ウェスはロッカーの夢を見た
[Note-10011] [Note-10010] [Note-10013] [Note-10014]
Ronnie Haig The Five Stars Jimmy Coe and the Cohorts Ronnie Haig
初めに、ロッカーを和製英語という人もいるが、1950年代にアメリカのロックンロールのグループ名
としてザ・ロッカー(The Rockers)という表現は存在したことで、あえてロッカーとしていることを
言っておく。
本サイトのニュース速報 No.36(2002.1.1号)で初めてウェスがR&Bのレコーディングに参加してい
たと掲載したが、続報もなく・・と、言いますか新発見となるネタにも乏しく手付かずになっていま
した。
しかし、この18年の間に亡くなったミュージシャンや関係者が残した情報は後継者により加除修正が
なされ適正化されつつあります。とは言ってもまだまだ諸説紛々のサイトがあるなか、見極めて説明
します。
掲載の切っ掛けは2001年1月、ドイツ人コレクターの情報に始まりロックンローラーのロニー・ヘイ
グ、ミュージシャンのジミー・コー、いずれも50年代インディアナポリスで活躍したスター・ミュー
ジシャンのサイト情報でした。
インディアナポリスにあったノート・レコードにいずれも彼ら二人(組)が主役で、ドゥーワップのザ
・ファイヴ・スターズとシンシナティ出身のザ・スチューデンツのグループが絡んだものとなる。そ
の中にウェスがジミー・コーの一員としてプレイしたという訳です。
ジミー・コーは2004年に亡くなったが、そのサイトはもともと本人ではなく、本人からの情報等を得
て第三者が今なお運営している。
そのジミー・コーのディスコグラフィでウェスに関係するものを簡素に表示するとこのようになる。
大きく2回のレコーディングでノート・レコードから45回転7インチ盤5枚10曲がリリースされたよ
うに書かれている。が、誤記も見受けられるので後程説明する。
左からマトリックス番号--曲名--リリースされたレコード番号となる。括弧内のレコードはいずれも
遅れてリリースされた45回転、78回転盤ですが、ハント・レコードはプロモ盤のみで終わっている。
当時、ミュージシャンは複数の会社と契約できたことから複数のレーベルが存在する。少し意味が違
うかも知れないが、いわゆる「競作」となるもノート・レコードがいち早くリリースしていた。
[Note 10013] [Note 10014] は単独リリースとなる。
【Chess Studios, Chicago IL, February 18, 1958】
J9OW-2807--Pickin' on the Wrong Chicken ---- Note 10011 (Hunt 45-318,ABC Paramount 45-9911)
J9OW-2808--Dreaming ------------------------ Note 10011 (Hunt 45-318,ABC Paramount 45-9911)
J9OW-2809--Don't You Hear Me Calling, Baby - Note 10010 (ABC Paramount 45-9912, 78-9912)
J9OW-2810--Traveler of Love----------------- Note 10010 (ABC Paramount 45-9912, 78-9912)
【Chess Studios, Chicago IL, May 11, 1958】
J9OW-4996--I'm So Young--------------------- Note 10012 (Checker 902,Argo 5386,Cadet 5386)
J9OW-4997--Every Day of the Wee ------------ Note 10012
J9OW-4998--Wazoo --------------------------- Note 10013
J9OW-4999--Shuffle Stroll--------------------Note 10013
J9OW-5000--Rockin' with Rhythm & Blues ----- Note 10014
J9OW-5001--Money Is a Thing of the Past ---- Note 10014
ジミー・コーは1921年3月20日、ケンタッキー州トンプキンスヴィルで生まれたが、2歳のとき家族は
インディアナポリスに引っ越した。
幼少のころからピアノを習い始め 14〜15歳になるとパーティでピアノを披露できるほど上達したが第
二次世界大戦(1943-1945)に従軍していた期間を除いて、そのキャリアの殆どをインディアナポリスで
過ごしてきた。当時のナップタウンはレコーディングできる環境下ではなく1960年代以前にコーが録音
することができた全ては他の地域であり、そのひとつがイリノイ州シカゴであった。
