ニュース速報 No.114(2014.4.28号)


お蔵のモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテット
 Wes Montgomery and The Montgomery-Johnson Quintet アルバム名 : Wes Montgomery and The Montgomery-Johnson Quintet アルバム番号: EPIC HLT-8014 リリース国 : USA リリース年月: 4/2014 メディア  : 10inch-LP
モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットによる1955年6月録音から一曲〈ラヴ・フォー・セール〉が CBS/コロンビア・レコード《Various-Instrumentalists Almost Forgotten/Columbia FC38509》として 日の目を見たのが1983年のことでした。 このころ、モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットのグループとしての活動が明確に把握しきれてい ない事もあって、このレコードがリリースされたとき、いち早く輸入盤取扱店に駆け走ったことを思い 出す。 何度聴いても一曲限りであるにも関わらず、繰り返し聴いては同日録音されたであろう未知の曲に思い を馳せていた。いずれ発掘されるだろうと思っていたが・・あれから30年余りたち・・昨年も《Wes Montgomery/Echoes of Indiana Avenue》で賑わしてくれたレゾナンス・レコードが再びの快挙を知らし めた。 《Wes Montgomery and The Montgomery-Johnson Quintet/EPIC HLT-8014》しかも10インチ装丁という コレクターズアイテムでのリリースである。ターンテーブルを持っていないファンも多いと思うが近日 中CDのリリースも予定されているとの触れ込みもある。 まずは〈ラヴ・フォー・セール〉も含めて全5曲のディスコグラフィを記載する。 Wes Montgomery / Wes Montgomery and The Montgomery-Johnson Quintet Record Producer and Composer, Quincy Jones: Wes Montgomery(g), Buddy Montgomery(p), Monk Montgomery(b), Alozo“Pookie”Johnson(ts), Robert“Sonny”Johnson(ds) Columbia 30th Street Studio, N.Y.C.; Jun.15,1955 Love for Sale [3:52] Columbia FC38509 EPIC HLT-8014 Leila [2:56] - Undecided [3:07] - Blues [3:18] - Far Wes [3:18] - ハンプトン楽団を退団したモンクはしばらくシアトルで生活したあと故郷に帰り、おもにモンゴメリ3 兄弟とジョンソン兄弟が主導で1955年から56年にかけてモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテット (以下:MJQ)としてインディアナポリスを活動の中心としてグループ結成した。 そのMJQが1955年、ニューヨークへ出かけての録音情報は以下のとおり交錯している。 @コロンビアのジョン・ハモンドに係るアルバムに数面分の録音をした。 Aアーサー・ゴットフリーのオーディションを受けた。 Bクウィンシー・ジョーンズの制作により録音した。 まず、@について《Various-Instrumentalists Almost Forgotten/Columbia FC38509》のライナーノーツ にはジョン・ハモンドとの係りがあるようなニュアンスで書かれてあり、MJQの録音がされたと受け止めら れる。 しかし、その録音が〈ラヴ・フォー・セール〉を含むものであるとの確信は得がたい。 当時、ジョン・ハモンドはよくオーディションの録音をしていたようだが、その多くはリリースされること はなかったという。 彼はいつもスタジオB(NY52番通)を使っていたということで、上記の録音データと合わない事が分かる。 AとBはエイドリアン著の《ウェス・モンゴメリ》に説明されているが両者ともテープは行方不明である」 と、記載されている。 アーサー・ゴットフリーはCBSのスタッフであり、CBSはコロンビア・レコードを所有していたが、傘下にジ ャズ、クラシックを扱うレコード会社として1953年に設立されたエピックにまで彼が影響を及ぼしていたな ら、クウィンシーとの関わりも感じられるが、 AとしてMJQはオーディションのための録音をしたという単独説が有力である。 一番確かなBはこのたび発掘された《 Wes Montgomery and The Montgomery-Johnson Quinte》のライナー ノーツに書かれてあった。 クウィンシーはウェスが退団した後の1951年から53年にかけてトランペッターとしてライオネル・ハンプト ン楽団に籍をおくが、ウェス同様ほとんどソロとしての出番はなかったようです。 つまり同じセクションにはクリフォード・ブラウンやアート・ファーマーが鎮座していたことにより、演奏 よりアレンジャーとしての手腕がかわれ、53年のヨーロッパ・ツアーの成功に貢献した。 