兄らよいつまた逢わん

朝日夕日を デッキに浴びて
続く海原 一筋道を
大和男子が 心に秘めて
行くや万里の 荒波越えて

海の彼方の 南氷洋は
男多恨の 身の捨て所
胸に秘めたる 大願なれど
行きて帰らじ 望みは持たじ

この歌は私が水産高校一年生のとき、先輩がどこからか判らないが覚えてきて遠足のとき
皆の前で歌ったのが最初で、もともと熊本県立水産高校にあったものではない。
私は非常に気に入ったもので覚え、後で書き記し、それから後はずっと歌い続けてきた、
いまでも同期の友と酒を飲んだときは、必ず言って良いほど歌っている。
語りの部分は、覚えるのに苦労した、又語りの部分の危うい所はカットし
歌詞も先輩が歌った歌詞とは少なからず変わってしまった思う。



ある夏の日の思い出

暑い夏の昼休みのことである。
先輩たちは、体操着姿で鉄棒の周りで、遊んでいた。
鉄棒のすぐ側は、校庭の端に当たり、その前は海である。
時は丁度満潮で真水のように
透きとおった海水は校庭より2メートルぐらいの所まで満ちていた。
私たちは、少し離れたところでキャッチボールをしていた。
そんなとき、教員室の出入り口よりその先生はゆっくりと、
先輩たちのいる鉄棒の方へ向かって歩いてきた。
夏のスーツにネクタイを締め、革靴を履いてビシッと決めていた
。 校庭の中ほどまで先生が進んできた所で、先輩達は先生の方へ歩み寄っていった。
楽しそうに、笑いながら話をしていたかと思っていたとき、急に先生を胴上げをしたのである。
私たちはその時までは単なる遊びかと思っていた。
それからが、大変である。胴上げをしたまま、校庭の端まで行き皆で声を合わせ、
タイミングを合わせ、先生を海へ投げ込んだのである。
革靴を履いて、ネクタイを締め、スーツのままである。
怒り狂うかと思われた先生、海の中で笑っていた。青春映画のワンシーンの撮影ではなく
紛れもなく、現実に熊本水産高校の校庭でおこった事実である。
私たちは、その一部始終を目の当たりにして思った。・・・・まさか
先生は、着の身着のままでゆっくりと泳いで、梯子のところへたどり着き
終始笑いながら、教員室の出入り口へ消えていった。
事実は、小説よりも奇なり・・・・・まさにその通りである。



ボート部遠征

水産高校のボート部には、小さいヨットが一艘・ナックルフォアーが一艘・それに
ライフボートが二艘あるだけ、通常訓練にはライフボートを使用する。
ライフボートとは、大きな客船に何艘も置いてある緊急避難用のボートであり、船の
性能としては極めて悪く、スピードもでないし、帆走用の帆もマストもあるにはあるが
性能は良くない。オールは太くて重く力のいる代物である。
そのライフボート二艘での、通詞島までの遠征である。片道約10キロメートルほどの
行程であった。
通詞島の、名前の由来は中世のころ南蛮貿易の通詞・今で言う通訳の人が集まって
住んでいたことによると聞いていた。今ではイルカウオッチングの島として有名になっている。
私は、ボート部のキャプテンと一緒に部長先生とは別の船に乗ることにした。

部長先生は、大学時代にボート部に所属していたとのことで、ボートについては
うるさかった。私が卒業するときは、いい所がなければボート部のある会社はどうかと
声を掛けてくれた。その当時、日本には名コックスが居ない、コックスになるには 
漕ぎ手の気持ちが判り、体重が少ないほうがいいと、又ボートを漕いだ経験が必要だとも言い
もしもの場合は相談に来いと言われた。私は相談には行かなかったが・・・・。