16歳の時、彼はクリスパス・アタックス高校でクラリネットを始め、現役でプロとして出演したナイト
・クラブのピアノがエロール・グランディで言わば師匠の存在だったという。
コーは半年後にサックスに持ち替えたころに作曲や編曲にも興味を持ち、やはり独学の彼もコード分析
から学び38年に高校を卒業した。
その後の3年間はコットン・クラブのハウス・バンドとして働き、20歳の時にジェイ・マクシャン(Jay
McShann)バンドのツアーにバリトン・サックスとして参加しており、同じバンドのチャーリー・パー
カーの代演でアルト・サックスも演奏した経歴がある。
45年中頃にニューヨークで除隊となりインディアナポリスに帰りリッツを初め地元のクラブに出演する
なか、ウェスに出会ったという。
[Note 10010] [Note 10011] のセッション:
1958年の初め頃、ジミー・コーはインディアナポリスを拠点とするノート・レコードと契約を結んだ。
ノート・レコードは1954年に設立されオーナーのジェリーとメル・ハーマン兄弟によって運営されてい
たが59年までの間にコーはそれらの録音にミュージシャンとして、またプロデューサー的に(経営陣で
はない)編曲や指揮にも携わり、その最初の録音がインディアナポリス生まれの白人ギタリストでもあ
りヴォーカルのロッカー、ロニー・ヘイグとドゥー・ワップコーラス・グループのファイヴ・スターズ
だった。
ロニーは「ジミー・コーは今まで注目されることがなかっが私か知っているミュージシャンの中でも本
当に素晴らしくて、シカゴのチェス・スタジオで初めて会って以来ノート・レコードで5-6回のセッシ
ョンを行ったと思う。その全てがシカゴのチェス・スタジオで行われたがジャズ・ミュージシャンであ
る彼らのロックンロールへの適応が見事だったよ。みんな50ドルのギャラをもらってね。
ファイヴ・スターズとのセッションは夜中の12時に始まり明け方の6時まで4曲を分け、彼らは〈Pic-
kin' on the wrong chicken〉と〈Dreaming〉の2曲、俺は〈Don't you hear me calling baby〉と
〈Traveler of love〉の2曲を演った。
俺はファイヴ・スターズの曲でプレイし、彼らは俺のバック・コーラスとして共演した。
でも"Don't you hear me calling baby"は18回もカットした。うんざりしたが、でも楽しかったよ。
ミュージシャンは、サックスがジミー・コーとアロンゾ・ジョンソン、スタンドアップ・ベースはウィ
ル・スコット、ドラムスはアール・ウォーカー(ライオネル・ハンプトンのバンドの)、そしてグランド
・ピアノはヘンリー・カインだったと思う。
ギターはウェス・モンゴメリと俺が担当し、リードは俺が演った」と語っている。(2002年8月1日、ジ
ミー・コーのサイト運営のひとりArmin Buttnerがヘイグからもらったメールより)
『1959年の出演広告には当然ながらウェスの名前は見当たらない』
当時ファイヴ・スターズの名前は人気があり、例えばロサンゼルス、ニューヨーク、デトロイト、ダラ
スなどにも同名のクループが存在した。
このセッションでのグループはインディアナポリス出身の若者で結成され、既に何枚かのレコードをリ
リースしておりリーダーのロン・ラッセルにジム・ブルーン(ts) ラリー・ハフマン(ts) ビル・キャン
ベル(bsax) そしてブルース・ミラー(b)といった構成で楽器も使いこなしたが、これといったヒット曲
には恵まれなかった。ノートでのレコードも地元や周辺地域のラジオでは人気になったが全国チャート
には登場しなかった。
このメールでレコーディング・セッションは「シカゴのチェス・スタジオで行われた」とヘイグは言う
が実は有名なロッカー、チャック・ベリーに特化したサイトの中に "Jack Wiener and the Sheldon
Recording Studios" と言って、当然チャック・ベリーもレコーディングしたスタジオなので書かれて
あるが「1958年2月18日からノート・レコードのためにカットされたシェルドン・スタジオでのセッシ
ョンを覚えている」というタイトルで、スタジオへの高評をヘイグ自身が語っていた。
つまり、チェスのスタジオとされていたが、サウンドエンジニア、建築家など多岐にわたる肩書をもつ
ジャック・シェルドン・ウィナー(Jack Sheldon Wiener)のレコーディング・スタジオと分かった。
ジャック・シェルドンと言ってもあのジャズ・トランペッターではないが、シカゴの南ミシガン大通り
2120番地にあり玄関にはチェス・プロダクション株式会社なる看板が掲げられていたがミュージシャン
の通用口にはシェルドン・レコーディング・スタジオと目立つことなく掲げられていた。
1956年ビル自体はチェスが購入したが、スタジオの設計施工から運営管理はすべてジャックが行いチェ
スは共同所有者ということで資金援助をしたということだった。

チェス/チェッカー/アーゴのミュージシャンだけでなく他のレーベル
