ウェス・モンゴメリとスティーヴィ・ワンダーの競演



ビルボード・ナンバー1・ヒット 1971-1985 下巻
フレッド・ロビンソン著/かまち潤 監修
音楽之友社
1988年4月10日 第1刷発行

2023年ギターマガジン総集版にウェス・モンゴメリとスティーヴィ・ワンダーはレコーディングでの共演 予定があった云々・・と言うかじりだけの記載に基づいてもう少し掘り下げてみた。 その元となる話の発端は、ビルボード誌のコラムニストとして多くの音楽ファンや研究者に愛読されてい るフレッド・ブロンソン(FRED BRONSON)の著書「ビルボード・ナンバー1・ヒット(The Billboard Book of Number One Hits 1971-1985)」の1977年464項にスティーヴィ・ワンダーのアルバム《Songs in The Key of Life》からシングル・カットされた〈Sir Duke〉が "HOT 100" のチャートで3週間トップを飾っ た評価のなかに、1968年のスティーヴィとウェスに関わる話が僅かながら余談話としてフレッドにより語 られていた。何故9年後に、しかも全容を語らず罪な話しだと思う。 その内容については後程として、そのスティーヴィ・ワンダーについてジャズ・ファンの私には殆ど縁が なく、ただ盲目のシンガーとして名前のみ知るという存在であった。 プロフィールを見てみると、1950年5月13日生まれというから・・ウェスがハンプトン楽団を辞め故郷に帰 ってきた頃でウェスより27歳年下となる・・が、驚くのは11歳でモータウン傘下のタムラ・レコードと契 約して以来、ヴォーカル以外にも、ハーモニカ、クラヴィネットなど様々な楽器を演奏するマルチ・イン ストゥルメンタリストとなり、現在では音楽プロデューサでもある。 ウェスでも12-3歳で4弦テナー・ギターを弾き始めた年代ながらにも、スティーヴィは既にプロとして活 動したなんて正に天才としか言いようがない。 アメリカ合衆国の音楽 "TOP-10" に入るヒット曲が30曲以上もあり、幾つものグラミー賞等を受賞するア ーティストとなった。 スティーヴィのデヴュー時からのアルバムを列挙すると次のようになる。 ・12歳1962年《The Jazz Soul of Little Stevie Wonder/Tamla(Motown)       このアルバムは2曲の自作が含まれたインスト・アルバムで       既に作曲も熟していたなんて・・それが1963年ビートルズ、1964年ローリング・ストーンズ       より早いファースト・アルバムだなんて信じられない。 ・12歳1962年《Tribute to Uncle Ray/Little Stevie Wonder/Tamla(Motown) ・13歳1963年《The 12 Year Old Genius/Recorded Live/Little Stevie Wonder/Tamla(Motown)》       スティーヴィが12歳であった1962年末、モータウン・レヴューの一員として全米を巡演する。       そのシカゴのリーガル劇場での20分ほどの演奏を録音したものが、1963年の5月にリリースさ       れ、これが "Billboard 200" で1位になる大ヒットを記録した。       ここからシングル・カットされた〈Fingertips〉も "Billboard Hot 100" で1位の大ヒット       となる。この、13歳での1位獲得は21世紀に入って史上最年少の記録となった。 ・13歳1963年《With a Song in My Heart/Stevie Wonder/Tamla(Motown)》       《The 12 Year Old Genius》のヒットを切っ掛けに、リトル・スティーヴィ・ワンダーから       スティーヴィ・ワンダーへと脱皮した。 ・14歳1964年《Stevie at the Beach/Stevie Wonder /Tamla(Motown)》 ・16歳1966年《Up-Tight/Stevie Wonde /Tamla(Motown)》 ・16歳1966年《Down to Earth/Stevie Wonder/Tamla(Motown)》 ・17歳1967年《I Was Made to Love Her/Stevie Wonder/Tamla(Motown)》 ・17歳1967年《Someday at Christmas/Stevie Wonder/Tamla(Motown)》 ・18歳1968年《Eivets Rednow/featuring "Alfie"/Eivets Rednow/Gordy(Motown)》
Eivets Rednow featuring "Alfie" GORDY 932 (Motown)/1968年11月 1.Alfie 2.More Than I Dream 3.A House Is Not A Home 4.How Can You Believe 5.Never My Love / Ask the Lonely 7.Which Way The Wind 8.Bye Bye World 9.Grazing In The Grass
