ラダックの都、レー
旅立ちから162日目。
今日、マナリから、ラダックのレーへ行くことにした。
どうしようか悩んでいたラダック行きだったが、昨日、マナリの旅行会社の前に出ている、いろんな行き先の看板を見ていたら、オッサンに声を掛けられて、思わず、「レーへ行きたい。」と答えてしまった。
この時は、悩んでいたが、これできっかけが出来たと思い、値段交渉を開始した。
オッサンが言うには、「ジープは1,000Rs、バスは800Rsだ。」
俺の情報では、道路状況は、かなり悪いと聞いていたので、ジープを選び、値下げの交渉に入った。
結果、100Rs安くなって、900Rsでレー行きのチケットを買った。
出発は、午前4時で、かなり早い。
出発当日の午前3時30分に目を覚まし、4時には宿を出たが、まだ辺りは真っ暗だ。
宿の入り口付近には、番犬なのか?犬がしきりに吠えている。
「これじゃ、出られない。」と立ち往生しているところに、兄ちゃんが声を掛けてくれて、ようやく通りに出ることが出来た。
「オマエは、レーへ行くのか?」という、兄ちゃんの質問に対して俺は、「YES」と答えると、兄ちゃんがジープが停まってある場所まで案内してくれた。
すでにジープの中には、イスラエル人カップルが乗っていた。
俺が、助手席に座ると、ジープは動き出した。
ジープは、ニューマナリのバスターミナル前に停車し、ここで人待ちのようだ。
起きてから、まだ何も食べ物や飲み物を口にしていなかったので、チャイを飲みながら、座って待っていた。
そして、午前5時、俺、イスラエル人カップル、現地人とドライバーを含めた、計5人を乗せたジープは、レーへ向かって、出発した。
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マナリ〜レー間の風景
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太陽は、まだ昇っていなくて、辺りは真っ暗だ。
ジープはライトをつけて山道を走っている。景色は、暗くて全く見えないが、坂道をずっと上っているため、急激に標高が上がっていくのが分かった。
そして、いつしか日は昇り、周りの風景が見えだした。
あれほど生い茂っていた緑は、無くなっていて、肌色の大地に緑が点在するような風景へと変わっていた。
ラホール地域のケーロン(keylong)と言う、小さな街に着いた頃には、人々の顔、それに服装が、マナリまでよく見かけていた、インド人とは、違っていた。
ケーロンから、しばらく走ると、そこに広がる風景に、おもわず懐かしさがこみ上げてきた。
俺が、見たくて、見たくて仕方のなかった、あの荒涼とした乾いた大地が、広がっている。
「やっと、チベットの風景に出会えた!」
雲一つない、青すぎる青空に、緑が無く、岩肌がむき出しの山々、山には、所々に針のように尖った岩が、まるで遺跡のように見える。
懐かしいと思う反面、これほどまでの風景は、チベットでは、見ていなかったので、驚いていた。
同乗のイスラエル人のネェちゃんが、高山病にかかり、ジープは、休み休み進んだ。
そのため、写真をたくさん撮ることが出来た。
俺はと言うと、高山病にかかるどころか、体が覚えていたのか、チベットにいた頃に戻って行くような感覚にさえ陥った。
何も食べられない、イスラエル人カップルを横に、俺だけインスタントラーメンとベジタブル・モモをしっかり食べていた。
それでも、5000m級の峠を越える時は、息苦しさを感じたが、息苦しさや、冷たすぎる風が顔に当たり、息が出来ない状態になることも、懐かしいと感じてしまう。
ジープが進むに連れて、何もない風景が広がってゆく。
何かあるとすれば、青い空に、肌色の乾いた大地、そして白い雲がたまに見えるだけだった。
テントの休憩所が、数カ所あるが、家も村もない。
夕方になると、太陽の光も弱くなり、寒くなってきた。
俺は、ジープに置いてあった毛布を体に巻き付けて、寒さをこらえた。
レーまで80kmと書かれた標識が見えたときに、やっと村が見えた。
そして、ジープが村へ入ってゆく瞬間、俺は一瞬、目を疑った。
なぜならば、ラサへ入ってゆく風景と、とても似ていたからだった。
ラサの時とは、家屋の窓枠の形状など、違うが、石造りの家屋や石垣で囲まれた畑が広がり、所々に白いチョルテンが建っている風景は、時間が戻ったのかと錯覚してしまうくらい、ラサに入ってゆくときと似ていた。
レー近郊に近づいた時には、すでに太陽が沈み、周りは月明かりに照らされた風景が、広がっていた。
山やチョルテンが、月明かりに照らされて、輪郭だけが浮き上がっている景色は、とても幻想的だった。
そして僕達が、ラダックの都、レーに到着したのは、マナリからジープに乗って、16時間後の午後9時だった。しかし、着いたのはバススタンドで、町中ではない。
こんな時間に、こんな所で降ろされるのは、俺を含め、みんな困ることだ。
途中からジープに乗った、二人のアメリカ人が、ドライバーにホテル街がある、フォート・ロードまで行ってくれと言っている。
俺も、そっちの方がありがたいし、イスラエル人カップルも同じ意見だった。
ドライバーは、渋々承諾して、フォート・ロードまで行ってくれたが、これは後から知ったことだが、マナリからのジープの仕事は、バススタンドまでで、そこから先は、レーのタクシーの仕事という線が引かれていたことを。
フォート・ロードに着くと、欧米人がたくさん歩いている。
なかなか、賑わいのある通りです。
俺は、ドライバーに残りの700Rsを渡して、一緒にここまで来た4人と同じ宿へ行くが、1泊=600Rsは、高すぎたので、彼等と別れて、一人で宿探しを始めた。
とりあえず、あまり高くなければ、今日はどこでもいい。早く体を休めたい。
結局、300Rsの部屋を250Rsにまけてもらったが、これでも高いので、明日は宿を変更することに決めた。
体は、もうクタクタで、夕食を食べることもせず、ビールを買って、部屋へ。
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レーにて、後に見えるのは、王宮
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本来、レーへは行く予定じゃなかった。
インドの低地をゆっくりと周り、そしてデリーからダラムサラへ行って、俺は旅を終えるつもりだったが、シッキムを旅しているときに、もう一度、チベットの風景に出会いたいと思った。
もう一度、チベットで見ていた荒涼とした乾いた大地を見ておきたかった。
そして、そんな大地にそびえ立つゴンパにも行きたかった。
もう一度、チベットの風景を見たかった。
まぁ、そんな感じで来てしまいました。
インドの低地では、暑さにすっかり負けてしまい、くたばってましたが、標高3500メートルで酸素の薄い、レーで再び息を吹き返しました。
レーは、ラサではないが、ネパールやシッキムでは、感じられなかったものを感じることが出来そうな気がする。
それにしても、物価が高いよ。レーは。
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