第五弾レゾナンスレコードのウェス&ケリィ
アルバム名 : Wynton Kelly trio Wes montgomery
Smokin'in Seattle live at the Penthouse
アルバム番号: RESONANCE HCD-2029(CD). HLP-9014(LP)
リリース国 : USA
リリース年月: 4/2017
メディア : CD/LP
ウェスとケリィの共演は1961年12月、リヴァーサイドでの《バグス・ミーツ・ウェス》、続いて62年6月
録音、かの名盤《フル・ハウス》で聴く事ができるがウェスがヴァーヴに移籍してからは《スモーキン・
アット・ザ・ハーフ・ノート》が3年振りの顔合わせとなった。
というのが65年までのレコードにからんだ一般的に知られるところであろう。
そもそもウィントン・ケリィ・トリオのユニットにウェスが参加したのはフィラデルフィアにあるショー
・ボート・ラウンジで65年6月21日〜6月26日まで出演した記録が残されておりこれがウェス・アンド・
ケリィの初演とされている。(あくまでもダウンビート誌の記載範囲のこと)
そしてこの間の6月25日は、フィラデルフィアから現在の特急電車で約1時間30分、ニューヨークにある
ハーフ・ノートにウィントン・ケリィ・トリオ・アンド・ウェス・モンゴメリとして出演、しかもWABC−
FM局のポートレイト・イン・ジャズのラジオ番組として45分間ライヴ中継された。
ライヴの模様は司会のアラン・グランにより前半はケリィ・トリオの演奏に始まり、後半のゲストとして
ウェスが参入するということでメインはケリィ・トリオであることから、ユニット名はウィントン・ケリ
ィ・トリオ・アンド・ウェス・モンゴメリとなった。
また、このユニット名でリリースされた《スモーキン・アット・ザ・ハーフ・ノート》もご存知のように
9月22日にヴァン・ゲルダー・スタジオで録音された3曲に、ハーフ・ノートでのライヴ音源 (※中継は
されていない) とされる2曲が付け足されたが、この2曲のうち13分間に及ぶ〈ノー・ブルーズ〉の神が
かった演奏に多くのファンはノックアウトされ絶賛したのである。
(※)2曲の録音月日については6月から9月の間としか分からない。6月24日との噂もあるが個人的には
否定したうえで6月21日〜6月24日まで上記の通りショー・ボート・ラウンジに出演しており、6月
25日はハーフ・ノートでポートレイト・イン・ジャズ・ショーに出演し、再び6月26日にショー・ボ
ート・ラウンジに帰ったダウンビート記録がある。
仮に、6月24日とするならば録音場所はショー・ボート・ラウンジとなることから《スモーキン・ア
ット・ザ・ショー・ボート》となる。
まあ、ヴァーヴもレコード・セールス上、《スモーキン・アット・ザ・ショー・ボート》ではイメー
ジから遠のくことで6月24日を隠し通したことも考えられる。つまりヴァーヴがライブ録音をするう
えでハーフ・ノートのステージは狭くて、さらに床よりかなり上げられていることで録音機材のセッ
ティングが難しい(もちろん有名なアル・アンド・ズート録音もある)の状況だから、ショー・ボート
・・ここのステージの広さは知らないが・・で録音した可能性は無きにしも非ずということは述べて
おく。
この65年はウェスが欧州ツアーから帰国して以降頻繁にケリィのユニットに参加している。
しかも旅慣れしたのか12月まで全国ツアーを催し、ニューヨークを始めボストン、バッファロ、シカゴ、
ボルチモア、ニユー・ジャージ、サンフラン・シスコ、フィラデルフィアなど、7月にはロード・アイラ
ンドでニュー・ポート・ジャズ・フェスティヴァルにも参加している。
ハーフ・ノートに出演しWABC−FM局のラジオ番組ポートレイト・イン・ジャズで中継されたものに限って
列記すると、2月12日、これだけは欧州ツアーをともにしたハロルド・メイバーン・トリオになるが、ケリ
ィ・トリオとの共演で確認がとれているのは6月25日、8月13日、9月17日、9月24日、11月5日、11月
12日、11月19日、これ以外あるかもしれないし、中継されていないライヴ録音がないとも限らない。
このライヴ中継された中から6月25日のテープが、後の問題作とされた《ウィロウ・ウィープ・フォー・
ミー》に使われヴァーヴ倒産前のヒット作になった経緯も当ファンクラブが既に解明済みとして周知のと