本来、遠征のときは岸からあまり離れないコースを取り緊急事態に即対応できるよう
また、僚船とは離れないようにしなければならない。
我々は、そんな事お構い無しに通詞島への最短距離をねらい、一直線にボートを進めた。
当然、岸からは離れ、僚船とも全く違うコースを取ることになった。
空は青空、海は凪いでおり、申し分ない日和であった。
通詞島近くで、僚船と合流した、部長先生には叱られる覚悟であったが軽い注意で済んだ
内心ほっとしたものである。
いよいよ、通詞島へ渡る段階に入った、潮時が悪い、引き潮の真っ最中である。
狭い瀬戸は流れが速く急流の川の如く、皆で漕いでも漕いでもボートは全然前に進まない、
一気に手の皮は破れた。
部長先生から指示があった、「流れに逆わらず漕ぎながらボートを流せ」と、ボートは
流されながら通詞島の岸についた。随分と後ろのほうへたどり着いた。
通詞島側は意外と潮の流れは緩やかで、なんとか進める状態でボートを漁港に滑り込ませた。
皆は意外と元気だった。
島へ上がり、昼食のあとしばし自由時間をとり、ゆっくり過ごした。
いよいよ、帰りの行程である。我々は、懲りもせずまた、僚船とは別行動をとった。
少し遅れ気味に、ボートを進ませ、かなり離れたところで帆走に切り替えた。
海は凪いでおり、風もない、帆走に切り替えたもののボートは進まない。
我々は、風を呼んだ。風よ吹け 風よ吹けと。
暫くしたら、沖のほうに白波が立ちはじめていた。風が少し吹いてきた。
ボートは進み方が速くなった、そうしている間に白波がどんどんと近づいてくる。
風はますます強くなり、ボートは益々スピードを上げて行った。行程の半分ほどは
進んでいた、そこまでは良かった。
その後、見る見るうちに、白波は押し寄せ、大波に巻き込まれてしまったのである。
大時化の様相を呈しボートは大揺れに揺れ、帆走どころの騒ぎではなかった。
このままでは江ノ島遭難の二の舞になってしまう。海はときには暴れ者に豹変する。
急いで近くの小さな魚港に緊急避難をし、帆を降ろし善後策を練った。
ボートをこの港にそのまま置いて、明日あらためて取りに来るか、漁船を呼んで
曳航してもらうか(この時こそZ旗を掲げるべきである)、はたまた、この荒海に漕ぎ出すか。
結果は意外なものだった。漕いで帰ろう・・・・。皆その気になっていた。
皆心を引き締めた、防波堤の内側でスピードを上げ一気に荒波に突っ込んで行った。
ボートは揺れるが帆走よりはましであった。ただ前には少しづつ進むだけで思うようには
いかなかった。港からかなり離れたとき、その港から大きな声で呼ばれているのが判った
先生が目に入った、何か叫んでいるが、内容は判らない。
我々は、ただひたすらに漕いだ。ボートは少しづつではあるが確実に進んでいる。
時間は掛かるが、まず問題はなさそうだ、人員も二人予備員がいたので、疲れている
部員と交代しながらボートをすすめた。
そうしているうちに、漁師さんの船が一隻こちらを目指して来るのが見えた。
この時化では、漁師さんも船は出さないはずだ、周りの海には見渡す限り船はいない。
さっきの先生が、曳航してくれるように頼んだのか、その通りだった。バツが悪い。
漁師さんから、ロープを貰い船首にくくりつける、オールを揚げ操舵手だけをのこし、
皆はボートの船底によこになった。皆黙っていた。


中学・高校といくつかの部活をやったが、今でも思い出として残っているのは、この ボート部の遠征の出来事である。
二代目ボート部の主将としては、こんな無茶は出来なかった、又、遠征の話はこの後ない。
熊本県立水産高校ボート部・陽の当たる事はないが精神訓練の素晴らしいものがある。
この時同乗した先輩・後輩たちと思いで話に花を咲かせたいものです。


