ニュース速報 No.140(2022.12.24号)


バディ・モンゴメリ インタヴュー
 Buddy Montgomery Trio>
<FONT SIZE=アルバム名 :
Here Again Buddy Montgomery Trio アルバム番号: Sharp Nine Records / CD 1008-2 リリース国 : USA リリース年月: 10/1997 メディア  : CD
当サイトのニュース速報 No.110(2012.10.1号)で「バディ・モンゴメリ語る」を掲載しましたが、これ は2000年春に出版されたJazzimprov Magazineに掲載されたインタヴュー記事で、2001年にウェスへの追 悼アルバム(《Remembering Wes Montgomery/Buddy Montgomery》)のリリース告知について語った内容の ものでした。 ところが、それ以前の1997年に同じバディのリーダー・アルバムで《Here Again》というアルバムがリ リースされており、アメリカのジャズ・ジャーナリストがライナー・ノーツの寄稿にあたりインタヴュ ーを行っていた。 「私は、シャープ・ナイン・レコードの《Here Again》というアルバムのライナー・ノーツ用に、ヴィ ブラフォン奏者でありピアニストでもある、良い意味でのいわくつきヒーロー、チャールズ・バディ・ モンゴメリ(1930-2009)に連日インタヴューを行へるという栄誉に預かった。 ライナー・ノーツを書くにあたり、私はスライド・ハンプトン、ジョージ・コールマン、マイケル・ワ イス、デヴィッド・ヘイゼルタイン、ブライアン・リンチにも電話をかけました。彼らはモンゴメリと 親しく、彼の芸術性を高く評価している人たちです。 モンゴメリ83歳の誕生日を記念して、以下にすべてのインタヴューの未編集のトランスクリプト(訳注: テープ録音そのもの)を掲載します。」 テッド・パンケン(Ted Panken) 以下、バディのインタヴューに加えスライド・ハンプトンへのインタヴューを掲載するが、他のインタ ヴューでは兄弟と関わる話がなく、バディへの評価話となることで割愛、とする。 ★-------------------------------------------------------------------------------------------- TP: レイ・アップルトン(dr)とジェフ・チェンバース(b)との関わりについて教えてください。 BM: レイは同じインディアナポリス出身で、かつて彼とメルヴィン・ラインはミルウォーキーで一緒に 仕事をしていたこともあった。   ヴァイブをよく演っていた頃の話だけど、だがピアノと両方使い分けるようになってから、ロジャー ・ハンフリー(Drums)バンドのヴァイブ・プレイアー風にトリオ演奏していたこともあった。 レイは最高のライド・シンバルを持っていると思う、とににもかくにもあのリズム感を持っている奴 はそうザラにはいないと思う。 アート・ブレイキーのような古いタイプと同じように独特な雰囲気を持っているし、長い付き合いで お互い気心も知れておりいい演奏ができた。   で、ジェフと一緒に始めたころ彼は若かった、18歳くらいだったかな、とても素晴らしいベーシスト に成長したもんだ。   音楽を作るうえで、どのベーシストやドラマーを使うかは簡単ではない、だから同じメンバーを使う のが無難だと思ってる。 TP: 自身の音楽について、トリッキーだと思うことを聞かせてください。 BM: まあ、何がトリッキーかっていうのは、自分ではわからないんだけどね。 演奏スタイルというか、作曲・編曲のことなのか、そういうことなんだろう。 でも、他のピアニストと一緒にヴァイブを演奏するときは特に覚えることが多くて気を遣うよ。 ここであの音、そこでこの音というだけではないんだ、色々あるんだよ。 それで、編曲でも通常のケースとは全く違う方向になることもあったり・・君たちが思っているほど 簡単ではないんだ。 TP: ヴァイブとピアノ、どちらを先に弾き始めたのですか。 BM: 最初に始めたのはピアノだよ。 18歳から習い始めたが、それまではウェスや地元のミュージシャンが 家に来てジャム・セッションをしているのを、ただ聴いているだけだった。 まして楽器を学ぼうとも思わなかったけど・・それから少しずつ興味を持つようになっていった。 TP: でも、明らかに幼少のころから音楽を聴いていたと思うのですが。    BM: まあ、言ってみれば生まれたときから音楽の魂が宿っていたことになるのかな。   両親はミュージシャンではないが、教会のシンガーだったから幾分か影響をうけたという意味からね。   でも、それは進みたい方向ではなかった。 TP: ヴァイブを始めたのはいつ頃でしたか。 BM: 1955年にヴァイブのセットを注文したが、手元に届いたのは翌年でね、 それから練習を始めて、やがて作曲・編曲までできるようになり、誰にでも演奏してもらえるようにな った。当時は兄のモンクが街を離れていたので、ウェスが私のライヴでギターではなくベースを弾いて   くれていた。 TP: あなたがインディアナポリスで影響を受けたと思われるピアニストは誰ですか。 BM: アール・グランディだよ。 彼はインディアナポリスにおけるジャズ音楽の父だと思っている。 これまで聴いたどのピアニストよりも優れていると思うし、あの技術と耳は誰にも負けないと思う。   確かにアート・テイタムのように速くは弾けないこともあったが、知る限りの・・トップ・ピアニス トだった。 TP: アール・グランディの他に誰かいますか。 BM: 1歳ほど年上のカール・パーキンスは友達ではあったんだけど一緒に演奏したことはなかった。 友達と言ってもそんなに長く一緒にいたわけではないが、私が音楽界に入り始めてから数年後に町を 出て行った。 TP: だけど、ジャズ百科事典を見ますと、あなたは影響力のあるひとりとしてアート・テイタムを挙げて いますね。 BM: ああ、そうだね。 テイタムも、バド・パウエルも、エロール・ガーナーも、多くの人が商業的すぎ ると思っているけれど、テイタムは単に商業的だと言うには有余る人だと思うよ。 TP: 少年の頃、インディアナポリスで家族以外の音楽を聴きに行ったことはありましたか。   