伝説のミサイル・ラウンジ
新聞に掲載されていた、伝説のミサイル・ラウンジ
言われている右の建物が葬儀屋かどうかは不明
ウェスに関してミサイル・ルーム と言えば元警察官ジャック・ダーラムが経営する深夜営業のラウンジ
として、それはターフ・クラブが引けたあと朝の5時まで出演し、時には仲間たちとのデイスカッション
の場として、そして競演の場となったと伝えられる。
そして何より写真家ダンカン・シャイトはウェス・モンゴメリの1959年9月7日(正確には9月8日未明)
となるの出来事について「ウェスが演奏しているなか、なにか後ろで椅子がきしむ音が聞こえてきた。
するとキャノンボールはステージ中央の前に自分の椅子を引きずって行き、背もたれに寄りかかって目を
閉じて彼の演奏を聴いていた。
彼はウェスの演奏に強烈なインパクトを受けていたのは確かだ。ウェスはその1、2週間後にニューヨーク
へと向かった。」とダンカンは振り返る。
いまさら詳しい説明もないが、キャノンボール・アダレイはジョージ・シアリングのグループに加わり、
トリスターノ・バンド等とともにインディアナポリスにある、インディアナ劇場でニューポート・ジャズ
・フェスティヴァルと呼ばれる巡演パッケージ・ショーの一晩興行が開催され、ダンカンは「既にバッ
クステージ・パスで入館しカメラを持って待機していると、幕間にウェスが入ってきてステージの袖で出
番待ちのミュージシャンにミサイル・ラウンジに出演しているんだけど終わったら観にこない?と話しか
けていた」。
そこを運良く目撃したことでダンカンもミサイル・ルームに先回りして行った、ということらしい。
今も疑問に思うことがあり、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルと呼ばれる巡演パッケージ・ショ
ーはインディアナ劇場で行われたと言うのが定説とされているが、生前ダンカンにメールで質問したことがある。
Q1. パッケージ・ショーが開催されたのはインディアナ劇場と言われているのですが。
A1. もう、かなり以前のことでよく覚えていないが、ミュラ劇場かバトラー大学構内にあったクロウズ・
ホールだったと思う。
インディアナ劇場とかウォーカー劇場という大きなところでなかったことは確かだよ。
それにニューポート・ジャズ・フェスティヴァルは当時ロードアイランド州ニューポートで毎年7月に開
催されていたが、この名を借りた巡演パッケージ・ショーとは何なのか、しかも時期も外れて9月だから、
理解に苦しむ。
Q2. それで伝説的に語られるミサイル・ルームはどこにあったのですか。
A2. 90歳を超えるとね・・ウエスト通りでウォーカー劇場のひとつ南のブロックだったと思う・・よく覚
えていないが。
その後、ダンカンは《Wes Montgomery Early Recordings frome 1949-1958In the Beginning》のライナ
ー・ノーツで「9月8日未明のウェスのバンドはソニー・ジョンソン、メル・ラインのトリオで私が店に
着くと彼はセッティングの最中でステージは薄暗く店の照明自体も薄暗かった。店内は大きくなくそれに
合わせテーブルも椅子も小さめでしたが真ん中の観良い席に着くと、最初に入店してきたのがジョージ・
シアリングとレニー・トリスターノでした。
満員にはならなかったが暫くすると演奏が始まり、ついにキャノンボール・アダレイが入ってきました。
私は歴史的写真を撮ろうとカメラをセットしたがフラッシュの故障で最後まで撮る事が出来なかった。」
と、落ち込んでいる。
このミサイル・ルームの場所については、この「ニュース速報」でも何度か記載し、「ウォーカー劇場の
地下にあった」という説や「ウォーカー劇場の筋向いにあった」など人の記憶に頼ったものばかりであっ
た。
ダンカンもレゾナンス・レコードのゼヴ・フェルドマンの質問に私とは少し違った答え方をしている。
「ダウンタウン地区の川の対岸で目と鼻の先の距離でした。ウエストサイドを南北に走る大通りのひとつ
セカンド・アヴェニューを超えたところで、店は地下にあり民家を改装したように見えました。
以前は白人居住区であったことは間違いありません。町は北へ向かって都市化され黒人街もその地区へ移
動し、更に西へも拡散していった。今はそんな人種隔離地域なんてないですよ、昔のことですから。」
ダンカンの言う「通りや筋」を地図上に照らし合わせたが、やはりその場所が特定できない。
それで見方を変えて、ミサイル・ルームで検索したがやはり情報がなく、次に経営者の「ジャック・ダー
ラム」で検索していくうちに・・ある新聞にたどりついた。
それはインディアナポリスの地元新聞「Indianapolis Recorder」というもので、遡っての新聞をOCR
したものを一般公開していた。
元警察官ジャック・ダーラムはやはり曰くつきの人物らしく何度もこのニュース記事に登場していた。
