ニュース速報 No.136(2021.5.5号)


レゾナンス・レコードの海賊盤定義

Wes Montgomery In Paris Solitude/Wes Montgomery Resonance HCD-2032 東宝芸音が世界に先駆けての発掘 今頃なんで・・と言うことになるが、2017年レゾナンス・レコードは65年のウェスの欧州ツアーから、 パリのシャンゼリゼ劇場での公演を収めた《Wes Montgomery In Paris》をリリースした。 当時サイトで紹介しなかったのは、73年に東宝芸音から《Solitude/Wes Montgomery》としてリリース されており、ディスコグラフィ的に目新しいことではなかったからでした。 だが、アルバムのライナー・ノーツでレゾナンス・レコードの副社長ゼヴ・フェルドマンは「遺族の 全面協力を得て初の公式リリースに至った」と前置きし、「このプロジェクトは音楽的に大変重要な ことであり、今まで論議されなかった知的財産の問題を提起するアルバムでもある。」ということで 掲載することにしました。 過去このパリ録音をLPでリリースしてきたのは日本(東宝芸音、キング)を始め、ドイツ(BYG)、フラン ス(FRANCES CONCERT)、イギリス(Affinty)、ポルトガル(Yes To JAZZ)、スペイン(AUVI)、そして CDでのリリースは、日本(JIMCO, Stardust)、フランス(FRANCES CONCERT)、イギリス(Affinty, Le Jazz, CHARLY, Recall)、ベルギー(A JAZZ HOUR)、スペイン(Definitive)等々、私のコレクション だけでもこれだけの数量がある。 ゼヴはこれらすべてのリリースは「海賊盤」と称するのである。確かにそれらしき国のもの感じるが、 「作曲家、演奏家、もしくはその家族や遺族がその録音物に対して報酬を得ているかどうか、権利保 持者が対価として受け取っていないものは海賊盤とみなす」と、ゼヴは断言している。 確かにゼヴの定義は正論です。 話はそれるが、私は1994年に自費でプライベート録音から《Smokin' Guitar/Wes Montgomery》をリリ ースした経緯がある。 当然ながらジャスラックを通して正規の手続きは踏んでいる。「あなたの申請費用から作曲家、演奏 家には報酬が支払われますのでこれ以上の手続きは不要です」と、窓口のスタッフに説明を受けた。 ですから、73年に東宝芸音からリリースされたのも同じ扱いとして受理されていると・・今まで何の 疑念も抱くことはなかった。 改めてジャスラックに真相を確かめたく問い合わせたら「お答えできません」と・・なんでやねん・・ つい関西弁が出てしまいました。 つまりは著作権の侵害には厳粛である反面、知的財産権という感覚はなかったのであろうか。 現在、国内ではカラオケでの使用に作詞作曲家に対価が支払われていますし、ミュージシャンや歌手に もそれなりの対価がありますが、当時は知的財産権に対して概念が薄弱だったから許されるという問題 ではないと思うが、個人的に正規リリースした筈のものが「海賊盤」扱いになるとはとても複雑な心境 です。 ついでながら、レゾナンスが《Wes Montgomery In Paris》をリリースした経緯について: フランス放送協会(ORTF)が所蔵するアーカイブを管轄するフランス国立視聴覚研究所(INA)の協力を得て 渡仏してきた米国人アーティストの重要記録の発掘にレゾナンスはここ数年活動していました。 ゼヴは2010年頃、カンヌで開催された国際音楽産業見本市に出席したときイギリスの名プロデューサー、 アラン・ベイツに会うチャンスを得た。 アランは米ジャズ・レーベルのヨーロッパにおけるディストリビューションをする傍ら、1960年代には ブラック・ライオンとフリーダム・レコードを創設した人物であり、ウェスのヨーロッパ・ツアーを企 画した一人であることを彼から聞かされた。 