あなたはスライド・ハンプトンより2歳くらい年上ですよね。 BM: そうだ。 TP: ハンプトンはインディアナポリスにはバンドがツアーの初演とするダンスホールがあると言ってまし た。 BM: そう。スカイ・クラブだ。   TP: 少年の頃のインディアナポリスの音楽シーンはどのようなものでしたか。 BM: ああ、確かに賑やかだったね。 小さな町なのに当時は優秀なミュージシャンが信じられないほど沢 山いたよ。バディ・パーカーのテナーは、世界中の誰よりも良いサウンドを持っていると思ったし、 独特なスタイルを持っていた。 ジミー・コーのアルトは、キャノンボールも気に入っていたし全米の多くのミュージシャンに愛され ていたんだ。誰もがジョンソンと呼ばれる兄弟のピアニストを知っていたが、彼らのストライド・ピ アノもアート・テイタムのようにすごい演奏だったな。 TP: 彼らの自宅で行われるパーティに行くのは面白かったでしょうね。 BM: そうだね。逆に自宅でのパーティのほうが多かったよ。 TP: モンゴメリ・ファミリーとですね。 BM: そうだ。 そこはたまり場みたいなものだった。ウェスは私より6歳半年上で、モンクはウェスより1 歳半年上だった。 TP: そうなんですか、年齢を間違えて覚えていました。 それぞれの兄弟について、一言ずつ話してくださ い。それからファミリー・バンドがどのように始まったかについて伺いたい思います。 最初はモンク、次にウェス、音楽的、個人的なことです。 BM: その前に、誰も知らないようなことに触れておきたいと思う。 私にはモンクやウェスよりも年上の兄がいて、父の名前にちなんでトーマスと言うんだけど、凄いドラ マーでモンクやウェスに音楽も教えていたことを、みんなに知ってもらいたかったんだ。 その兄に逢ったことはなかったが、モンクは家族の中で最も面白い男でリーダのようなものだった。 TP: モンクはラスベガスで組合のリーダになったと思うのですが。 BM: そう、モンクは本当に色んなことをやっていたね。 リーダ的で いわば一家の大黒柱のような存在だ った。ウェスとほぼ同じ時期に演奏を始めたが、ベースを弾きたいと言っていた。 TP: モンクがエレクトリック・ベースの革新者として始めたきっかけについて、何か覚えていることはあ りますか。 BM: それは、ライオネル・ハンプトンのバンドに入団したときのことで、ハンプトンが彼にエレキ・ベー スを弾かせたんだけど、それ以来、エレクトリック・ベース・プレイアーとなった。 TP: 個人的、音楽的なことでウェスについてお聞かせください。 BM: ウェスについて言えることは、いかに凄まじいプレイアーであったかということだけだよ。何を言って も誰もが知っていること...(?)...。 TP: ウェスの音楽活動について、何か覚えていることはありますか。 BM: 6歳半も年下だし、覚えていることといったら...さっきも言ったように、そのころ音楽に興味がなか ったから。 TP: どうしてですか? BM: 誰にに聞いてるの、こっちが聞きたいよ、知るわけがない。 音楽を真剣に取り組む気持ちはなかった ...同じ立場じゃないし...。 TP: それは、お兄さんたちが優秀だったからなのか、それとも...。 BM: いや、兄達の才能を知る由もなかったよ。君は兄達と一緒の時代に育ちいつも見聞きしていたでしょ うが、決して兄達は有名人でもなかったし多くの人は誰であるかも知らず、ほんの数人の地元の人だ けが知っていただけで、ウェス・モンゴメリはスターのウェス・モンゴメリではなかった。   そんな兄達と同じテーブルで同じ食事をしていた。 ウェスはギターの練習に没頭していたが、性格はとても活発でユーモアたっぷりだった。 ウェス・モンゴメリと言った瞬間に1000ものことが思い浮かぶと思うでしょうが、そうではなくて... 憶えていることは限られている...。 TP: ギターを使いこなすために、どれだけ苦労したかを読んだことがあります。 BM: まあ、そうだよね。 TP: それであなたが音楽に興味を持ったきっかけは何だったのですか。 BM: それはウェスだった。 仲が良かったことで何度も演奏のチェックをしてくれと言ってきたんだ。 音楽にそれほど興味を持つ以前のことだから、演奏を聴くことはできても、チェックできるほど詳し くはなかった。   だから悩むこともなかったが、でも、それから目覚めたように音楽が好きになっていった。   音楽が次第に理解できるようになって、やっとウェスのチェック話も分かるようになったが、あの時 はまだ10代だったからそういう話についていけなかった。 TP: ピアノはごく自然に弾けたのですか? BM: まあ、そうだね、楽譜は読めなかったが、自然に身についたものだよ。 TP: 楽譜が読めなかったのですか。 BM: そう、誰も読めなかった。ごく自然なことだと思うよ。 TP: それは、あなたが言う、魂の中に。 BM: そうだ。 TP: インディアナポリス周辺で3兄弟が初めて一緒に演奏したのは、どのような状況だったのですか。 それで、地方のバンドやソリストのリズム・セクションとどのように活動したのですか。 BM: 実は、練習を始めた頃、まだアール・グランディのような大物と呼ばれる人とは親しくなかったし、 一緒に演奏することもなかった。 自分では出来ると思ってはいたが、まだまだ初心者に変わりなかったから。 でも、みんなは「この人はうまい」とか「この人はすごい」とか、そういうことを軽々しく言うん だ。ピアノを巧く弾けるようになっても、大物と呼ばれるには程遠く、ウェスやモンクのようなレベ ルにも達していなかったが、でも、なんとなく「素晴らしい」と応援されていた。(笑)でもそれは...? TP: で、いつ頃から変わり始めたとお考えですか。 BM: 多分、53年後半だったかな。     TP: それで5年くらい演奏してから、何をし始めたのですか。 BM: そう、何でも演れるようになってから作曲を始めたんだよ。 TP: では、家族がいてもいなくても、ピアニストとして本格的に仕事を始めたのはいつ頃でしたか。   ここに、18歳の時にジョー・ターナーと仕事をしたというリストがあります。 BM: それは18歳の時、1回限りのツアーだったが今思っても未熟だったよ。 さっき話したアルトのジミー ・コーの時はブルーズ・シンガーのバック・バンドとして一緒に行かないかと誘われたんだ。