からも依頼があり、59年のチェスでかのチャック・ベリーの〈スウィ
ート・リトル・シックスティーン〉と〈ジョニー・B・グッド〉の
カットとマスターもこのスタジオが使われた。1962年には新スタジオ
を同市内に建設し、シェルドン・レコードとして独立レーベルを立ち
上げた。
私個人的に2011年の秋、ロニー・ヘイグの友人でもあり、ロック専門
のレコード・ショップの店主でもありロニーのサイト運営者でもある
ステファン・ジェイを介し、ヘイグが所有していた [Note 10013]
を譲っていただいたが、そのレコード・スリーブにロニーのサインと手書きによる録音メモに "Sheld-
on Recording Studios" と書かれていた謎が、いま解けた。
[Note 10013] [Note 10014] のセッション:
[Note 10012 The Students] については私がステファン・ジェイに質問したことをロニー・ヘイグに直
接尋ねていただいた結果の報告で「ウェスは1958年2月のスタジオ・セッションに参加はしていたが、
結局スチューデンツ(Note-0012)の2曲のレコーディングには入らなかったよ」と言っていました。
余談ですがロニーは「私は〈I'm So Young〉のイントロをギブソン "ES-295" を使ってプレイしそのプ
ロデュースとプロモーションにも係わり、ピッツバーグ、ペンシルヴァニアにある "WLSWラジオ" でナ
ッシュビル、テネシーで有名なDJ "John R" にこのレコードの紹介をお願いした。」という本人の証
言もある。
ロニーのことはともかくとして、ウェスがレコーディングしなかったということでディスコグラフィよ
り加除修正するとこになった。
細かく言うと、(ABC Paramount 45-9911)の45回転盤はリリースされなくて78回転盤のみのリリースと
なる。シンシナティにあるHuntレーベルの45回転盤はファイヴ・スターズが契約したレコード会社で、
彼らが出演契約料のことでトラブルになったことから、正規リリースされずプロモ盤の配布のみで終わ
っていた。
【Sheldon Recording Studios, Chicago IL, February 18, 1958】
J9OW-2807--Pickin' on the Wrong Chicken ---- Note 10011 (Hunt 45-318,ABC Paramount 78-9911)
J9OW-2808--Dreaming ------------------------ Note 10011 (Hunt 45-318,ABC Paramount 78-9911)
J9OW-2809--Don't You Hear Me Calling, Baby - Note 10010 (ABC Paramount 45-9912, 78-9912)
J9OW-2810--Traveler of Love----------------- Note 10010 (ABC Paramount 45-9912, 78-9912)
【Sheldon Recording Studios, Chicago IL, May 11, 1958】
J9OW-4998--Wazoo --------------------------- Note 10013
J9OW-4999--Shuffle Stroll--------------------Note 10013
J9OW-5000--Rockin' with Rhythm & Blues ----- Note 10014
J9OW-5001--Money Is a Thing of the Past ---- Note 10014
2回目のレコーディングでジミー・コーはこのセッションのためにジミー・コー・アンド・ザ・コホー
ツ(Jimmy Coe and the Cohortsは[Note 10013]のセンター・ラベルに記されている)というバンドを結
成した。
リーダーのジミーはテナーを置いてバリトン・サックスを吹き、アロンゾ・ジョンソン(ts)、ヘンリー
・カイン(p)、ウェス・モンゴメリ(g)、ウィル・スコット(b)、アール・ウォーカー(dr)というメ6人
構成に、ロック・ギタリストのロニー・ヘイグが加わりインディアナポリスを出発した。一方、シンシ
ナティのアボンデール地区に住んでいたスチューデンツはリハーサルのためジミーに呼ばれインディア
ナポリスに何度か足を運んでおり、レコーディングの準備が整ったということでシカゴのシェルドン・
レコーディング・スタジオに向け5月9日(金)に出発した。
(1回目のレコーディングもジミー・コーのメンバーは同じ6人構成だったが、ザ・コホーツとはどこ
にも書かれていない)
マーヴ・ゴールドベルク(Marv Goldberg) は自身のサイトで「シカゴに合流した彼らは明くる土曜日
は一日中スタジオにいて、5月11日(日)は半日かけて〈Every Day Of The Week〉と〈I'm So Young〉
