二つのギター パート2
パート1に続いて二つ目のチャーリー・クリスチャンモデルのギブソンES-150を購入した、という話
の前にウェスが初めて6弦ギターとアンプを手にした経緯について整理してみる。
エイドリアン著で「ウェスは6弦ギターとアンプを350ドル(後年のインタビューでバディは300ドル
と説明)で買い、8か月間ほど練習し20歳を迎えるころには440クラブに出演した」という記載を考え
ると、シリーンと結婚(1943年2月21日結婚)する前の1942年中頃に楽器を買ったことになる。
もうひとつの話は、1961年ラルフ・グリーソンのインタヴュー(ダウンビート誌7月20日号)記事では
「僕は結婚して2〜3か月後に6弦ギターとアンプを買った」、と答えている。つまり1943年5月か6
月頃に買ったことになり、それから6〜8か月間クリスチャンのコピーを覚え440クラブに出演したこ
とを逆算すると20歳の誕生日はとっくに過ぎていたことになる。
しかし、しかしこの440クラブはインディアナ大通440番地に44年6月、ルビー・シェルトンとパルマ
ー・リチャードソンがオープンしたという記事(インディアナポリス・レコーダー1944年6月17日号)
があった。
ウェスの440クラブ出演神話が崩れることになる。それで1961年のグ
リーソンのインタヴュー記事を正確に言い換えると「僕は1943年19歳
の時結婚し、2〜3か月後に6弦ギターとアンプを買った。
練習の6〜8か月後にはクリスチャンのソロを全部覚えクラブに出演し
たんだ。その演奏が気に入っでくれたことがきっかけで440クラブに
誘われ出演した」、となる。
440クラブの出演については、いきなり出演できたわけではなく、初
めて出演したクラブでもないし、20歳の誕生日を迎えた頃でもなく、
何軒かのアルバイト出演ののち440クラブと初めて出演契約を結んだ
ということになる。
新聞記事ではオープンした1ヶ月後、シェルトンはインディアナポリ
ス・レコーダー紙に『才能のあるプレイアーを募集(TALENT WANTED)』
と広告を掲載した事から、ウェスはおそらく44年7月以降、夏ごろか
ら440クラブで演奏したと思われる。結婚してから約1年半後の出演と
なる。
ここから買ったとされる6弦ギターを考証となる条件:(a)買った時代のモデル (b)買った金額 (c)証
拠写真とするに照らすが、伝説ではウェスがチャーリー・クリスチャンに憧れて買ったギターは、ク
リスチャンも使っていたギブソンES-150に結びつけられているが、それも含め候補に挙がった3モデ
ルのギター説明から始める。
★Gibson ES-150(Spanish-style electric guitar):
ギブソン独自の販売は1936-39年、ミシガン州カラマズーのギブソン工場から出荷された。
ES-150は16インチのL-50ノン・カッタウェイ・アコースティックを基盤に派手な装飾を施さず、特徴
ある六角形のデザインを持つシングルバーのピックアップ(通称 CC pickup)をマウントし、チャーリー
・クリスチャンが使用し人気を得たことで、この39年以来チャーリー・クリスチャン・モデルと呼ばれ
た。ただ、1939か40年の後半から43年にかけ一部改良されP-90の前身であるアルニコ・マグネットで調
整可能な6本のポールピースを持つP-13ピックアップに変更された。
よりシャープなサウンドを得るためにブリッジ付近にマウントされ、Fホールを拡大した改良モデルで
ある。
第二次世界大戦で製造を中断したあと、1946-56年まで新型モデルを販売した。
この時ピックアップはP-13からP-90に、ボディは16インチから17インチにそして素材や装飾なども豪華
に変更された。
1936年のカタログで、ES-150の定価はギター単体で77.5ドル、EH-150のアンプは70ドルですが、ギター
ケースなど含めセット価格150ドルで販売された。
1940年のカタログで、改良モデルはギター単体で85.5ドル、EH-150のアンプは75ドル、EH-185のアンプ
は87.5ドルてす。
セット価格はアンプの選択で変わるが175ドル、または185ドルで販売された。ちなみにアコースティッ
クながらSuper-400は400ドル、L-5で275ドル、L-7で125ドルという価格でした。
 
ES-150 1938(L) 1941(R) 1940 Catalog ES-150/EH-150 amplifier 1942 Catalog ES-150(L) ES-100(R)
★Gibson ES-250(Spanish-style electric guitar):