おりである。
ウェスとケリィの黄金ユニットは66年に入っても衰えることなく確認てきる記録だけでいうと、ニュース
速報 No.85(2007.2.25号)でも紹介したとおり2月デトロイトのベイカーズ・キーボードに出演途中、地元
のローカルTV局、WJBK-TVに出演するが、ウェスとケリィ・トリオは別々に地元のミュージシャンと交流し
ており、ウェスの〈枯れ葉〉と〈ミスティ〉の音源のみ残されているが未発表となっている。
そして、3月にかけてボストンのレニーズ・オン・ザ・ターンパイク、4月から5月にかけてサンフランシ
スコのジャズ・ワークショップ、ロスのシェリーズ・マン・ホール、6月フィラデルフィアのショー・ボー
ト、最後となる7月には再びレニーズ・オン・ザ・ターンパイクに出演しているが、この間の5月にはカリ
フォルニア大学の芸術祭にも参加したことが分かっている。
レアな事実として今は亡き世界的に有名なエア・チェック・コレクターとして知られていたボリス・ローズ
の膨大な音源リストのみが手元にあるが、4月にCBS-TVのショー番組ダイアル・エム・フォー・ミュージッ
クに出演していたこともわかっている。
当然、音源は存在するこから今後のレゾナンス・レコードに期待したいと思う。
さて、ここから今回レゾナンス・レコードが発掘第五弾としてリリースした、シアトルでの66年4月、ペン
トハウスからのライヴ録音である。
察するにウェス・アンド・ケリィの黄金ユニットは7月でもって解散されたことになるが、このシアトルへ
もツアーをしていたという記録がダウンビート誌にも記載されていなかったことで、まったく予期せぬ驚き
のリリースとなった。
Wynton Kelly Torio/Wes Montgomery Smokin' In Seattle
Live At The Penthouse, Seattle; April 14, 1966
*only Wes Montgomery(g) Wynton Kelly(p) Ron McClure(b) Jimmy Cobb(ds)
01. There Is No Greater Love (7:56)
02. Not a Tear (6:29)
03. Jingles* (4:31)
04. What's New * (4:51)
05. Blues in F Naptown Blues * (2:44)
Live At The Penthouse, Seattle; April 21, 1966
*only Wes Montgomery(g) Wynton Kelly(p) Ron McClure(b) Jimmy Cobb(ds)
06. Sir John (8:10)
07. If You Could See Me Now (5:54)
08. West Coast Blues * (3:56)
09. O Morro Nao Tem Vez O Amor em Paz (aka:Once I Loved) * (6:15)
10. Oleo * (2:08)
"ジャズ・フロム・ザ・ペントハウス" という30分のライヴ放送で2回分が収録されている。
MCはジム・ウィルクでどのように司会進行させているのかエア・チェックされた元テープがないので詳細は
分からないが、構成は65年のハーフ・ノートからの "ポートレイト・イン・ジャズ" のライブ放送と同じで
ある。
〈 Blues in F〉はリリースに至るまで誰も気づかなかったのであろうか、ヴァーヴの《ゴーイン・アウト・
オブ・マイ・ヘッド》にも挿入されたウェス自作の〈ナップタウン・ブルース〉であり、カルロス・ジョビン
の〈O Morro Nao Tem Vez〉は同アルバムでは〈オー・モロ〉として、正しくは〈 O Amor em Paz〉また一般
的な英題は〈ワンス・アイ・ラヴドゥ〉と題され聴ける曲である。
まさに《ゴーイン・アウト・オブ・マイ・ヘッド》を意識しての選曲といえる。
まずこの音源の提供者、ジム・ウィルクについて「1961年に、私は確立されたジャズ・シーンで地元アーネ
スティン・アンダーソン、レイ・チャールズ、クウィンシー・ジョーンズなどが育ったシアトルに移住してい
ました。
既にデイヴズ・ヒフィス・アヴェニューとピートズ・プープ・デックは定期的にライヴ・ジャズを開催してい