[Note 10012]をレコーディングした。
だけどリード・ギタリストはロニー・ヘイグではなく、スチューデンツのツアーごとに参加していたラ
ルフ・バード(Ralph Byrd)のプレイに注目してほしい」というが、ロニーは「自分がプレイした」と答
えてくれたし、[Note 10012]のレコード・スリーブにも "スチューデンツのリード・ギターとして演
った" と自筆のメモ書きが残されている。
スチューデンツの構成はリーダーのリロイ・キングにドーシー・ポーター(ts) ロイ・フォード(ts)
ジョン・ボルデン(bsax) リチャード・ジョンソン(b)の5人で楽器もこなせるが、ライヴなどではギタ
ーとヴォーカルのラルフ・バードもこの時期参加していたのは事実のようだ。
いずれにしても「ウェスはこのレコーディングには参加していなかった」とロニーの証言があるので関
係のない話である。
ゴールドベルクはスチューデンツのメンバーのドーシー・ポーターが語ったことについて「我々は
"Every Day Of The Week"を完璧に仕上げるのに17回も録音を繰り返した。
そのあとジミー・コー・アンド・ザ・コホーツの〈Wazoo〉[Note 10013]のレコーディングをバック
アップしました。と言っても曲の合間に〈ワッ・ズー!!!〉と叫ぶことだけだった。
そういえば、テキーラという曲でも同じような叫び声が入るが全く同じ感じた」と説明している。
ロニー・ヘイグは「ジミーと私はジミーのインストゥルメンタル[Note 10013]を一緒に作ったんだ。
ノートのジェリー・ハーマンは作曲を自分のものにしたが、本当はジミーと俺がスタジオに入ってから
その場で書いたんだ。
〈Wazoo〉 には叫び声が入っているが、ステューデンツだよ」と説明し「最後の2曲 [Note 10014] は俺
のヴォーカルとジミーのバンドで録音した。」そして「ここへ来る前、1回目のレコーディング(2月18
日)がニューヨークのABCパラマウント・レコードに認められた(既に地元ラジオ放送で人気を得た)ことで
契約にいたり、全国に流通したんだ」と言う。
ウェスはこのように、ドゥー・ワップの黄金期である1951年から
63年のブームに乗って、まぁ恐らくアルバイト的な感覚だったと
は思うが参加した経歴がほかにも確認できる。
1955年4月から9月にかけて、モンゴメリ・ジョンソン・クウィン
テットとカウンツ(The Counts)はターフ・バーで何度か共演して
いる。
カウンツは1953年にインディアナポリスのクリスパス・アタック
ス高校の少年合唱団の学生たちで結成された。リーダーのチェス
ター・ブラウン(ts) ロバート・ペニック(ts) ロバート・ウェズ
リー(ts) ロバート・ヤング(bsax) ジェームス・リー(b)が初期
のメンバーとなる。
同じく53年にインディアナポリスのアーセナル工業高校在学中に
結成されたモノグラム(The Monograms)という5人編成のバンド
に参加したり、シカゴのドジー・ボーイスがインディアナポリス
のクラブに出演した時、メンバーの一人の家族に不幸があり急遽
帰ったあと代演として2週間出演したなどの話も聞くが、それ以
前の1944年9月、地元R&Bバンドのフォア・キングス・アンド
・ジャック(The Four Kings and A Jack)がインディアナポリス
の南にある軍事基地キャンプ・アタベリーの第一劇場でエロル・グランディ(p)らと出演した。
フォア・キングス・アンド・ジャックのメンバーは、カール・メイ
ナード、ジャック・ブリッジ、エマーソン・セノラ、ウィリアム・
コックスに、ウェスも参加したとある。(インディアナポリス・レ
コーダー44年9月号)
同年11月、フォア・キングス・アンド・ジャックはインディアナ大通
(Indiana Avenue)536-1/2番地にあるラムブギー・クラブ(カフェとも
ある)に出演した。そのショーの広告写真の右端にウェスの姿が見られ
る。
ブルーズ・シンガーのソニー・パーカーのバックとして1949-50年のハンプトン楽団でのデッカ盤やマイ
ナー・レーベルのスパイアー盤でレコーディングを残しているが、ひとつ違えれば、ローカーの道に進
んだ可能性はあり得た。
以下、仮想のインタヴューです。
質 問 : ロックン・ロールに進路を変える気持ちはあったのですか。
ウェス: 歌やダンスが入って楽しいじゃないか。
ハンプトン楽団を退団してから暫くは音楽に関係のない仕事に就いていたが、ラジオからは毎日
ロックン・ロールが流れ、クラブはどこも連日満員だよ。
質 問 : ジャズとは違いますか。
ウェス: そりゃ、若者はみんなロックン・ロールに憑りつかれたように劇場やライヴ・ハウスに通うんだ。
質 問 : でも、結局ジャズへの進路は変えなかった。
ウェス: 僕には歌とダンスは不向きだからね。(笑い)
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