ギブソンのES-250は、1939-40年(1938年の製造説もある)にES-150の上位モデルとして販売された。
チャーリー・クリスチャンもいち早くこのモデルに持ち替えている。
基本的にはL-7を基盤とし、ボディは17インチで初年は19フレットでオープンブック型のフレットでし
たが39年からは20フレットで植木鉢型のフレットなど細かくモデルチェンジを加えるが短命で、1940年
にES-300の販売とともに製造中止となった。
1939年のカタログで、ES-250の定価はギター単体で150ドルで、EH-185のアンプは87.5ドルですが、ギ
ターケースなど含めたセット価格は250ドルで販売された。
 
ES-250 1939 ES-250/EH-185 Amp/Case 1939 Catalog ES-250(L) ES-150(R)
★Gibson ES-300(Spanish-style electric guitar):
1940年のギブソンのエレクトリック・ギターの進化の一つはES-300の登場である。
販売からの数年間、ES-300はギブソンの輝かしいラインナップの中で最も素晴らしいエレクトリック・
アーチトップでした。
初年のモデルはクリスチャン・ピックアップの改良としてアルニコ社製のブリッジからフィンガーボー
ドまで伸びている長い傾斜のピックアップを特徴としたが、演奏を妨げるほどの大きさで弾き辛いとの
不評から数か月で製造中止とし、すぐさまブリッジ近くに小さな傾斜のピックアップに改良された。
改良モデルは一気に製造量があがったとたん、1942年第二次世界大戦で製造の中断を余儀なくされた。
話では、戦時中にも工場から出荷された音響機器はごくわずかあったと言われているが、再販の1946年
にES-300のピックアップはP-90に置き換えられ、装飾より形を整えるために圧縮された積層木材メイプ
ル(楓)トップを使うことで工期縮小を図りその外観が高く評価された。
戦後初期のモデルのテールピースは、Fホールカットアウトの付いた高級な平板であった。
戦後、金属がまだ不足していたため、これらはギブソンが業者から購入したものと思われる。
1948年には2ピックアップの改良モデルも見られるが販売は低迷をたどった。
1949年には3ピックアップのES-5が新モデルのアーチトップで王者になり、ES-300は1952年に製造中止
になった。
1940年のカタログで、ES-300の定価はギター単体で160ドルで、EH-275のアンプは125ドルですが、ギタ
ーケースなど含めたセット価格は300ドルだった。
 
ES-300 1940(L) ES-300 1942(R) 1940 Catalog ES-300 1942 Catalog ES-300
これら3モデルのギターを表に取りまとめた。
購入モデル | 販売期間 | セット価格 | 証拠写真 | ピックアップ |
Gibson ES-150 (1st Ver.) | 1936-40 | $150 | 無し | CC pickup |
Gibson ES-150 (2nd Ver.) | 1940-43 | $175 or $185 | 無し | P-13 |
Gibson ES-250 | 1938-40 | $250 | 無し | CC pickup |
Gibson ES-300 (1st Ver.) | 1940 | $300 | 無し | 長い傾斜型 |
Gibson ES-300 (2nd Ver.) | 1940-42 | $300 | 無し | 小さい傾斜型 |
Gibson ES-300 (3rd Ver.) | 1946-48 | $300 | 有り | P-90 |
1943年に買った年代と金額(350ドル)に照らすと、ES-150はアンプとセットで150ドル、また改良モデルで
も175ドルか185ドルだから先ず対象から外れる。
ES-250はES-150の上位モデルでアンプとセットで250ドル。伝説に近いが43年には新モデルのES-300が販売
されているのに旧モデルは買わないだろうし、金額もあわない。
ES-300は1942年モデルのセット価格で300ドル(バディの言う金額なら合う)というのが最有力となる。
このES-300ならウェスが1948-49年ハンプトン楽団で演奏する映像や写真が残されている。
ただ、その画像を見る限りES-300は1946年モデルである。1942年モデルとの違いは写真のとおり、ピック
アップはP-90でテールピースの形も違う。
もしかして、戦後パーツ販売が可能になったことからウェスが取り付け替えを自分でおこなったことも考
えられる程度の工作でもあるが・・。
 
ES-300 1946 1946 Catalog ES-300 1949年ハンプトン楽団で46年モデルのES-300
