ニュース速報 No.107(2012.7.16号)


インディアナ大通りウォーカー劇場
1900年代の初期に、数千人の黒人が北米へやってきたことで、"アフリカ系アメリカ人の大移動" と して知られているが、インディアナポリスの黒人人口が増加した時、インディアナ大通りはその中 心となった。 住民たちは、ホワイト河やその周辺エリアでは病気を媒介する虫が多く生息する場所と考えられてい たので、最初からインディアナ大通り沿いに住む傾向にあった。 そして、1930〜40年代インディアナ大通りは黒人のブロードウェイと言われるほど多くの芸能活動の 最盛期となった。 モニュメント・サークルの北西、ニューヨーク通りからホワイト河近くの旧市民病院までの1マイル 程の一筋の道が黒人のビジネスと文化的生活の中心であり"ファンキ・ブロードウェイ"、 "イエロー ・ブリック・ロード" 、 "グランド・オールド・ストリート" などと呼ばれていた。 また、インディアナ大通りは当時最大の催しをいくつか主催している。ビー・ビー・キング、カウン ト・ベイシーズ・オーケストラ、ルイ・アームストロング、ライオネル・ハンプトン、ディジー・ガ レスピー、チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスらが立ち寄り、メインのコットン・クラブ やサンセット・テラス、それにウオーカー劇場などで主演のトップを飾っている。 ウオーカー劇場は、マダムC.J.ウオーカー(国家初の自力で出世し大富豪になった黒人女性起業家) によって1927年に築かれた。 インディアナ大通りは禁酒法のしかれていた時代、不況と戦争の間に繁栄したがニューヨークのハー レムと同様に人種差別が厳しく黒人は白人の居住地区から制限されており、都心部の白人が所有する 多くの施設で買い物することはできなかった。 ただ、反発という文化なのかインディアナ大通りだけは黒人の客でも開業医、弁護士、歯科医、カフ ェ、レストラン、クリーニング屋、雑貨屋、靴の修理屋、それに輝かしいステージやナイトクラブで の差別はなかった。 中でもウォーカー・ビルディングが中心的役割を果たしたが、劇場、レストラン、およびオフィス・ スペースも含まれ都心部の建物と契約することができなかった多くの黒人経営者をテナントとした。 そして1950年代に状況は変わりはじめた。 その辺り一帯から東にかけての地域は商業用地としての開発が始まり、新しく形成されたインディア ナ大学のキャンパスは、西から広がりはじめた。 同時に人種差別による制限が和らぎ、黒人は自由に他の地域に引っ越したり、商店街で買い物したり することができるようになった。 栄光の時代とはいえ、インディアナ大通りでは常に悪い習わしがあった・・ギャンブル、売春、密造 酒など・・ただそれがその界隈の特徴であった。 そして次の20年の間、インディアナ大通りにあった多くのものがが荒廃してゆく中、悪行だけはのさ ばり続けたがウォーカー・ビルディングは1965年に閉鎖となった。 ところが1980〜90年代、都心部の開発ブームによってこのエリアは一掃され再び新しくなった。 運河に沿って高級なアパートが建てられた。 古い建物の多くは取り壊されたが、ウォーカー劇場を含むいくつかの建物は残され、1988年に再びオ ープンした。 毎年夏には、"Indy Jazz Fest"で古いナイト・クラブがインディアナ大通りに復活させているが、そ のひとつに、現在インディアナ大学の音楽教授であるデイビッド・ベイカーは大学のアート・ウィー ク祭の一連のイヴェントとしてインディアナポリスやその周辺にまで伝説のジャズシーンを再現させ ている。 デイビッドは、「インディアナ大通りは、1950年代の終わりまで繁栄し続けた。しかし次の10年間、 都市再開発と人種差別廃止の時代が訪れ、少しずつ変わっていき1960年代の終わりには、以前のよう なジャズのメッカではなくなってしまった」と言う。 1950年代の終り頃にやる気のあるミュージシャンは、ニューヨーク、シカゴ、およびニューオリンズ のような大都市へ進出していった。 同じくベイカーとデイビッド・ヤングもジョージ・ラッセル・セクテットのメンバーになるためにイ ンディアナポリスを去った。 1960年代も終わる頃、ベイカーはチェロを習得し、ブルーミントンにあるインディアナ大学でジャズ 研究部門を設立し、文化的リーダとジャズ教育者としての役割と方向性の基盤を築いた。 ベイカーは「インディアナ大通りがジャズの最盛期、インディアナポリスにはまだ人種差別があった 。」と言う。 ベイカーと彼の師匠にあたる、J.J.ジョンソンや同級生のスライド・ハンプトなど何人かのミュージ シャンは全生徒黒人のクリスパス・アタックス高校の卒業である。 それでもベイカーは、「黒人や褐色の肌をした人種のクラブがあり、そこでは白人も歓迎された。ど のようなミュージシャンでも、経験を積むためにそこで演ることができる。黒人一色のクラブがあっ た記憶はない。誰もが歓迎されていた。」と言う。 インディアナ大通りのクラブが、人種差別に対して報いる行動はなかったことになる。