そこに記載されてあったのが「JACQUE W. DURHAM/「Missile Lounge 518 N West St, Indianapolis,
IN 」正に、「ミサイル・ラウンジ、インデイアナポリス、ノース・ウエスト通り518番地」と記載された
トップの写真である。OCRのスキャナーの性能が悪く鮮明さに欠けるが、伝えられてきた雰囲気は十分
に感じる。
上記、【C】ミュラ劇場や【D】インディアナ劇場などと地図上に表すと位置関係が分かる。
【A】は何かと引き合いになる中心部ウォーカー劇場、その下にダンカンが言う目と鼻の先【B】の位
置がミサイル・ラウンジである。
住所を充てると東西2本あるノース・ウエスト通りの西側道路上になる。これはダンカンも説明した通
り都市開発で整備される以前は1本だったと思われるが、ダンカンの記憶はほぼ正しかったことになる。
彼が答えたミュラ劇場は比較的ミサイル・ルームに近くクロウズ・ホールはかなり離れている(ウォーカ
ー劇場より北へ約8km程のところ)が何れも現存しているようである。
現在、ミサイル・ラウンジあった場所を観ると全く面影はないが、
白い乗用車のあたりから奥側にミサイル・ラウンジがあった。
ここでジャック・ダーラムが賑わせた新聞記事を紹介する。
ウェス等ミュージシャンと関わるものはないが、ざっと見ただけでも次のように現われた。
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1959年11月21日『 Indianapolis Recorderey』の紙面より概要。
"緊急手入れでダーラム以外の6人の客を逮捕"
客同士の売春斡旋や禁制の酒売買などで白人女性2人を含む6人が逮捕され、経営者のジャック・ダー
ラムも関与の疑いで事情聴取を受ける。
1962年6月16日『 Indianapolis Recorderey』の紙面より概要。
"ジャック・ダーラムが獄中の被収容者に諭したことが評価された"
問題の多い如何わしいバー、ノース・ウェスト通518番地の「ミサイル・ラウンジ」の経営者であり、
元警察官のジャック・ダーラムは去る3月まで無断で深夜営業した罪で既にマリオン・カウンティー刑
務所で現在90日間の刑期を勤めているが、今週同じ被収容者の生命を救ったことが評価された。
保安官ロバート・エリオットによれば、酔っぱらいで3日間の拘留に服していた囚人が明日にも釈放さ
れると言うのに、突然3階階段より飛び降り自殺を計ろうとした時、ダーラムは説得に徹したが飛び降
りた瞬間その右腕をつかんだことで転落での怪我を和らげた。
保安官エリオットは彼の英雄的な行動に対して自身も転落したかもしれないダーラムを称賛しました。
1963年5月18日『 Indianapolis Recorderey』の紙面より概要。
"元警察官のジャック・ダーラム、強姦容疑で告訴"
ノース・ウェスト通518番地の「ミサイル・ラウンジ」の経営者であり元警察官のジャック・ダーラム
45歳は家出していた2人の少女に強姦されたと証言され、強姦罪と不健全性的行為で起訴された。
彼は15000ドルの保釈金で釈放された。
何もしゃべらなかったダーラムは5月24日に召喚され、2つの起訴に対して弁明するであろう。
この法廷でジャック・ダーラムは過去に警察官であった時、窃盗団のメンバーをかばった罪で告発され
長い法廷論争の後、1955年に解任されたと述べ、同僚の警官によって嵌められたと強く主張した。
1964年5月30日『 Indianapolis Recorderey』の紙面より概要。
"裁判官がジャック・ダーラムを事情聴取"
5月22日「ミサイル・ラウンジ」の前でダーラムが非番の警官に暴力をふるい発砲し怪我を負わせたと
いう事件で、ダーラムは正当防衛を主張。
1964年6月27日『 Indianapolis Recorderey』の紙面より概要。
ダーラムは強姦罪で有罪が言い渡されましたが、控訴するようです。
また、警察官への発砲事件で拘留されたあと保釈金で釈放されたが来月裁判が予定されている。
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インデイアナポリスの多くのサイトや紙面、関係者がミサイル・ラウンジを詳しく語らない、知らなか
ったのは経営者ジャック・ダーラムの新聞沙汰が原因で音楽面でも取り上げなくなっていった事が原因
であったと思った。
よきも悪しきも、ジャック・ダーラムは札付きの悪人であったが、ミュージシャンには理解のある経営
者であったと思う。
ミサイル・ラウンジがなかったら、ウェスのレコード・デビューもなかったとは言えないが、もっと遅
れていたかも知れない。
違った方向に進んでいたかも知れない。そんな運命の出来事があったのもこの伝説のミサイル・ラウン
ジであった。
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