この時、ストックホルムでクリフォードとアートが地元のミュージシャンと共演した録音にも、クウィンシ ーは自作曲や編曲で支援したり、他にもパリなどでも同じような行動をしていた。 しかし、ハンプトンは一切の部外活動を禁じていたことから話がもつれ、帰国後の12月にクウィンシーは退 団した。 もちろん、クリフォードやアートなどの大物も含め多くのメンバー・・その中にはエレキ・ベースで奮闘し ていたモンク・モンゴメリ・・も退団した。 クウィンシーは退団後、アレンジャーとしてフリーの活動を始めた。翌年の12月にはエマーシーでヘレン・ メリルのバックにクリフォード・ブラウンを配した《Helen Merrill/ EmArcy MG-36006》そう、あの名盤は クウィンシーの編曲・指揮でした。 「私は雇われアレンジャーとして仕事をしたけど、当時ほとんどのアレンジャーはプロデュースもやらなけ ればならなかったんだ。 私はプロデューサーがどんなものだかわかっていなかったけど、それをやっていた。」二つの仕事を兼ねる のは今では当たり前のことですが、編曲者はそれがどのように仕上がるのか一番気にかかるところですから おのずから指揮にも影響を及ぼしたくなるのは極自然のことです。 この53年にコロンビアテレビ局の子会社、CBSレコードの傘下にジャズ、クラシックを扱うエピック・レコ ードが設立された。 「CBSでは当時、黒人用ラジオで流せるようなリズム・アンド・ブルースの新しいレーベルを立ち上げようと していた。 マーヴィン・ホルツマンがその担当で、ドン・コスタや私のようなアレンジャーと一緒に、エピックという レーベルを興すことにした」とクウィンシーは語るが、ここでの立場は専属的な意味合いとは思えない行動 もある。前述のようにエマーシーや他でも仕事をしている。 55年になって「モンゴメリ3兄弟とのこの日のセッションは試しに録音したものだった。」と語るのはこの たび発掘リリースされた本アルバムのことですが、クウィンシーは「私がライオネル・ハンプトン楽団のメ ンバーとしてナップタウン(インディアナポリスの別名)に行ったとき、ウェスの部屋で寝泊まりした。」と 言っていることから、既にウェスについての技量は見抜いていたことになる。 「それは私のアイディアなのだけど、マーヴィンは22歳の新参者である私を信頼してくれていた。」と言い MJQの全員に声をかけ、このセッションのために車に乗せ、自ら連れて行った、と説明している。 確かに、エピックでのセッションですが、たとえばサックス奏者、ソニー・スティットの1955年録音のジャ ズ・アルバム《Sonny Stitt Plays Arrangements from the Pen of Quincy Jones/ROOST LP2204》は9月か ら10月にかけてのニューヨーク録音、それにそれ以前の1月でもエマーシーでクラー・クテリー・セプテッ トにアレンジャーとして加わっている。 当時はこれが通常なのかどうかわかりませんが、とにかく、クウィンシーのMJQセッションについてそれらを 裏づけるBとして録音したと言う証言話がある。 あるアメリカのラジオ放送局のスタッフが「私は今日プーキー・ジョンソンがベアーズ・プレイスでのギグ の前に、なんとか数分間だけ話をすることができたよ。 彼は、そのオーディション・セッションはクウィン シー・ジョーンズの依頼で行われたと言っていた。 プーキー自身ハモンドを知らなかったから、ハモンドがそこにいたのか、いなかったのかは覚えてないそう だ。 グループは午後4時30分ごろにニューヨークに到着し、クウィンシーの家で6〜7時間過ごしたあと、夜11 時30分ごろレコーディングを始めたと言う。(訳注:プーキーによると、クウィンシーの家では単に休憩した だけとのこと)プーキーによれば、グループは当時シアリングのようなサウンドを持っていて、クラブの中で はかなりタイトに聴こえたが、その晩、マイクを通して聴いてみるとラグっぽいサウンドになったという。 彼が言うには、グループはいささか疲労した状態であったため、その日は中止となったそうだ。 何面分レコーディングしたかを覚えていなが、その録音月日は正しいみたいだと言っていた。 近いうちに行われるインディアナポリスでのライヴで、プーキーに十分なインタビューが出来るので、さら に詳しい情報が得られると思う。」というものです。 ラジオ放送局のスタッフの話のあとプーキーも亡くなっていますが、彼の証言からするとジョン・ハモンドを 知らない、ということ、クウィンシーの話の中にジョン・ハモンドもアーサー・ゴットフリーも出てこないの で@とAには〈ラヴ・フォー・セール〉絡みの録音ではないと判断する。 ただ「火の無い所に煙は立たぬ」と言うが@もAも何らかの形でMJQとの接触があったのならば、クウィンシー とは別の音源が残っていると信じたい気持もある。 プーキーの証言話は「ニュース速報 No.108(2012.8.22号) 忘れられていたもう一つの録音」で確かめてくだ さい。 最後にクウィンシーが自身の才能についてこのように語っている「才能のあるミュージシャンが自分の才能に 気が付く前に私は見抜いていた」と言い、「ウェスは自分の才能に気付いていなかったし、誰もウェスが何者 なのかを知らなかったんだ。その時点ではまだね。」と締めくくっている。 これほどまでにウェスの才能を見出しながらも、何故、録音をお蔵にしたのか・・本当の理由も言ってほしか った。 仮に、その後ウェスがエピックと契約し、クウィンシーの編曲・指揮についていたら・・どうなっていたでし ょうね。