(訳注: ジョー・ターナーのあとの話)ピアニストが突然行けなくなったので代わりに行くことになったんだが、 ツアーに出てもプロとして6か月程度の経験では正直ついていけなかった。 でも、彼の誘いに応じて参加したので、気にすることなく楽しい南へ下ってのツアー経験となった。 TP: ハンプトン・ブラザーズのバンドはどんな感じでしたか。 BM: スライド・ハンプトンには、メイシオという最高のトランペッターでありアレンジャーでもある兄が いてね、彼もアレンジを担当していたがメイシオが主にジャズのアレンジを担当していたと思う。   彼らには姉弟がいて、3、4人を除いたバンド全員が家族だったと思う。(訳注: 12人兄弟のうち3人は 若くしてなくなり、この頃は5人兄弟と4人姉妹だったと思う)   何度も彼らの家に遊びに行ったもので、もう一人ラッキー(ラッセル)というサックス・プレイアーの 兄を含めた3人は、もっとヘヴィーなジャズに傾倒していて、彼らとよく一緒に演奏していた。 TP: ジャズだけを演奏していたのですか、それとも色々なスタイルの音楽を演奏していたのですか? BM: ジミー・コーとのツアーを除いては、ほとんどジャズだけだったね。   それからは、ショーに参加するときは主演のパフォーマーに合わせて何でも演奏した。   シンガーでもダンサーでも、何でもね。   でも、自分の仕事では、やはりジャズやビ・バップが中心だけどね。 TP: 作曲や編曲は、ヴァイブを手に入れた時から始めたとおっしゃいましたか。 BM: 言ったよ。 まあ、好きでいつも編曲を考えていたし、兄達の分までやっていた。   2人とも忙しかったので、リハーサルの世話まで熟していた。   時々、ウェスも作曲はしていたが、編曲はしなかったと思う。 TP: モンクはどのような仕事をしていたのですか。 BM: 彼は出演条件や、屋外ステージの設定、演奏曲などすべての権限を持って仕事をこなしていた。 TP: 55年から57年にかけてのモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットですけど、ロイ・ジョンソンって 誰ですか。(訳注: モンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットの活動は1954-56年となる。) BM: そう聞かれると全てを話さないと分からないと思うが、ターフ・クラブでモンゴメリ・ジョンソン・ クウィンテットとして活動していたひとりだよ。   ジョンソンという名前の男が2人とモンゴメリという名前の男が3人いて、本名は忘れたがドラマー はスライドのファミリー・バンドで長年演奏していた、   ソニー・ジョンソンで、ロイはアロンゾ・プーキー・ジョンソンと言ってテナーを吹いていた。   (訳注: 質問に対してバデイは思い違いをしている。本名は、Robert "Sonny" Johnson(dr)、Alonzo "Pookie" Johnson(ts)であり、ロイはライオネル・ハンプトン楽団に在籍していた、Roy Johnson(b) であり、バディはハンプトン楽団を辞めたロイ・ジョンソン(b)のクウォーテットに54年にピアノで 参加した経緯がある) TP: マスターサウンズについてお聞かせ下さい。 インディアナポリスから西海岸に渡った経緯など。 BM: マスターサウンズは、ヴァイブに持ち替えた後に結成された。   それからは、新しいサウンドを求めて、グループのために作曲にも取り組んだ頃だった。   そこでインディアナポリス近郊のアル・プランクというピアニストを使い始めたんだけど、それまで 一度も共演はしなかったが、私がこのグループを結成したときに何度か参加してくれた。   その時ウェスはベースを受け持ったが、これがヴァイブを使ったクウォーテットの始まりで、その後 モンクも加わったがね。   バンド結成の頃、モンクはツアーに出たところだったが、その後モンクと一緒にシアトルへ引っ越し たんだ。   モンクはすでにシアトルで仕事をしていたが、彼に電話をしたらちょっとした仕事を見つけてくれて ね、ピアノにも連絡を取ってくれており・・ここからすべてが始まった。   (訳注: 56年9月から12月頃までにバディが結成したインディアナポリス・ジャズ・クウォーテット から、57年1月以降シアトルで結成されたマスターサウンズの話を手短に説明している) TP: 結果、モンゴメリの名前がインディアナポリス以外の地域で広く知られることになったと思います。 BM: まあ、どのようなレベルであれ、それをやったのはこれが初めてだった。   その3、4年前にレコーディングはしていたんだけど、アルバムからは何も起こらなかった。   (訳注: バディは除隊後の53年5月頃と思うが、ハンプトン・ファミリィ・バンドに入団し、シンシ ナティにあるコットン・クラブに出演した記録があり、その関係先でのことと思われ、R& Bのハンク・バラード・アンド・ザ・ミッドナイターズのレコーディングで〈Sexy Ways〉 一曲に恐らく借り物のヴァイブで参加した、とある) 参考CD:《Sexy Ways/The Best of Hank Ballard and the Midnighters》 https://www.youtube.com/watch?v=km6zr6znufc TP: あなたはマイルス・デイヴィスと短期間一緒に演った経緯がありますね。 お聞かせ下さい。 BM: それについて言いたいことはあまりない、なぜなら...。(訳注:この後の話はカットされている) TP: 私はその話を聞いたことがあります、それが偽善であろうとなかろうと...。 BM: 5万通りの記事があるんだけど、どれもこれも恥ずかしい話ばかりだ。   というか、それが一番の問題であったが彼らを責めることはできないよ。   話はいくらでもあるが、見方によっては...私は何とも思わないが...。 TP: 最前列にいたのはあなたとマイルスでしたが、そこにコルトレーンはいましたか? BM: コルトレーンを忘れてはだめだよ。 TP: いえ、コルトレーンが抜けた後に入ったのか、どうか分からなかったんです。 BM: キャノンボールが抜けた後だ。コルトレーンもそこにいたよ。      