もちろん、ウェスのマネージャを務めていたジョン・レヴィが、ウェスと契約していたヴァーヴのプロ デューサー、クリード・テイラーへ渡欧の許可と、それにもまして飛行機恐怖症のウェスの説得に動い た功績は大きいが、アランは「ヨーロッパでの移動は列車を使うことでウェスとの確約が取れた」と、 ゼヴに説明した。 ここで私見を挟むが・・「本当のことを言えば僕は3年前にはもうここ(ヨーロッパ)へ来ているはずだ った。関係者がこっちへ来るよう急き立てるものでね。『絶対来るべきだよ』と言って。 でも僕は自分を飛行機に乗せることができなかった。そりゃ、彼らの声を聞いているよ。でも彼らの説 得も弱いんだ。というのは僕は気分屋で直ぐに変わってしまうんだ。でも今年、彼らは僕を巧いタイミ ングで捕まえた。その日僕はこう言った。『いいとも、彼らには行くつもりだと伝えてくれ』そして今 ここに来ているという訳だ。連中は僕に飛行機に乗るのは1回限りだといっておいて、今じゃ毎日のよ うに乗せられているんだ。全く。」・・マックス・ジョーンズのウェスへのインタヴュー記事からです。 (メロディ・マーカー誌1965年4月号) 《Wes Montgomery In Paris》のライナー・ノーツに投稿のアラン・テルシネの記事から: シャンゼリゼ劇場で公演を知るや否や、フランス放送協会(ORTF)のラジオ・プロデューサー、アンドレ ・フランシスはすぐさまレコーダイング・チームを結成したことは彼の先見の明に負うものだ。半世紀 以上フランス国立視聴覚研究所(INA)で保管された音源がいま忠実に再生されたことは、これまでのジャ ズ・コンサートで最も輝かしい記録である。 ウェスがフランスで人気を確立させたのは、61年12月にリリースされた《Movin' Along/Wes Montgomery》 が切っ掛けですが、それ以前のリリースはなかったことを考えるといかに驚異的なスピードで人気が沸騰 したかわかるだろう。 65年の初頭《Boss Guitar/Wes Montgomery》でウェスはアカデミー・シャルル・クロによる権威ある"ACC 大賞"ジャズ部門で受賞した。 それは当日シャンゼリゼ劇場の舞台上で、アンドレから受賞を授けられたとされている。 ・・当サイトでは、「当日、パリのシャンゼリゼ劇場ではウェス・モンゴメリのリヴァーサイド・アルバ ム《ボス・ギター》に対し、1965年度グランプリ・ディスク、"ACADEMIC CHARLES CROS" なる (よく解か らないですね)賞が授けられた。」と記載したがこの事だったようです。・・ 《In Paris》のライナー・ノーツでゼヴとハロルド・メイバーンの対談記事から掻い摘んで: ヨーロッパ・ツアーをブッキングしたのはジョン・レヴィで、私とウェスはジョー・ウィリアムス(vo) との仕事がないとき、断続的に共演していた。 ・・(注: 当然64年の話となるが、この春頃に海軍のラジオ番組《ネイヴィ・スウィング》でウェスは ジョー・ウィリアムスのバックで出演していたが、もしかしてハロルドの紹介があったのか?)・・ それで、ジョン・レヴィが「今度のツアーでピアニストは誰がいい」とウェスに聞いたところ、ウェスが 私を指名したそうだ。 ジョンは私に他のメンバーはアーサー・ハーパーとジミー・ラヴレイスだと言いツアーへの参加を告知し たんだ。 ツアー先では、ウェスとは本番までほとんど顔を合わせることはなかったよ。彼は一日中部屋に閉じこも って練習していたが、たまに一緒に課題曲の練習をするときは、いつにも増して聞き耳をたて彼のプレイ を聴かなくてはならなかった。私も独学だったが譜面は読めたからね。 私はウェスが譜面を読めないということに不安を抱いていた。ウェスは仲間内でギター・キーと呼ばれて いるEマイナーでよく演っていたがどんなキーでも彼にとって問題じゃなかったけど、最大の難曲は〈ジ ングルズ〉で、やはりEマイナーだったよ。 〈ヒアーズ・ザット・レイニー・ディ〉のアレンジは、ウェスがシカゴのマッキーズ・ラウンジ演ってい るときに思いついたんだ。 