ましたが、チャーリー・ブッツォが、シアトル世界博 "センチュリー21" に合わせ62年にペントハウスをオー
プンさせ、世界的に有名な地域のジャズ・クラブへと飛躍させた。
ディジィ・ガレスピー、ジョン・コルトレーン、スタン・ゲッツ、モダン・ジャズ・クウォーテット、オスカ
ー・ピーターソン、ウェス・モンゴメリ、ウイントン・ケリィ、スリー・サウンズなど世界最高のジャズ・ミ
ャージシャンがこぞって出演した。
当初、私はシアトルのKING-FM放送局に勤務しており、ステーションはあらゆる分野の音楽やトーク番組を精力
的に行った。
局としてペントハウスのオーナーであるチャーリー・ブッツォとミュージシャンズ・ユニオン(AFM: アメリカ
音楽家協会)の承認を得た後、ペントハウスから "ジャズ・フロム・ザ・ペントハウス" をKING-FMから毎週木
曜日にラジオ放送した。
最初は地元の歌手アーネスティン・アンダーソンを招き、デクスター・ゴードン、アニタ・オデイ、数か月後
にはオスカー・ピーターソンなどにも出演交渉した。
今となれば放送設備は骨董品扱いとなるが、4チャンネルのチューブ・ミキサーとライン・アンプ (RCA OP-6
とOP-7)をステージ横に配置し、RCA 77-DXリボン・マイクを含む4本のマイクをステージ上にセッティングし、
スタジオの電話回線に接続した。
スタジオから携帯ラジオを通じて合図を受け21時30分から22時までライヴ放送した。イコライザーなし、リヴ
ァーブなし、圧縮なし、リハーサルなしのミキシングでした。
ペントハウスからの200回以上がこの方法で放送され、スタジオのアンペックスにもテープ録音された。」と、
説明している。
確かにリリースされたサウンドはライヴにも関わらずそこそこのバランスで録音されている。
ジム・ウィルクはモンゴメリ兄弟について「マスターサウンズ(バディとモンク)は50年代後半にシアトルに拠
点を置き、彼らは最初のアルバムをここで録音しました。
我々は兄弟について話し始めたところ、モンクはインディアナポリスにまだ弟がいるんだ、というので名前を
尋ねたところ、ウェスと言うが、彼の演奏はギターを破壊しそうなぐらい凄いんだ、と紹介した。」
少し訂正補足するが、マスターサウンズは57年1月シアトルで結成、最初の出演はブルー・ルームであったと
される。
そして9月、マスターサウンズがサンフランシスコに拠点を移し、ジャズ・ショーケースと無期限の出演契約
を結び、同月と思われるがワールド・パシフィック盤《Jazz Showcase Introducing/Word Pacific PJM-403》と
《The king and I/Word Pacific PJM-405》が最初のレコーディングとなる。
興味深いのは、このたびレゾナンス・レコードでリリースされたケリィ・トリオとウェスの録音以外に、ウィル
クは "モンゴメリ・ブラザーズとして1962年にペントハウスに出演した録音テープがまだある" という。
勿論レゾナンス・レコードのゼヴも承知しているであろうが、30分一番組だけではCDやレコードとしては短すぎ
ることで思案していると思う。
次にベーシストとして参加しているロン・マクルーアという人物について。
「私は1965年の夏、ウィントン・ケリィ、ジミー・コブ、ウェス・モンゴメリに初めて出会った。
10代の頃から彼らを聴いていたが、それまで会ったり一緒に演奏することはなかった。
彼らに会ったのは、アトランティック・シティでメイナード・ファーガソンのビッグ・バンドで演奏していた時
でした。
主演はウェス・モンゴメリとウィントン・ケリィ・トリオでしたが、メイナード・ファーガソン・ビッグ・バンド
がオープニングを任された。
そのあとメイナードのバンドの連中も大きなクラブの最前列に座りこみ、ウェス、ケリィ、ジミーの出演を待っ
ていたが、そこにポール・チェンバースは現れかった。
しばらくすると、雄ヤギのようで強面のジミー・コブが数回リム・ショットを打ち、私をにらみ付けスティック
で指さしながら『ここ来て立ちなさい!』と、言った。伺いではなく命令するような口調でした。
彼は『ポールは来てないので、君が代りに演るんだ』と、それはポールがバスに乗り遅れたからのような理由付
けでした。」