ここから本題に入るがデヴューから10作目の11月20日にリリースされたアルバムは、ファースト・アルバ ムに続き2作目のインスト・アルバムとしてスティーヴィとウェスが共演するといった驚きの企画であっ た。 タイトルは《Eivets Rednow/featuring "Alfie"》となっているが、それはビルボード誌のコラムニスト、 フレッド・ブロンソンによると「1968年、スティーヴィは自分に大きな影響を与えたもう一人のアーティ ストの存在に気付いた。 それはあの伝説的ギタリストのウェス・モンゴメリである。 彼は自分の名前を逆さまにした《Eivets Rednow》というタイトルでウェス・モンゴメリと共にインストの レコーディングをするはずだった。しかし、ウェスはその年の6月15日に亡くなり、二人の夢は叶わなかっ た」と、じくじたる説明だった。 2人の共演を企画したのはモータウン・レコードとその関連レーベルの創設者である、ベリー・ゴーディ (Berry Gordy)と言われておりスティーヴィを初めマイケル・ジャクソン、マーヴィン・ゲイ、ダイアナ・ ロスなど多くの大物アーティストを発掘した人物である。 彼はスティーヴィについて「初めて会ってみてヴォーカル以上にクロマチック・ハーモニカのプレイに感服 させられた」と、自書の『モータウン、わが愛と夢』で語っている通りモータウンでは異色とされるインス ト主体のアルバム制作にスティーヴィを立てた。 だがそのアルバムはスティーヴィの一連の作品とは別レーベルとし、しかも偽名でリリースする企みを巡ら した。 タイトルの《Eivets Rednow》エイヴェッツ・レッドナウはスティーヴィ・ワンダーをアナグラムにしたも のだった。 アナグラムとは、ある言葉や文章の文字を並び替えて、別の意味を持つ言葉や文章を作る言葉遊びですが、 例えば、エレクトリック・マイルスといわれたマイルス・ディヴィスの《Live Evil》の収録曲〈Sivad〉は "Davis" 〈Selim〉は"Miles"のアナグラム。 エヴァンスの《Conversations With Myself》の収録曲〈NYC's No Lark〉は Sonny Clarkへの追悼曲とした アナグラム。 ウェス関連でいうと《The Incredible Jazz Guitar of Wes Montgomery》の〈Airegin〉は1954年にソニー・ ロリンズが作曲しジャズ・スタンダードになった曲だが、ナイジェリアの国名にちなんだアナグラム。 他にも沢山あると思うが、変名だけに拘るとウェスも参加した1959年ジョン・ヘンドリックスの《A Good Git-Together》のアルバムにはキャノンボールとナットの兄弟も参加しているが"Blockbuster"とライナー・ ノーツに書かれているだけだ。 一般的には"大ヒット作"と言う意味合いになるが、軍事的には爆弾と訳される。 これは"Cannonball"が球形の砲弾と訳せることから、また彼らは"大ヒット作"をもっていることに対してア ナグラムではないが引っ掛けた言葉遊びとなっている。 この変名に関してはスティーヴィもソウルやR&Bシンガーのミニー・リパートンのアルバム《Creepin'》 の一部で変名のプロデューサで参加したそうだ。 ここでゴーディの企画に対していくつかの疑問を呈すると、先ずスティーヴィとウェスの共演に関してウェ スが所属するA&Мレコードとはネゴシエーションが必要となるが、もし承諾されていたとするならば何故 スティーヴィの名前をアナグラムにしなければならないのか。 共演依頼を請けた側が事情により変名を使うならまだしも、ウェスの名前は正式とするならばたいへん失礼 な話ではないか。 二人ともレコード会社の人気も売り上げもトップ・クラスのミュージシャンであるなら正々堂々と名乗れば いいじゃないかと思うのは極一般的な考えである。 そこでアルバム・タイトルを見直してみると《Eivets Rednow/featuring "Alfie"》とあるが、サブ・タイト ルと言っていいのか小さく〈featuring "Alfie"〉って・・なに? もしかしてウェスが存命でレコーディングされていれば《Stevie Wonder featuring "Wes Montgomery"》と いう文字サイズも同等扱いのタイトルではなかったのか・・と思えた。 だが、ウェスが亡くなったとはいえ企画そのものを見送りにしたくなかったゴーディはやむなくバート・バ カラック/ハル・デヴィッド作のスタンダードとなった "Alfie"と入れ変え何事もなかったかのように装った と推察できる。 スティーヴィとウェスのインスト・アルバムを手掛けたいという野心が崩れたことにより方針転換せざるを 得なくなり、売れる見込みのつかないことでゴーディ・レーベル(詳しくないですが、このレーベルは後にも 先にもこれ限り?)としリリースさせた。 ここには、ゴーディ以上にスティーヴィも考え温めてきたアイディアを没にしたくない、リリースさせたい という気持ちが強かったと思う。 それを受けて、名前をアナグラムにしたりゴーディ・レーベルにするというのはスティーヴィへのリリース 条件だったも知れないし、自分自身の逃げ場を作ってのことだったかも知れない。 それは何であれ、スティーヴィの絶えず音楽界でトップを君臨し続ける大先輩で憧れのウェス・モンゴメリ と一度戦ってみたかったという心情は垣間見える。 例えるなら巌流島の宮本武蔵と佐々木小次郎の心境と察っするが、共演ではなくその競演は・・儚くも消え 去ったがその戦いの形跡として見られるのが自作の収録曲〈Bye Bye World〉である。 キーボードでのメロディとソロはウェスと対抗するかのようにオクターヴでプレイしているが、私にはトリ ビュート曲というより挑戦曲のように思える。 当初からのアイディアなのか急遽ウェスが亡くなったことででのオクターヴ・プレイなのかどうか分からな いが、明らかに競演というイメージが目に浮かぶ。 これだけのことだったのですが、二人の接触には頷けるものがある。ウェスは1950年代にR&Bのバンドに 参加した経歴があり彼自身もまんざら嫌いでもなかったことなので快く受け止めたと思うし、まして所属す るA&Мレコードのポップ路線も考えると、ウェス自身がこれから先もそれらに乗っていかなければならぬ 乗り遅れてはならぬと、一番に感じての承諾だったと思う。 このようにニアミスに終わった《Eivets Rednow》でしたが、後年の話になるが明らかにスティーヴィがウ ェスへのトリビュートとした作曲で、それは自分がプレイするのではなく親交のあったジョージ・ベンソン に贈られた。 ベンソンは1987年《Weekend in L.A/George Benson》のアルバムに〈We All Remember Wes〉邦題〈我等の ウェス〉を収録した。 挑戦を終えたスティーヴィの文字通り真のウェスへのトリビュート曲を、ウェス派ベンソンは見事に "ギタ ーで" 代演を果たした。