TP: シカゴのサザーランドに出演告知するパンフレットが、ここにありますが。 BM: え、本当に、それが最初の仕事だった。   TP: 内容は別として、楽しかったですか? BM: まあ、いい体験だったね。 トップレベルのプレイアーしかいないんだから。   メンバーとして文句のつけようはないが、気が抜けないレベルでもあった。   仲間に入ったら、おかしなことに、彼は私を他の人と同じように尊重してくれて...。   リスペクトされ、みんなからいいグルーヴ感といいフィーリングを得たんだ。   説明するのが難しいんだけどね。 (訳注: マイルス(tp) コルトレーン(sax) バディ(vib) ウィントン・ケリィ(p) ポール・チェンバ ース(b)ジミー・コブ(dr) と凄い顔ぶれである) TP: ウェスは60年代コンスタントにツアーを行ったのですか、それはウィントン・ケリー、ポール・チ ェンバース、ジミー・コブのバンドが主流だったのですか? BM: ウェスとは、1〜2回しかなかったと思う。 TP: それはレコーディングのためですよね。 BM: すべて覚えているわけではないが、ケリー等とカリフォルニアのクラブでレコーディングしたことは 憶えている。私は当時マネージメントをしていたからレコーディングの手助けができたんだ。   その時、彼らと一緒にコンサートをしたことも覚えている、それだけだ。    (訳注: バデイが言う通り、このメンバーとカリフォルニア・・と言うことは《フル・ハウス》での ライヴ・レコーディングということになる。       当時ウェスは兄弟達とサンフランシスコに滞在しており「バークレーにあるコーヒーハウス から毎月曜の夜の出演を請けた」とウェスからの報告を受けた、と言うキープニュースの回 想話もある)   それから、ウェスは1週間(訳注: 1か月以上)ほどヨーロッパ・ツアーにでかけたんだけど、ドラマ ーにジミー・ラヴレイス(ジミーはサンフランシスコで私と一緒に仕事をしていたから)、ピアノは  ハロルド・メイバーンを連れて行った。   ケリー等とではなかったが、それはツアーのためだけに違うメンバーというのはよくある話だよ。 TP: でも、兄弟はウェスが亡くなるまで多くのツアーをこなしていましたね。 BM: 確かに、 ウェスが死ぬまで一緒にやったり分かれたりを繰り返していた。   詳しくは憶えていないが、最後の2、3年は一緒だった。 TP: ピアノとヴァイブでは、演りかたが違うと思いますが自身の異なる側面が現れていると思いますか。 BM: 若いころは普通に演奏することより、作曲・編曲することの方が重要なんだと思っていた。   だけど年を重ねるごとに両立できるようになったというのも、作曲力と同等に演奏の表現力が見に付 いたからで、やりたいこと、何かを実現するために努力することは何でもそうだが、それが人生で一 番大切なことなんだよ...。 TP: 興味深い話しですね。 BM: そう、時には演奏することより編曲することの方が意味がある場合もある。 TP: そして、進化し、経験を重ねてきて、即興演奏がより集中的になっていることを実感しましたか。 BM: 曲ができて、演ってみると結構いい感じに弾けたと思えるようになってきたよ。   以前は、グループの編成に合わせて編曲することしか頭になかった。   それで出来上がると試す時間も足りなくなり、十分な時間をかけることもなかった。   だから初期のレコードは自分の演奏とは思えないほど全く別人のようなんだ。 TP: 今回のアルバム《Here Again》は、最も成功した作品、あるいはその一つに位置づけられますか。 BM: そうだね、特別とは言いませんが、まあそれに近いと思っている。   弾いたピアノは私が頼んだスタインウェイで、スタッフが用意していてくれた。   ただ、あまり使いこなされていなかったので、好みに反して少し音質が硬かった。   もう少し緩い方がうまく演れたかもしれない。だからちょっと雑になったところもあったが殆どの人 は気づかないと思うよ...。 TP: このアルバムのために作曲はしましたか、それとも以前から作曲されたものですか? BM: ああ、何曲かは以前に演ったことはあるが・・レコーディングはしていないものが殆どだ。 TP: 他にもレコーディングされていない曲はあるのですか? BM: そうだな、100曲以上あるにはあるが、未完成のものもある。   ただ、完成させるのに時間はかからない、いざとなればまとめ上げるだけだから。 -------97年9月1日対談終了------- TP: "ヒアー・アゲイン" ここにもう一度、の持つ意味はマーク(訳注:プロデューサー)によると、"トリ オの再結成" のことだと言っています。       BM: では、話を少し戻すが、元来作曲しているとき或いはその前からタイトルは考えていない。   なぜなら、初めから特定の女性とか周りの何らかをイメージして作るというわけではなく、作曲する 中でインスピレーションが膨れ上がり、それで組み立てがまとまるとタイトルも自然に得られるとい うことだ。   いつもというわけではないが、よく聞く話でタイトル付けはある曲を聴いて気に入ったとか、こんな、 あんな感じだ、とかではなく..(?).. TP: 作曲というのは、予定を立てて取り組むのですか、それとも常日頃から考えているのですか? BM: 常に音楽のことを考えているが、その時だけ打ち込んで出来るという作曲家はまずいないと思う。 絶えず考えていると思うよ。   でも、何かを聴いていて創造的だと思えるいい組み立ての音楽に出会うこともあり、それ以上のもの に熟せれば、自分にとって多かれ少なかれ幸運だったと思うことがある。 TP: 楽譜を読んだり書いたりしないと言っておられましたが、作曲は頭の中に刷り込まれていくのですか。   それとも、カセット・テープを利用されるのですか。 BM: その通りだ。作家のように巧く書き留められないが、曲をまとめるとだいたい頭に入るんだ。   だから若いころから耳はよく利いたのでみんなに細かく演奏の指示はできたが、反面伝わりにくくて ね。(笑)   《The Montgomery Brothers and Five Others/World Pacific PJ-1240》のアルバムでは兄弟と5人 の仲間が集まった。   