校外実習とその後のできごと


2年生になると、夏休みを利用した、製造実習という名目で、食品製造工場での
全工程を経験させていただくという校外実習が許可される。
もちろん、学校側の了解、指示の上での実施である。
私は2年生の時は、清水市の缶詰工場、3年の時は広島の総合食品工場を経験した。
清水市の缶詰工場は桃の缶詰の生産中で、そのライン全てを経験させていただいた。
ある休日のとき、その会社の工場長に誘われ三保の松原で海水浴をしようと、連れていって頂いたことを今でも覚えている。
あの時の富士山の雄姿が私の中の富士山である。青春の思い出の一ページである。
広島の総合食品工場は広島湾のなかに有り屋上からは南西方向に宮島を望み、北側には江波山、皿山が見え、旧広島空港の近くにあった。
広島は養殖牡蠣の大生産地であり、その時の実習は牡蠣のオイル漬け缶詰の製造であった。
その中で最初の経験が牡蠣の燻製である、牡蠣のオイル漬けは、まず牡蠣を燻製してその後缶詰加工をする。
燻製装置は10メートル位の釜風の鉄のトンネルがあり、最下部は15位の逆四角錐の焚口がついていた。
その焚口に桜の木のチップを燻すための鉄板の容器がついていた。
その釜の真ん中位をネットに並べてある牡蠣がコンベアーでゆっくりと通過していく その間に牡蠣が燻製されるというものであった。
その装置が2列に並んでおり、その間は室温50℃以上あり地獄の暑さであった。
実習生は、小さいスコップと鉄の手鉤風のものを持って、桜の木のチップを出来るだけ
たくさんの焚口に投入するのである。それを何回も繰り返すのである。
交代でやるのではあるが、一回行くたびに汗は滝のように流れ、回を重ねるごとに
鼻の穴は黒くなり、シャツの衿もまつ黒になっていた。
ただ、水産高校の訓練では、いくら汗を流しても水を飲むことは厳しかったが
その点では、水の補給は思いどうりにできたことを思えば、シャツが汚れようが、
体が汚れようが、そんなに辛いと思ったことはなかった。
そんな実習が終わり、帰郷する前日の夕方には会社の皆さんが送別会を開いてくれた。
今だから言えるが、未成年でありながら酒を浴びるように飲ませていただいた。
帰る朝は、二日酔いでフラフラして汽車に乗ったことを今でも思い出す。

夏休みが終わり学校へ登校したその日の昼休み、職員室へ向かう廊下を歩いていたら
前方からにこにこしながら、中学校の時の数学の先生が近づいて、「おい 来たぞ」と一声
びっくり仰天である。中学時代は本当にお世話になった先生だった。それでも評価は厳しかった。
我々3年1組をいいクラスだと言ったあとABCD Eクラスだとこき下ろした先生である。
それはまさしく、私に対しての批判であったことは間違いない。
三角形ABCを三角形 アー、べー、セーと言い、三橋美智也の哀愁列車を最終列車だと思ったと
言って笑っていた先生である。
中学時代の私の自慢は、2年生の時の夏休み作品表彰の時、3年生を指し抜いて
受賞者の代表になったことである。普通は3年生の中から選ばれるべきところを
作品本位として代表を決められたと理解している。
このことを推し進めたのはその当時の校長先生とこの先生の仕業だと私は確信していた。
楽しい数学の授業・きついお叱り・卒業記念のサイン帳 思い出になってしまうと思っていたのに又教えを乞うことになった。
残念ながら授業を受けることはなかったが、人生の先輩として色々教授頂いた。
私が水産高校を卒業するときには、恋愛禁止の指令を頂いた。
その時は、先生の話をよく理解していなかったように思う。なぜそんなことを言われるのか不思議に思ったと記憶している。
歳をとった頃に、あ、そうかと思えるようになったが後の祭りであった。
中学校を卒業の時、記念サインをお願いし、サイン帳をお預けした。


長き世は
井戸端会議に右左
道は険しく
延びて幸あり




自己の生涯を懸けて
理想に挑むべし
断念あるべからず
中断・失望・転向あるべからず


翌日、先生はサインをしたあと、わざわざ家まで持ってきて頂き、父母と少しだけ世間話をして帰って行かれた。
今はただ、ただ感謝である。先生ありがとうございました。


古賀の翁

国語の答案用紙の氏名欄に生徒が古賀の翁と書いた話しである。
浦島が子の玉手箱、実は現世にも存在していると、国語の先生の話。
若い時に別れ、長いあいだ会えなかった人と会った時の状況を説明したもの
自分の記憶の中にあるその人は若くてスラリとしていい男であるのに
現実にあったとき、白髪があり、顔にシワが増え、小太りになったその人を見た時
浦島が子の玉手箱を開けたのと同じことだと言う事である。
一瞬に時が流れて現実のお互いの姿を見ることとなる。
それと同時に、浦島が子は、浦島の翁となった。
このように、我々は目に見えない浦島が子の玉手箱をいくつか持ち合わせている。
いつ開けるかわからない、「玉手箱」静かにしまっておけと。
この授業を受けたあと、古賀君は、国語の答案用紙の氏名欄に古賀の翁と書いた。
この答案用紙を返すとき、国語の先生はにこやかに笑いながら「古賀の翁」と
氏名を読み上げ皆の笑いを誘った。
彼はいま、どうしているだろうか、「玉手箱」開けてみたいものである。