別の見方として、ウェスがギターとアンプをセットでなく個別に買ったとした場合、ギターは上記3器種
としてアンプだけに絞ると、当時一番早くアンプの開発に力を入れていたレオ・フェンダーは1947年から
独自経営に入り、ギブソンのBRやGAシリーズ更に50年代になってスタンデルなど、広く流通するのはすべ
て戦後以降のことから、ウェスが1943年にアンプだけ別に買ったとする根拠には該当しない。
ギターとアンプがセット販売されているのに個別に買うこともないだろう。
結果的に断定できる証拠は少ないが、現在に至るまでウェスがES-150かES-250を持っていたという写真か
または有力な人物の実話がないかぎり、買った年代と金額から推定するならば最有力に挙げられるのは、
ES-300の1942年モデルとなる。
★==2022年12月追記==
ここに2014年、David Leander Williams (著)によるタイトル【Indianapolis Jazz:
The Masters,Legends and Legacy of Indiana Avenue】なる、いわゆるインディアナ
・アヴェニューで活躍したミュージシャンを採り上げた本がThe History Pressより
出版されている。
勿論ウェスのことも書かれているが、この中に興味深いことが記載されていた。
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初めて聞く名前ですがジョン・ブランチャード(Johnny Blanchard)というギタリストの回想話です。
第二次世界大戦中、ジョン・ブランチャードはアメリカ陸軍に従軍し、エンターテイナーとして特殊任務に
ついた。
そこで彼は、ミシガン州ポンティアック出身のトランペット奏者で指揮者兼作曲家でもある、従兄弟のサド
・ジョーンズに会い、共に全米各地の軍施設の慰問の旅に出た。
戦後はインディアナポリスに戻り、インディアナ・アベニューの "P&Pクラブ" などで演奏活動を続けた。
ブランチャードはあるクラブでの出来事をユーモラスに回想している。
「若者がES-125のギターを持ってクラブに入ってきたが、見るとペグのひとつが欠けており、弦を締め付け
るためのペンチも持っていた。
彼はギターを階段に置くと、私が最初のセットを終えるのを注意深く見守っていた。」
幕間に若者はブランチャードに近づき、自己紹介をしてこう告白した。
「あなたが2オクターヴ演奏するのをずっと聴いていましたが、どうやってプレイするのかわかりません。
やり方を教えてもらえませんか?」、ブランチャードは快く若きのウェス・モンゴメリに応じコードも教え
た。
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というものですが、ブランチャードの話が45年とするなら、ウェスは確かに22歳の若者であり、買ったとさ
れるギターが新品であれ中古であれ42年製(43年は戦争で生産中止)までの "ES-125" という話は理に適って
いる。
ただ、この機種の1ピックアップはリア付けで46年に再生産されてから、P-90のフロント付けになったとい
う事実からリア付けのギターをウェスが買う? という疑問は残るものの、結婚したてのウェスが300ドルの
大金で買える訳もなく、まして初めての6弦ギターのピックアップかフロントであれリアであれ、それを選
択できるほどの余裕はなかったと思う。6弦の中古ギターが妥当とみなされるほど、極めて有力な情報であ
ることに疑いはない。
また、同じ後継の機種で59年に見られるデイヴィット・ベイカーとの2ショットでは57年製の少数生産だっ
た "ES-125D(P-90の2ピックアップ)" となると、かなり時期がずれてくることから対象外となる。
つまりは、ウェスが最初に買ったとされるギターと300ドルで買ったとするギターは別のものとして考えられ
るへき話が一緒にされてきたことに迷わされていたことになる。
ブランチャードについて補足すると、インディアナ・アヴェニューでのブランチャードの全盛期には、オル
ガン奏者の "ブラザー" ことジャック・マクダフと共にジョージズ・バーで演奏し、その後アヴェニューを
離れ、オハイオ・ストリートのナイトクラブ、ブラス・レイルではバッキング・リスク・ブルースの歌手、
オフィリア・ホイと共演した。
ニューヨークでは、カーネギ・ホールでカントリー・ギタリスト/バンジョイストのロイ・クラークと共演
した。ジョン・ブランチャードは2010年9月28日に死去した。
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