フレディ・ハバードを初め一人ひとりに説明するんだけど、譜面が書けたらそんな苦労をすることは なかったと思うが、本当に大変だったよ。だからこそ、全て頭に入ったということなんだけどね。 TP: サド・ジョーンズもオーケストラのためにパート譜を減らし同じようなことをしていたと聞いていま す。彼の演奏も他とは違って独特なものだった...。 BM: 確かに、サドはすごかったが読み書きがてきたんだ。   しかし、どうやって書き留めたらいいのか分からなかった、誰のせいでもない自身の問題だ。   でも、耳が援けてくれた。それが心地よくてね、他の人には難しいかも知れないが。   それて皆に指示できるんだから、もちろん満足している。   もし、間違いに気づいたら、その場ですぐに変更もできたしね。 TP: それはそうと、《ヒアー・アゲイン》のアルバムについて話してください。   (訳注:《ヒアー・アゲイン》はアルバム・タイトルでもあり収録曲でもある) BM: 実は〈ヒアー・アゲイン〉は別のレコーディングのために作った曲で、最初はこの曲のことは心をよ ぎらなかった。   この曲は何年か前に作った曲だ…。テープにメモしてある曲はたくさんあるんだけど、マークにこの 曲を演ろうと話したとき、「もっとオリジナル曲を聴かせてほしい」と言うんだ。   それでテープから何曲かを選んで、これがいいとかあれがいいとか考えた。   タイトルに関して話すとしようか。ニューヨークに着いてベースのジェフ・チェンバースと落ち会っ た時彼が「"Well, we're together again" また一緒になったね。」と言ったんだ。   つまり、ここ25年の間、私たちは断続的に一緒に仕事をしていた。   そう、彼は「僕たちはまた一緒に戻ってきたんだ。」と言った。   そして「少なくとも君の曲のうちの2曲にタイトルが浮かんだんだけど、どうかな。」と言うので、 ぜひ教えてくれと言うと、「"Here Again" ここにもう一度」と言った。とまあ、そんないきさつだ った。 TP: その曲の構成について、一言お願いします。 BM: 構成と言われても技術的な言い方ができないので難しいね。   苦手なんだ。 あまり意味のないことに説明できない。      TP: 説明できるようにやってみようとは思わないのですか。 意味をなさないなら、仕方ないですが。 BM: じゃあ聞くが…君はミュージシャンなの?       TP: いえ、ミュージシャンではありません…。 BM: まあ、言っても仕方ないが、君に話すことができるのはこの曲ではないようだ。 TP: では、〈ワン・サウザンド・レインボウ〉について聞かせて下さい。 (訳注: バデイは1977年、Bean Records に残したアルバム《Ties》にも〈One Thousand Rainbows〉 を収録している) BM: 何年も前に〈ワン・サウザンド・レインボウ〉を録音したことがある。 兄のモンクがラスベガスで   やっていたビーン・レーベルでね。 モンクは自分の息子をビーンと呼んでいたが、そのレーベルで   ハロルド・ランドとカーメル・ジョーンズ(訳注:思い違いでトランペットはオスカー・ブラッシャー   です)ら6人で録音したんだ。   モンクが死んだとき、マスター・テープがどうなったか誰も知らないが、資金援助したことでたまた   まダビングされたものをを持っていた。   とにかく、それ以来演奏したことはなかったが、まあ、あの曲もなんとなく好きだった。 TP: 〈ブルーズ・フォー・デイヴィット〉の話を伺いましょう。 BM: 確か2回録音したはずだ。   ファットヘッドとクリフォード・ジョーダンとやったし、別のグループとも録音したんだ。 (訳注: バデイが1990年、Candid Records の《David "Fathead" Newman Plus Clifford Jordan/ Blue       Head》の録音に参加した時に演奏しているが、別のグループというのが・・こちらの方を忘れ      てもらっては困るが・・それ以前の1968年、オリン・キープニュースの制作でMilestone Reco- rdsに自身のリーダー・アルバムとなる《The Two-Sided Album》で〈Blues For David〉をヴァ イブ演奏で収録をしている。でもこのアルバムで最も注目していただきたい収録曲がある。    〈Personage-WES〉です。社会的影響力の大きい人物としての意味合いから〈有名人--ウェス〉と 言うタイトルになるのですが、この曲を録音したのがウェスの生前、3月1日ということから、バ ディは成功者としてのウェスの偉大性をアピールすることも忘れていない。) TP: 〈ブルーズ・フォー・デイヴィット〉あるいは〈ワン・サウザンド・レインボウ〉のように30年もの時 を経て演奏するとき、なんらかの進化とか変化はありましたか。 BM: そうだな。基本的な部分は変わらないんだけど、より最新のサウンドにした部分はある。   1stアルバムではやらなかったことをやるチャンスでもあったから。   〈ワン・サウザンド・レインボウ〉では、特にブリッジの部分でメロディに変化つけたが基本的には変 わらないし、コード進行もすべて同じだし・・そうメロディだけちょっと変えたかな。   TP: 次は、〈ホブ・ノブ・ウイズ・ブラザー・ボブ〉について話してください。   (訳注: 〈Hob Nob With Brother Bob〉はバデイの《Here Again》での収録曲) BM: 実は、ジェフとレイとコンガの数人で録音したことがあるんだ。   そこに、テナーのハーマン・ライリー、ペットの・・名前が出てこない・・それにギターのケビン・ユ ーバンクスも使ったが、マスター・テープは保管したままで、まだどことも契約できていないんだ。   同じ日に〈ホブ・ノブ・ウイズ・ブラザー・ボブ〉もしたが全て2年以上も経つので、今回この曲だけ 録音したということなんだ。 TP: オリジナル曲の最後は〈アキズ・ブルーズ〉ですね。   (訳注: 〈Aki's Blues〉はバデイの《Here Again》での収録曲) BM: ジェフ・チェンバースの息子の名前だけど、私が名付け親だよ。 TP: それは最近の作曲なのですか? BM: そう、ここ1年半前にラルフ・ムーアとジミー・コブと一緒にケヴィン・ユーバンクスのリーダで録音 したが、マスターはまだ彼が持ったままで何も起こっていないので、録音することにしたんだ。 