【インディアナ大通りの中心ウォーカー劇場】 美容院、保険オフィス、開業医、薬局、娯楽施設などの他に1500席の演劇場があった。 この演劇場には無声映画の効果音としても使用されたパイプ・オルガンが装備してあったというが、 ピアノのエロル・グランディは「1930代からこの劇場では大きなジャズ開催場としてまたショー・ダ ンスなどにも使われ、クリスマスにもなるとジミー・コー・バンド、ハンプトン・ファミリィ、それ にプーキー・ジョンソン・バンド等、地元ミュージシャンで占められた。」と言う。 そして、「地下には深夜営業のミサイル・ルームがあった。ウェス・モンゴメリがオルガンのメル・ ラインとドラムスのポール・パーカーと一緒に演奏しているところを"発見された"クラブです。 」と説明している。 今まで諸説(ニュース速報 No.103:インディアナ・アヴェニュー・サクセス・ストーリーでは、ダンカ ン・シャイトのはっきり覚えていない話をもとに記載)では・・ウエスト通りにあった・・とか・・ウ ォーカー劇場のひとつ南のブロックにあった・・と言われていたが、ここでインディアナポリスに詳 しい人にも聞いたり他のサイトにも書かれていたことから、ミサイル・ルームがウォーカー劇場の地 下にあったという説もある。 当時デイビッドは、「34番通り(ウォーカー劇場よりかなり北方面)の "トッパー" で午前1時までカ ルテットによる出演をこなしていたが、その後ミサイル・ルームに移動した。そこでは、ウェス・モ ンゴメリやJ.J.ジョンソン率いるグループと一緒になった。」と言うから、彼にもミサイル・ルーム の場所を訪ねたが親切な返事はなかった。 (8月22日追記:デイビッドへのインタビュー記事があり、そこで彼はウォーカー劇場の筋向いにあった と語っている・・何が本当なのか???) 別ののサイト"SOUL of AMERICA"の"INDIANAPOLIS JAZZ and SOUL MUSIC"では次のような説明がある。 1930年から1960年、インディアナポリス最盛期には、チトリンサーキット(訳注: 黒人たちが集まるク ラブが並び、とても栄えていた通り)として名をはせるインディアナ大通りに沿ってジャズやブルース のクラブが大流行した。 他の都市のように人種差別はあったが、インディ(訳注: インディアナポリス)はギグの合間、シカゴ とデトロイトに行く途中に立ち寄りやすい便利な場所と考えられていた。 ウォーカー劇場は、コンサートやより大規模なショーのためのメイン会場であり、同ビルには深夜営 業するクラブ、ミサイル・ルームもあった。 有能なミュージシャンは、インディアナ大通りとウェスト通りの交差点付近にあったクラブだけで、 何年もとはいかないまでも、何か月間も働くことができた。 今日、ウェスト通りのこの辺りはマーチン・ルーサー・キング・ドライブと呼ばれ、今は"サンセッ ト・テラス" も取り壊され、ウォーカー劇場の駐車場となっている。 この地区を取り囲んでいたほとんどの住居は、インディアナ大学の新しい建物になり、何店かのナイ ト・クラブも取り壊された。 従って、完全に修復されたウォーカー劇場を見る時、それが、ニューヨークのアポロ・シアターのよ うに、ジャズ、ブルース、ブラック・シアター、およびマダムC.J.ウオーカーのような企業家の功績 を語るインディの黄金時代の象徴がまだ残存していることをうれしく思う。 インディのジャズ回顧では常に最初の感謝の念を、チャーリー・クリスチャンと共に最も有力なジャ ズ・ギター奏者のひとりとしてジャズ評論家によって称賛されているウェス・モンゴメリに与えるべ きである。 さらに、音楽愛好家はウェスの有能な兄弟たち、ヴァイブのバディ、エレキ・ベースのモンクにも注 目すべきである。 感動的なモンゴメリ三兄弟は、国内外で栄誉を得るインディだけのミュージシャンというだけではな かった。彼らに、スライド・ハンプトン、J.J.ジョンソン(tb)、ジミー・コー、アロンゾ・プーキー ・ジョンソン(sax)、エロル・グランディ、カール・パーキンス(p)、キラー・レイ・アプルトン(dr) 、そしてフレディ・ハバード(tp)らが共演した。 ウォーカー劇場を取り巻くライブ・スポットを地図に示しながら紹介するが、まずは【ファーガソン 兄弟】について。 