おそらくメイナード・ファーガソン・ビッグ・バンドのオープニングでジミーはマクルーアのペースを聴いてい
たというか、彼しか代役はいなかったから、その時点で勝手に決めていたのであろう、しかもマクルーアの無難
なベースランニングを見てウェスやケリィが演奏中褒めていたように感じた、と本人が述べている。
更にライナー・ノーツでは「メイナードのバンドはニューヨークに戻って1カ月後、アトランティック・シティ
と同じプログラムでヴレッジ・ゲイトにセクテットで出演、主演はウェス・モンゴメリとウィントン・ケリィ・
トリオですが、やはり第一セットにベーシストの姿が見えない。
このころポールの代わりにロン・カーターが参加していたが案の定『ファーストのセットだけ参加できますか、
カーターがレコーディングで間に会わないんだ』と、ケリィが聞いてきた。もちろん断る利用はなかった。
演奏後ケリィが『君の連絡先を教えてくれないか』というので、なにか良い兆しを期待して電話番号を教えまし
た。
翌日、カーターからお礼の電話があり『昨夜のレコーディングがまだ終わらなくて』というので二日続けてファ
ースト・セットの代役劇を果たしました。
その後、1965年の非常に暑い夏の日、部屋にエアコンもなく仕事に溢れていたいたとき電話は鳴った。ケリィ以
外の何者でもなかった。
『我々は9週間西海岸をツアーするが君は一緒に行けるか?週200ドルでどうだ?』と、高額ギャラに二つ返事で
ケリィ、ウェス、そしてとジミーと共に参加し、まさしくその最初の仕事がシアトルのペントハウスだった。
ロスのシェリー・マンズ・クラブや同じくサン・ディエゴではマルディ・グラにも出演した。」と書かれている。
この説明、大きなタイムラグを感じる。ポールの足の怪我については当サイトのニュース速報 No.85(2007.2.25
号) で掲載した通りですがポールの手術入院が65年の11月上旬でした。
この時点からケリィは代役を探していたことから、夏にマクルーアに電話したということは考えにくい事実にな
る。
シアトルのペントハウスが66年4月ですから、早くとも66年2月か3月頃の電話ではなかったのでしょうか?
もうひとつジミー・コブへのインタビュー記事では「アトランティック・シティでマクルーアを見かけ緊急の代
役を頼んだのがきっかけで、その後俺が奴を雇い入れた。」というから、ケリィではないのか、ややこしい話で
ある。
結局、マクルーアがケリィ・トリオのベーシストとして参加したのは65年夏のアトランティック・シティでの大
きなクラブ、続いてニューヨークのヴレッジ・ゲイトで2つ日間の第一セット、ここまではいわゆるトラとして
の参加で、66年4月からの9週間西海岸ツアー以後はレギュラー・メンバーといってもいいでしょう。
同年9月、オリン・キープニュースが設立したマイルストーン・レコードの《フル・ビュー/MSP9004》にケリィ
・トリオとしてレコーディングしている、この録音がケリィの隠れた佳作として掲げるファンも多いが、マクル
ーアのベース・ランニングも特筆すべきものがある。
ウェスの印象について、マクルーアは「とにかくサンタクロースのように優しくて、ケンブリッジ郊外にあるレ
ニーズ・オン・ザ・ターンパイクに出演した夜、僕は知り合った女の子を送り届ける話になって、横にいたウェ
スが愛車のキャデラック・クーペ・デビルを貸してあげるよと言ってくれた時は嬉しかったよ。
まるで豪華客船クウィーン・メリー号を操縦するようだった」、さらにこんな話も「僕が作った曲を見てもらう
とウェスの部屋に行ったら、俺が譜面を読めないこと知ってるの?、と言われたので、簡単だよ一時間もあったら
わかるさと言うと、いらない、と断られた。」
ウェスにすれば今更勉強する理由もなく、まして息子のような後輩に教わる気持ちもないのは分かり切っている
ことである。
ペントハウスは結果的に1968年、そういえばウェスが亡くなる年に閉鎖され、当時のビルは解体され現在は駐車
場となっている。
ワシントン州シアトルのパイオニア・スクエア地区、チェリー通りの一角、一番街701ケネス・ホテルの1階に
あった。
なんでもステージは低くて三方に約100席が広がり落ち着いたよい店だった、ということである。
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