TP: つまり、その2曲は最近のもので、〈ブルーズ・フォー・デイヴィット〉と〈ワン・サウザンド・レイ   ンボウ〉は旧作品、〈ヒアー・アゲイン〉も古い作品ですね。 BM: その通りだよ。 TP: 録り直しということですね。 BM: そうだな。 TP: 古いと言えば、スタンダードについてはどう思っています。 変化を感じますが。 BM: 当然だが、もともと古臭いとも思っていないし、ましてスタンダードは好きだよ。 TP: ずっと演奏できるものですか。 BM: 勿論だよ。ただ、クラブでは控えめにしているが演りたい気持ちは絶えず忘れていない。 TP: 歌手と歌詞にとても興味を抱かれているようですが、過去多くの歌手と共演されていますね。 BM: そう、歌手と歌詞について少し話さなければ。 TP: では、 あなたがスタンダードを演奏しているとき、歌詞はあなたの気持ちの中で最も重要なもので   すか。 BM: そうじゃない。 TP: 私には音楽的に純粋に思える考えなのですが、いかがですか。 BM: そうだね。演奏ではどのように折り合い、調和をつけるかということが、大切なんだ。   長年何千もの曲を演奏してきたが、いい曲もあれば、素晴らしい歌詞にも出会った。   だけど違いを生み出させる演奏はできないね。でも、メロディが素敵で変化も美しい曲を見つける   と、自分の考え方と一致するような気がして、それが自分なんだと思うこともあった。 TP: ピアノを演奏する上で、ホーン奏者から不本意な影響を受けたことはありましたか。 BM: あるよ、ホーン奏者はフロントラインなので、受けるのは仕方ないと思ってる。     特にソロを聴いたときに影響を受けるんだ。彼らは一度に2つの音を出すことができないからね。   私はチャーリー・パーカーやディジーから…。 TP: 40年代はバードのソロやディジーのソロを聴いて、取り込んでいたのですか。 BM: ああ、その2人だけではなく、もっと多くのプレイヤーからもだ。 TP: ほかのプレイヤーとは。 BM: ソニー・スティット、デクスター、ジーン・アモンズ…彼らを真似ているというわけではないが、何   らかの影響を受けたのは事実だ。   ただ、誰から受けたかを気づかないこともある。 アイデアはどこからでも出てくるものなんだ。 TP: それに、お兄さんたちの【声】も聞こえてきそうですしね。   (訳注: 以下【声】とは、人々の思い・考え・意見のこと)  BM: ああ、確かに。 そして弟として話を聞かなければならなかった。 TP: 終わりなき繰り返しですかね。 BM: 確かに、誰かにインスパイアされることは必要だ。 でも彼らの演奏を聴いて必ずしも【声】まで伝わ   ってくるとは限らない。 TP: レコードからソロをコピーして、それを分析することから始めたミュージシャンもいますが、あなた   は「音楽はこうあるべき」という考えを持っている人のように思えます。   でも、その完璧主義的な考えを実現するために、自分が演奏しているどんな状況にでも、伝わったこ   とは実践しているようですね。 BM: そうだったらいいのにとは思うが、正直に言うと同じようにソロをコピーした。 TP: 若い頃にコピーしたソロを3つ教えてください。 BM: ああ、3つどころじゃない。100と言ってもいいだろう。 TP: じゃあ、5つ答えてください 例えばテイタムとか。 BM: コピーしたソロまで語ることはできないが、まずバド・パウエル、ナット・コール、エロル・ガーナ   ー、一流のプレイアーたちだ。   テイタムからはコピーできることはたくさんあったが、それはあまりにもハードルが高すぎた。   なんとかコピーしようと努力してきたが、でも、いつまでもこんなことを続けていてはいけないと思   った。いつしか彼らの【声】も伝わってきたが、結果的に自分なりに求めてきたものになった。 TP: そうは言いますが、あなたは他の人とは違うと感じています。   彼らはインディアナポリスへ来たのですか、 エロル・ガーナー、バド・パウエル、テイタムとは会っ   たことはありますか。 BM: バドとはインディアナポリスではなくニューヨークのバードランドとシカゴで出会った。 でもアート・テイタムは…コンサートで見たよ。 TP: 何処のコンサートでしたか。 BM: ダウンタウンにあるサークル劇場というところだったと思う。 TP: インディアナポリスにある黒人の劇場ですか。 BM: いや、白人の劇場だ。 近くの住民ですらチケットは買えないよ。   そこはノーマン・グランツのコンサートが行われる場所でもあった。 TP: インディアナポリスはバードやソニー・スティット、ジェームス・ムーディのようなミュージシャン   が巡演する経由地だったのでしょうか。そこで地元のリズムセクションを起用したのでしょうか。 BM: 時には自分たちのリズムセクションを連れてきたりね。   TP: だから、多くのプレイアーの【声】を聴くことができたし、あなたの【声】も聴いてもらえたという   ことですね。 BM: 未熟だった頃、彼らに私の【声】は聴かせられなかったが、私は彼らの【声】を聴きに行ったよ。 TP: それは、50年代前半に…。 BM: そう、50年代前半だよ。確かに彼らの演奏を聴く機会もあったし、ジャムセッションに出てくれたこ   ともあったよ。思えば私が18歳のときに始めたんだ。 TP: スライド・ハンプトンによると、あなたたち兄弟と一日中一緒に練習していたそうですが、何週間も   かけて練習しないと、人前で演奏することはなかったと言いますが、本当ですか。 BM: そうだったかな。(笑) TP: その完璧主義が、最後までいい関係で続けられたのでしょう。 BM: ずっと練習していたことにしておくよ、特にウェスとはね。   ウェスとふたりだけの時もあったが、来る日も来る日も練習していた。   それくらい自分たちのやっていることに強い思い入れがあったのかもしれないね。 TP: 一日中練習するというのはどんな感じですか、覚えていますか。 BM: つまり、何らかのネタを並べて只々熱心に演るとしか言いようがない。   多くは個人的な練習かもしれないし、中には思いついただけ終わるものもあるし、様々だよ。 TP: お互いに刺激し合えると思います。 