突然閃くんだろうね、それがいつ聴いても変わらぬ新鮮さを保つ秘訣なんだけど、あのアレンジが大好き でね。 私が作曲した〈トゥ・ウェイン〉は大好きなウェイン・ショーターに捧げたもので、彼とは地元でロイ・ ヘインズと共に一緒に演ったが、共演したアルバムで言うとりー・モーガンの《The Gigolo/Lee Morgan》 の一枚だけなんだ。 で、このメロディはウェインが《Art Blakey and The Jazz Messengers/Impulse》のアルバムに収録した カーティス・フラー作曲の〈ア・ラ・モード〉で演ったソロがとても印象深くて、その一部を拝借して作 ったものだ。 ウェン(Wane)とは月が欠けていくという意味なんだ。 渡欧する前も同じメンバーで、ハリスバーグ、フィラデルフィア、シカゴ、あとは憶えていないが10回ほ ど演ったがインディアナポリスにはいかなかった。そうこうするうちにヨーロッパ・ツアーに向けて飛ん だ。 ・・記録では1月22日、23日にルイスヴィルでアーツ・イン・ルイスヴィル・ハウスや、前述のシカゴの クラブ・マッキーに出演しており、2月12日はニューヨークのハーフ・ノートに出演した時のエア・チェ ック盤《Special Broadcast Jam Sessions/Wes Montgomery/Beppo BE-KOG 14800》が残されている・・ ヌーヴォ ニュース・ニルヴァーナ(NUVO - News Nirvana)より: ニュース・ウェブサイトでもハロルド・メイバーンのインタヴュー記事がありました。 「モンゴメリの絶頂期をとらえた《Wes Montgomery In Paris》は、ピアノのハロルド・メイバーン、ベ ースのアーサー・ハーパー、ドラムスのジミー・ラヴレイスのクウォーテットで構成されています。 3月27日は、1963年にフランスに移住したシカゴの伝説的テナー・サックス奏者、ジョニー・グリフィン が特別出演しました。 レゾナンス・レコードはこのライヴ録音をフランス国立視聴覚研究所と協力し、オリジナル・テープから 直接ハイレゾリューション・オーディオ・トランスファー(端的にいうと音楽CDまたはDATを超える音質) を駆使しCDリリースしました。 当時のグループで唯一の存命メンバーになる、1936年にテネシー州メンフィスに生まれ、ハード・バップ 奏者として伝説的なキャリアを築いたハロルド・メイバーンに色々とお聞きしました。」 質問:1965年にパリで行われたウェス・モンゴメリとの共演は、これまで何度も海賊盤が出回っていまし    たね。50年以上の歳月を経て、ようやくモンゴメリ家の協力を得て公式にリリースされることにな りました。今回のリリースについて、どのように感じていますか? ハロルド: 遅かった気もするがとても満足している。長いあいだ報われなかったからね。 家族の承認を得て、ようやく正しい方向に進んだことはいいことだし大切なことだよ。 質問: ヨーロッパ・ツアー以前もウェスと一緒にアメリカでツアーを行っていましたね。ウェスとの出 会いは覚えていますか? ハロルド: 困った質問だね。もうずいぶん前のことだから、どうだったのか。 どうやって一緒に仕事をすることになったのか、はっきりと覚えていない。 たぶん、ウェス・モンゴメリのマネージャだったジョン・レヴィがマネージメントしているさまざまな 人たちと仕事をしていたからだと思う。 彼はウェスを始め、キャノンボール・アダレイ、アーマッド・ジャマル、ジョー・ウィリアムスなどの 多くのマネージャだった。 覚えているのは、ジョー・ウィリアムスと仕事をした後にウェスを紹介されたよ。 質問: ウェスは飛行機恐怖症だったから、アメリカ国内のギグはすべて車で移動していましたが、あな たもウェスのキャデラックに同乗していたそうですね。 ハロルド: そうだ、フィッシュテール・キャデラックという車に前2人、後ろに2人乗ってね。 ウェスが運転して、僕は助手席でアーサー・ハーパーとジミー・ラブレイスが後部座席だ。 