4階建ての三角形をした褐色煉瓦のウォーカー・ビルディングは、今は亡きマダムC.J.ウオーカーが ヘアケアと化粧品会社のオーナーとして成功したが、ファーガソン兄弟もインディアナポリスで先駆 的な黒人起業家であった。 シー・ファーガソンとデンヴァー・ファーガソン兄弟は1919年ごろに印刷業で成功し、後に取得した 財産を通して富を築いた。 彼らはローカルなジャズ・コミュニティに興味を持ち、インディアナポリスをその地域のジャズの中 心にしようとビジネスを開始した。 ファーガソン兄弟は大通りに4つの主要なエンターテインメントの拠点を開いた。コットン・クラブ、 その階上のトリアノン・ボールルーム、それににサンセット・テラス・ボールルーム、ロイアル・パ ーム・ガーデンズである。彼らはミュージシャンのためにホテルやエージェントをも経営していた。

Aの位置がウォーカー劇場でその地下にミサイル・ルームがあった。 Dリッツ、Fピンク・プードルがあった。 @【サンセット・テラス】 インディアナ・アヴェニュー873-875に位置するサンセット・テラスは、1938年にシー・ファーガソン によって開かれた。 エロル・グランディは、サンセットテラスとウォーカー・カジノはダンスのためにライブ音楽を提供 していたことを振り返る。 グランディはまた、サンセットテラスがかなり危険な場所であったことを思い出す。 「私はそこに行くたびに、防弾チョッキが欲しいと思ったほどだ。持ってはいなかったが、それを願 ったね・・・ある日曜の夜、デューク・エリントンがサンセット・テラスにやってきて・・・もちろ ん、彼はステージの上にいた。 突然暗闇で喧嘩しているのが聞こえたかと思ったらステージにウイスキーやビールのボトルが飛んで きた・・・彼はスーツを汚されてしまい2度とここには出演しないと言っていたよ。こんな出来事が あったのは・・・たしか30年代後半か40年代前半だったと思う。」 E【コットン・クラブ】 コットン・クラブはデンヴァー・ファーガソンの経営であった。 そこは、さまざまなタイプのエンターテインメントを提供していた3つのフロアがあった。 2009年のインタビューでミンゴ・ジョーンズがこのように振り返っている。「メイン・フロアではバ ンドを売り物としていて、3階は女子ダンサーたち、コメディアン、タップ・ダンサーやシンガー、 それにアイロン・ジョーズと名づけられたエンタテイナーのショーを売り物にしていた。2階では一 晩中ジャム・セッションが演奏されていた。 【ザ・パラダイス】 エロル・グランディは、1936年ごろ、アール・フォックス・ウオーカーがザ・パラダイスのレギュラ ーであったことを振り返る。 「ウオーカーは素晴らしいドラマーであった。そう、彼の始まりはスプーン(訳注: スプーンの背を 合わせ膝などを利用して叩く、一種のパーカッションのような感じ)で、スプーンが転じてドラムス に発展したんだ。 お店の人がレコードをかけるとウオーカーはそれに合わせてドラムスを叩いていた。誰もが目をみは るドラマーで、私はそれを見てすごいと思った。」 C【ジョージス・バー(1940〜50年代)】 ジョージス・バーとアンリズ・バーはインディアナ大通りを挟んで、ヴァーモント・ストリートと セナート・ストリート上の向かい合う位置にあり、ジョージスの階上にはスカイ・クラブがあった。 ジョージスやアンリズ、ミサイル・ルームなど小さなクラブは、カッティング・コンテスト(訳注: バトルというのか腕比べというのか要は競い合い)の会場となり、そこではローカル・ミュージシャ ンがお互いに競い合ったり、ときにはビック・イヴェントでの仕事を終えたツアー中のミュージシ ャンとの競演の場所にもなっていた。
B【アンリズ・バー(1940〜50年代)】 アンリズはジャズ・ミュージシャンに人気のバーであった。 アンリズの入口ドアの上には "ここは世界的ミュージシャンになるための登竜門です" と書かれた看 板があった。 写真は左からウイルス・カーク(dr)、モンク、ウェス、バディ・モンゴメリですが、プーキー・ジョ ンソンの姿が見られないことからモンゴメリ/ジョンソン・クウィンテットではないと思う。 A【アルズ・ブリティッシュ・ラウンジ (1969年-1975年)】 アルバート・コールマンがブリティッシュ・ラウンジを引き継ぎ、1969年にアルズ・ブリティッシュ ・ラウンジとして再びオープンさせた。 1969年から1975年に閉店となるまで、ラウンジはジャズミュージシャンにとって人気の場所であった。 大通でブラック・ビジネスが低迷状態にあった時に営業しており、アルは、ジャズ・ミュージシャン にだけでなく、あらゆるジャンルを迎え、ラウンジの雰囲気が友好的であることを確かなものとして いた。