BM: まあ、そうだね。一緒に演奏するようになったら、確かに多くの影響を与え合えたと思う。 TP: 兄弟で出演したインディアナポリスのクラブを教えてください。 BM: ターフ・クラブだ。 TP: そこはメインとなるクラブですか。 BM: メインの場所だった。 TP: みんなそこに出演したのですか。 BM: そりゃ、ほかのクラブにも出演したり、あちこちで一晩限りのコンサートにも出演したが、基本的に   はターフ・クラブだった。 TP: ミルウォーキーで過ごした時代について聞かなければなりません。 このバンドはミルウォーキーでのトリオの再結成のようなものなので、事情や現場などについてお聞   きします。 あなたがミルウォーキーで演奏していた時、このホテルでフラナガンとジョージ・コールマンに初め   て会った、と言っていましたね。(訳注: バディは1969年から1982年までミルウォーキーに住んでいた) BM: 言ったよ。 TP: そのホテルの待遇とかギグの状況はどうでしたか。 BM: マーク・プラザ・ホテルの中にボンベイ自転車ルーム(Bombay Bicycle Room)といって、我々は勝手に   BBCと呼んでいたが、単に演奏ができるだけの場所で、誰が何をしようと関係なかった。   ただそこに座ってピアノを弾いている男が求められただけだ・・ソロとしてね。 TP: 何年のことか覚えていますか。 BM: 1970年か71年か、おそらく70年だったかな。 TP: ミルウォーキーに引っ越してすぐですね。 BM: そうだ。 そこでソロを数か月演ったんだけど、飽きちゃったんで辞めようかと思った。   トリオを雇えとも言えなかったし、でもその時不思議なことが起こったんだ。   エロル・ガーナーが筋向いで6週間ほどトリオで出演しており、彼はいつも休憩の時間にやって来て   いたので話はよくしていたんだ。 ある晩、彼に一人で演奏するのは退屈だと言ったら、「言いたいことはわかるよ。私も何度か同じこ   とを経験したことがある」、と答えてくれた。   彼とはなんとなく仲良くなったある日、食事に来た彼が「バディ、話があるんだ」というので、聞く   と「いいから、仕事を辞めるなよ。打ち合わせ中に聞いたんだが、お前にトリオを組ませるつもりら   しいぞ」、とね。 それで、結局何年もそこにいることになったんだ。 TP: ミルウォーキーを離れるまで、そこにいたのですか。 BM: 離れる2年ほど前の1980年頃までこのホテルにいたよ。 TP: ブライアンやヘイゼルティンから聞いた話によると、若手と一緒に演奏することに抵抗がないようで   すね。   (訳注: Brian Grice(dr)はバディの1977年の《Ties》に参加した経歴があり、David Hazeltine(p)は       13歳でミルウォーキーでプロとしてデビューして以来、師として仰いだバデイとの親交があ       った) BM: いや、昔はそれが当たり前のことだった。   というのも、私はそこでジャズ協会の会長にも就任したことで、人材の手配に奔走しなければならな   かった。   そうやってジョージ・コールマンやエディ・ハリスなど多くのミュージシャンから信頼を得たんだ。 TP: それはミルウォーキーでのちょっとした自慢話ですか。 BM: すこしはね。ここに来るまではひどかった。 でも、ここがいい場所になったんだ。   シカゴから我々の演奏を聴きにやってくるファンもいたし、そうやって多くの人たちが徐々に来てく   れるようになり、しかも、時々有名人までも来てくれるようになったんだ。   でも、何らかのきっかけで来てくれるのはいいが、他にはいかなくなるんだ。 TP: まえに少し触れましたが、ジェフ・チェンバースがグループに入った経緯を改めて教えてください。   また、ベーシストとしての彼についても。 BM: まあ、私はジェフやレイ以外のトリオで出演して暫くしてから、再編のためベーシストのオーディシ   ョンをすることにしたんだ。   ある人がジェフ・チェンバースのことを教えてくれたので、彼にオーディションを受けるように言っ   たんだ。 話を聞くと、ジャズのことは何も知らなかったが、とても若いのに素晴らしいフィーリン   グと力強い演奏に惚れ込んだよ。   彼に音楽的な知識をすべて教えることができたら、私が望むようなベーシストになると思ったね。 TP: 今の彼をどう評価しますか。 BM: 彼はベストの一人だと思う。レイ・ブラウンには到底及ばないが…あとは経験さえ積んでいけば更   にいいベーシストになるよ。 TP: レイ・アップルトンについても、もう少し聞かせてください。 BM: レイはジェフより古くから何年も一緒に仕事をしてきた。   一度だけ彼をツアーに連れて行ったことがあり、それから何度か一緒に仕事をしたんだ。   でも定期的に仕事をするようになったのは、私がミルウォーキーに来てからだよ。   レイは、どのドラマーよりも私が気に入っている点があってね、シンバルとライド・シンバルのビー   トが良くてね、彼の強みだと思う。   考えてみると、気づかなかったが、それがなんとも言えないぐらいクラブの雰囲気に合っていた。   (訳注:ライド・シンバルとはトップ・シンバルですが、単にシンバルとしか言っていないのでクラッ      シュ・シンバル(セカンド・シンバル)なのか、ハイハットもシンバルだし、他にもシンバルは      あります) TP: センスがなければ気がついていたでしょうね。 BM: ああ、確かに。どんなドラマーでも演奏できるという意味じゃないんだ。   彼には、アート・ブレイキーみたいなものが組み込まれているんだ。何かうまく説明できないが、そ   れを手に入れたんだ。   言えることは昔ながらのドラマーが持っていた歴史的なフィーリングの一部分なんだ。   それが他の誰とも違うところだと思うし、彼が本当に調子のいいとき、本気で演奏するときは・・い   つもそんな演奏をするわけではないが・・普段にないグルーヴ感を味わうことができるんだ。   (訳注:グルーヴとは、乗ってるね、っていう【乗り】です) TP: 〈オールド・ブラック・マジック〉と〈インヴィテーション〉についてお聞きするのを忘れていました。 