ラブレイスの前はレイ・アップルトンというドラマーがメンバーだった。 キャデラックはとても大きかったので、ベースは車の中に入れて、ドラムや荷物はトランクに入れてい た。 ほとんど車での移動だったのでウェスが飛行機に乗るようなことはなかった。 しかし、ヒットアルバムを出した後、ヨーロッパ行きの話があり、飛行機に乗ることになった。 質問: インディアナポリスのドラマー、"キラー "レイ・アップルトンと一緒にツアーをしたこともあ るんですね。 ハロルド: そう、アメリカ国内で一緒に演ったよ。 質問: 車で一緒にツアーするうちに、ウェスの人間性がよく分かるようになったのではないでしょうか。    演奏中だったり、時には楽屋ではどんな人でしたか? ハロルド: 彼はとても陽気で、ポーカー・フェイスな悪ふざけもユーモアなセンスがあった。 長々としゃべることはないが、時々冗談でみんなを笑わせるんだ。 彼は音楽を愛し、ギターを弾くのが大好きだった。彼の音楽を聴けばわかるよ。 質問: バンド・リーダとしても人間としても、ウェスのことを寛大な人だとおっしゃっていましたね。 ハロルド: とても寛大し、自己中心的でもなく、ミスをしても叱らない。 仮に、音楽的なミスを犯したことに気づかなかったとしても、とやかく言う人ではなく ただただ微笑むだけで本当にできた人間だったよ。 質問: ウェスとのヨーロッパ・ツアーに出発したのは1965年3月でした。 ヨーロッパのジャズ・ファンは彼の演奏を何年も待ち望んでいましたから、ツアーは大盛況だっ たと思います。 ハロルド: ファンは待ち望んでいたので、どこに行っても歓迎され素晴らしいツアーになったよ。 5〜6週間滞在したと思う。 質問: ヨーロッパ・ツアーの後も、ウェスとの共演は続いたのでしょうか? ハロルド: ウェスは1968年に亡くなったが、彼が病気になるまで何度か共演した。 その時、私はバディ・モンゴメリと仕事を分担していた。仕事はたくさんあったのにバディも飛行機に 乗らなかったからね。 アメリカでは、飛行機で移動しなければならない場所があったんだ。 私がライヴをする間、バディは車で次のライヴに向かい、そして私が次のギグに飛んで、バディがその 次のギグに車で行く。バディと私はとてもいい友達だったのでうまく分担できたんだ。 質問: ウェスとは長くツアーを組んだのに、スタジオ作品を一度もリリースしていないのは不思議です ね。 ハロルド: CTIスタジオでレコーディングしたが、何故かお蔵入りのままだ。 そう、レコーディングで共演し報酬はもらったけど、リリースされなかった。 質問: ジョー・ジョーンズやジョージ・ベンソンなど、代表的なジャズギタリストと共演していますね。 1959年のグラント・グリーンのデビュー・レコーディング・セッションにも参加しています。 ハロルド: きっかけは、ジミーが「イースト・セントルイスから友人を連れてきた」と言ってグラントを連れてき たんだ。 それ以降グラントとは1〜2回会ったかもしれないが、その後一緒にプレイすることはなかった。 質問: これほど多くの驚異的で象徴的なジャズ・ギタリストと演奏した経験があるのですが、ウェスは その中でどのような位置づけにあるのでしょうか? ハロルド: 私にとって彼は今でもナンバー・ワンだし、誰よりもまず第一にあのオクターヴを思いついたこと。 あれは本当にユニークなものだ。他のギタリストがあのサウンドを使ったら報酬を得られるような著作 権がなかったのが残念だよ。 スムーズ・ジャズを聴けば、あのオクターヴを使わずに演奏するのは不可能だからね。 そのおかげで充実したサウンドになっている、だからウェスが一番なんだ。 この後もインディアナポリス出身のアーティスト、J.J.ジョンソン、フレディ・ハバード、ジェームス ・スポルディング、ヴァージル・ジョーンズとの関わりについても語るがウェスとは絡まないことで 割愛します。 それにしても、CTIスタジオでのレコーディングが気にかかります・・。