レゾナンス・レコードの催し

Wes Montgomery/Echoes of Indiana Avenue/Resonance Rcords HCD-9011
2枚組LPレコードの裏ジャケット左下のシールに書かれたシリアル番号
[ミュージシャンやファンはウェス・モンゴメリ・アルバムのリリースを祝福する]と題したダウン
ビート誌の記事によると、3月6日、レゾナンス・レコードは《エコーズ・オブ・インディアナ・ア
ヴェニュー》のリリースに際して、インディアナポリスにあるジャズ・クラブ、"ジャズ・キッチ
ン"にて祝賀会を催したそうである。
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イベントには、《エコーズ・オブ・インディアナ・アヴェニュー》の挿入曲にも名を連ねる、ベー
シストのミンゴ・ジョーンズ、ピアニストのメル・ライネを含めた、多くのジャズ界の著名人や、
インディアナポリスの市長グレゴリー・バラッド、有名なジャズ写真家ダンカン・シャイト、およ
びモンゴメリのファミリィも出席した。
イベントの司会者はこの3月25日、79歳でに亡くなったジャズアナウンサーで有名なチャック・ワ
ークマンであった。
スピーチはレゾナンス・レコードの副社長および事業部長ゼヴ・フェルドマンからのコメントで始
まった。
「我々は2010から11年にかけ、リリースに向けてのプロジェクトを企てた」とフェルドマンは言う。
「インディアナポリスへ3回出向き、そこで、学者、教師、ウェスの友人や知人に会った。
我々が持っていたのは発掘されたテープだけであったが、聞き得た多くの情報をつなぎ合わせ始め
た。
そこで我々が得たことは、単に伝説のアーティストの音楽という事だけでなく、それ以上のもので
あった。
ウェス・モンゴメリという名の男がどんな人間であったかという事に加え、音楽が生活の中に解け
込んだこのインディアナ・アヴェニューと呼ばれる場所について学んだ。
そこは非常に重要な場所でアフリカ系アメリカ人の歴史の中枢であった。」と述べた。
モンゴメリの親しい友人や、そりにJ.J.ジョンソンやフレディ・ハバードの家族や知人はそれぞれ
の思いや、歴史的なインディアナ・アヴェニューのジャズ地域と、伝説のギタリストの思い出話に
について話がはずんでいた。
モンゴメリ・ファミリとしては、現在は再婚され名字が変っていますが、未亡人であったシリーン
・ウッズ(訳注: 未亡人の名前"Serene"はセレーヌとかセレーン、セレーネ、などと言われていま
す。どれも間違いではないと思いますが、辞書などによるシリーンと言う記載はバディのサイトで
紹介されている呼ばれ方と一番よく似ていると思う。)それに息子のロバートが出席していた。
そのロバートは「親父のサウンド--それは彼の精神から成し得たものだった」と言う。
「親父は大きな音量で弾いていたので、いつも母に「ウェス、そのひどい音をやめないのであれば、
あなたとそれを放り出すわよ!」と言われていました。
「でも、それがサウンドとして発展したところであり、私の母への気遣いから成し得たものです」
そして「親父にとっては長い道のりでした」と続けた。
また、バラッド市長とミンゴ・ジョーンズ(b)と共にスピーチを提供したダンカン・シャイトは、彼
にとって最も印象的であったモンゴメリの逸話話(キャノンボール・アダレイ、ジョージ・シアリン
グそれにレニー・トリスターノ等が、演奏するウェスの目の前での行動)を振り返った。
「ウェスが演奏しているなか、なにか後ろで椅子がきしむ音が聞こえてきた。するとキャノンボール
はステージ中央の前に自分の椅子を引きずって行き、背もたれに寄りかかって目を閉じて彼の演奏を
聴いていた。
たぶん彼が以前にウェスの演奏を聴いたことはなかったと思う。ウェスはその1、2週間後にニュー
ヨークへと向かった。」とダンカンは振り返る。
(訳注: キャノンボール・アダレイはジョージ・シアリングのグループに加わり、トリスターノ・バ
ンド等とともにインディアナポリスにある、"インディアナ劇場"でニューポート・ジャズ・フェステ
ィヴァルと呼ばれる巡演パッケージ・ショーの一晩興行に出演していたという事で、ダンカン・シャ
イトに尋ねてみた。
パッケージ・ショーは"インディアナ劇場"で行われたと言うのが定説で、現在もその劇場は存在して
いるようですが、との質問に「もう、かなり以前のことでよく覚えていないが、"ミュラ劇場"かバト
ラー大学構内にあった"クロウズ・ホール"だったと思う。
"インディアナ劇場"とか"ウォーカー劇場"という大きなところでなかったことは確かだよ。」と答え
た。
では、その時ウェスが演奏していた"ミサイル・ルーム"はどこにあったのか、との質問に「90歳を超
えるとね・・ウエスト通りで"ウォーカー劇場"のひとつ南のブロックだったと思う・・よく覚えてい
ない。」と答えた。
エイドリアン・イングラム著では、"インディアナ劇場"と書かれていたが、これはインデアナポリス
にあったどこかの劇場と理解しましょう。
ダンカンが答えた"ミュラ劇場"は比較的"ミサイル・ルーム"に近く、"クロウズ・ホール"はかなり離
れているが何れも現存しているようです。)
アルバム・リリースに先駆けて、手書きのシリアル番号が付けられた1,000枚の2枚組レコードのう
ちの、"No.0001"はネット・オークションにかけられ、売上代金はレゾナンス・レコードを代表して、
アメリカ心臓協会のカルチュラル・ヘルス・イニシアティブの局長リン・グリフィンに贈られた。
(訳注: それは、ウェス・モンゴメリが1968年に心臓発作により亡くなったことからと追記されている
が、この"No.0001"は eBay で300ドル少しで落札されたことを覚えている。
はじめ、何故発売日以前にオークションに出品されているのか分からなかったが、レゾナンス・レコ
ードはやりますね。)
イベントは、何れもよく"ジャズ・キッチンに出演をしているビル・ラクトン(g)、スティーヴ・ウィ
ークリー(g)、フランク・ステーン(g)、および他の特別ゲストを向かえた、"インディ・ギター・サ
ミット"によるモンゴメリ・スタイルの演奏で幕を閉じた。
「親父は、ひとりのミュージシャンという以前に、ひとりの人道主義者であった」とロバート・モン
ゴメリは言う。「ミュージシャン、労働者、ミュージシャンの繰り返しだったが、学校教育が全くな
かった」すべてはただ、「ギターを弾こう」と決めた一人の男に端を発するのである。
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余談ではあるが、マイケル・カスクーナはeBayのネット・オークションに出品された未発音源に入札
せず、出品者のジム・グリーニンガーから直接購入しリリースする以前の段階として、モンゴメリ遺
産管理人と交渉し、リリースさせるレコード会社もいろいろと思案があったようですが、最終的に、
レゾナンス・レコードに落ち着いたという。
この未発音源は1958年とするならば、著作隣接権50年という規定からはすでに外れていると思うので
すが、モンゴメリ遺産管理人の快い承諾をいただいているという内容はどの程度のものか分かりませ
ん。
つまり1965年のウェスとケリィの未発音源のインディーズ盤が出せるのか・・いずれにしてもレゾナ
ンス・レコードはこの《エコーズ・オブ・インディアナ・アヴェニュー》のリリースに際しモンゴメ
リ・ファミリを招き祝賀会を催したことはエライと思う。
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