容姿嬋娟。痴情可憐。

国語の先生が、なぜかこの言葉を授業の合間に口にした。
先生もまだ若かった、二十代前半の背の高い魅力的な年の離れた兄貴みたいだった。
しなやかで優美な、色気がある可愛いらしい女性の表現である。
読み方は、容姿嬋娟として、痴情憐れむべしと読むと教わった。
今までは、この一節を覚えているだけで特段気にしてはいなかった。
パソコンに向かっていた或る日、何故かこの一節が頭に浮かんだ。
調べてみようと、パソコンの検索欄に打ち込んでみた。
出てきたのは蕪村の漢詩であった。

春風馬提曲(しゅんぷうばていきょく)

余一日問耆老於故園。渡殿水 過 馬提。
偶逢女帰省郷者。先後行数里。相顧語。
容姿嬋娟。痴情可憐。
因製歌曲十八首。代女述意。題日春風馬提曲。

(余一日(いちじつ)耆老(きろう)ヲ故園ニ問う。殿水(でんすい)ヲ渡リ。馬提ヲ過グ。
偶(たまたま)女(じょ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先後シテ行クコト数里。相顧ミテ語ル。
容姿嬋娟(せんけん)トシテ痴情(ちじょう)憐(あはれ)ムベシ。
因リテ歌曲一八首ヲ製シ、女(じょ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬提曲ト曰フ。)

殿水とは淀川のことである。
馬提とは淀川にある毛馬提のことである。
蕪村が大阪で作った漢詩だということが分かった。
前後の様子もこれで理解することができた。懐かしい風が天草から大阪へ吹いた。


短歌

国語の先生に、短歌の添削をお願いしたのがきっかけだった。
まさか、校長先生が短歌会の同人であったとは知らなかった。
ある日、国語の先生から校長が君と話がしたいと言っているが、
個人的に会って話をしてみたらどうかという誘いがあった。
自分では、啄木の短歌に共感するものがあって、趣味の心算で真似事から始めたものであった。
まさか短歌会(歩道)の同人である校長先生と話をする事になるとは思いもしなかった。
校長先生は、見るからに優しそうな柔和な顔立ちの先生で、
水産高校には似ても似つかわしくなかった。
会って話をした中で今でも覚えているのがひとつある。
今、なにを詠んで見たいかとの校長の質問に、私は、天草灘より後から後から打ち寄せる
波を詠んでみたいと言った時、それは、私も同じだと校長先生が言われたことである。
話が終わった後、同人誌の歩道を一冊頂いて帰り道、天草灘の見えるところへ回り道をしながら、
後から後から打ち寄せる波を詠むことが出来ないかと思案したが無理だった。
その後も何回か挑戦したが読むことは出来ず今に至っている。

業終し
子らを送りて
停留所
   バスの轍の
 深々として

卒業式後、生徒たちが帰郷して行くのを送った後の、国語の先生が詠まれた短歌である。
私は地元で卒業式後しばらく残っていたので会う機会が何回かあり、
先生の短歌を教えてもらうことが出来た。「て止めで良いのかな」とぽつり。
それから、国語の先生とは、長い間賀状の交換をしていた、
転勤された高校で短歌を詠んでいる私の話をしてみたとも、又教頭先生になられた時も、
退職して図書館の館長になられた時も便りがあったが、
私が転々と居所を変え連絡を取らなかったため、疎通になってしまった。全て私のせいである。
二年ほど前に、思い出したように賀状を出してみたが、賀状も帰らず、返事も返ってこなかった。
あの先生が返事を書かないことはない、何かあったのか、知ってる人に様子を聞いてみようと思ったが、
なぜか本当のことは、知らないでいたほうがいいかと思い、そのままにしている。
熊本市の自宅も一度伺っており、方法はあるのではあるが・・・・。


高校生活3年間、今にして思えば僅か3年である。
戦後17年も経った昭和36年から39年のことである。そんな時代に新入生全員が
過酷な訓練を体験したのである。振り返ればあの経験で学んだことが、その後の色々な
場面での判断基準となっていたのかも知れない。
それにしても、自分の今までの人生の中でのなんと強烈な思い出であろうか。
師の恩・忘れ難き友・天草灘の海の青・どこまでも続く紺碧の空・消えることのない母校
「熊本県立水産高等学校」への想い、それはこれからも続いていくことだろう。

寄する波
永久にかわらぬ
返す波
天草灘に
老いて今立つ

我が青春の想いで プロフィ−ル 水産高校写真編 短歌1 短歌2 短歌3  短歌4  短歌5 短歌6 短歌7 短歌8 苓北中学校同窓会 苓北中学校古希関東同窓会 苓北中学校 古希同窓会