BM: 〈オールド・ブラック・マジック〉に関しては、まず全体の曲想を考えてアルバムを作るんだけど、い   ろんな曲や違ったスタイルをとり入れてね。ビ・バップでなければならないとは思ってもいないし、で   きる限りのことを精一杯やればいい、という考えだ。   ただ、〈オールド・ブラック・マジック〉は他とは違う雰囲気だし、演奏の仕方も違った。   なぜなら、バラッドを弾くときはヴァイブで弾くときと同じような感じを出せばいいのかどうかわから   なくなって、違うスタイルで弾こうとすると混迷してしまうことが時々あるんだ。それがちゃんと出せ   れば調子はいいんだけどね。 TP: 〈インヴィテーション〉はどうですか? BM: 〈インヴィテーション〉も同じようなものだ。例えば曲によってはある特定な技術能力が必要な場合が   あるが、怖気づくことなく演奏させることができる。時々そういうことがある。…(?)…。 ★-------------------------------------------------------------------------------------------- 【スライド・ハンプトンがバディ・モンゴメリについて語る】 TP: バディが言うには、あなたのファミリー・バンドで演奏していたと言っていました。 SH: 私たちもインディアナポリスに住んでいたし、両親も兄弟みんながミュージシャンだった。 TP: 特にお兄さんのメイシオは素晴らしいアレンジャーでトランペッターだと言っていましたし、もう一    人、テナー・プレイアーのお兄さんもいましたね。 SH: サックスを吹いていたのはラッキーだよ、素晴らしいプレイアーで、作曲・編曲もこなしていた。   メイシオはファミリーの中で最も才能があり、トランペットをはじめ多くの楽器を演奏し、作曲・編曲   もこなしておりバディとはとても仲が良かったよ。 TP: バディは18歳のとき本格的にピアノを始めたと言っていましたが、いつから弾き始めたか知っています   か? SH: まあ、彼と出会ったのはその頃だろうけど、すでにモンゴメリのグループで一緒に演奏していたんじゃ   ないかな。 TP: そのグループとはどのようなものでしたか? SH: 当然ながら才能のある連中だった。   彼らは音楽教育を受けずにすべて独学だったが、毎日毎日みんなで集まって練習していたよ。   何時間も一緒に練習し、人前で曲を演奏する前には何週間も練習していた、真面目で真剣にね。 TP: 50年代前半、バディが兄弟やあなたたちと一緒に演奏していた頃のピアノは、どんなスタイルだった   のですか? SH: 彼が最初に影響を受けたアート・テイタムのようだった。 彼ら兄弟は耳がとてもよく、何でも聞き取れてそれを身につけることができていたので、まさに例外   的な存在だった。   どんなプログラムを演奏するにしても、真剣に取り組む姿は私たちにも大きな刺激を与えてくれたし、   バディのような才能を持っている人はそう滅多にいないと思うよ。 TP:これまで話をしたミュージシャンの中で、天性の才能があると思ったのは彼だけです。 SH: まったくもって自然体だね。真剣に取り組んではいた彼らにとってはごく当たり前なことなんだけど   ・・ある意味・・別の見方をすれば自分たちをとても軽く見ていた事になる。只々好きで演っていて 何をするにしても、他人に感銘を与えようなどとは考えてもいなかった。    そして彼らグループの編曲は、バディがほとんど受け持っていたが、彼が最初に弾き始めたころ、 誰も弾かないようなキーで演奏していたことが、本当に信じられなかった。 TP: 彼はそれを知らずに演っていたのですね。 SH: 普通の事のようにね。 TP: 彼は、自分の作曲が少しトリッキーだと思われていると言うのですが。 SH: ですね。 TP: どこがトリッキーなのでしょう? SH: 実は、彼の作曲は他とは全く違っていた。   というのは、一般的な32小節の形式は持っていなく様々で、変調などもたくさんあった。   通常の作曲ではブリッジを除けば主キーのコード進行に沿って作曲するのだが、彼の曲では主キーが 分かりずらく、戸惑うことがある。   で、メロディも非常に幅広く書かかれており様々な種類のパターンが使われていた。私たちはもう少 し伝統的なものをベースにすることが多いのだが、でも、それがとても独創的だったと言える。 TP: 彼の話を聞いている限り、今でもそうだと思いますか?      SH: もう少しオーソドックスなものを作ろうとしていると思うのだが、それでもオリジナリティが凄い。 だからこそ、彼の曲は聴く人にとってトリッキーなものが多いと受取られるんだよ。 TP: 彼がヴァイブを弾き始めた時のことを憶えていますか? それが作曲や編曲に今までにないような新しいサウンドに手掛けなければならなかった、と言って いました。 SH: そうなの? 彼が最初に演奏し始めた時期は知っているが、具体的な事は知らない。 TP: 56年のことで、テナーのアロンゾ・プーキー・ジョンソンやドラムのソニー・ジョンソンらのモンゴ メリ・ジョンソン・バンドでモンクが街を離れていたためウェスがベースを弾いたと言っています。   (訳注: 話が変えられている。前質問の中にもあるが、バディはこの年の9月頃にヴァイブを始めて おりこれを機会にインディアナポリス・ジャズ・クウォーテット、バデイ(vib)、アル・プラ ンク(p)、ウェス(b)、ベニー・バース(dr)、を普遍的に結成、12月までの3か月間のことで ある。また、同年末でモンゴメリ・ジョンソン・クウィンテットも解散している。)    それらはモンクがシアトルでの活動を基盤にマスターサウンズ結成の布石となる行動をして いたことでの短期間の出来事となる。) SH: そんなに早くから始めていたとは知らなかった。 その頃、私はライオネル・ハンプトンと一緒にい たので、インディアナポリスから離れていたよ。 TP: 彼のヴァイブとピアノでのスタイルは、どのような違いがあるのでしょうか? SH:とても似ているよ。 もちろん奏法は違うから、そこには限界があるだろう。 でも、バディ・モンゴメリのラインに変わりはない。 ★--------------------------------------------------------------------------------------------