ジャズ御三家のひとつ、名門リヴァーサイド・レコードのプロデューサ、オリン・キープニュースが2015
年3月1日91歳で逝去したという記事は当サイトの「ニュース速報 No.119(2015.7.7号)」でも掲載したが
《Fusion!/Wes Montgomery with Strings》のライナーノーツをあらためて見ると、彼がこのアルバムに
賭ける意気込みにウェスへの期待感を相乗させた表現はまるで子を思う親のような心境で綴られていた。
1962年4月に三兄弟によるモンゴメリ・ブラザーズを解散したあと、ウェスはなおも単身カリフォルニア
に滞在し続け(※1)、6月に《Full House》のライヴ・レコーディングに臨み、その後も自身のトリオで
西海岸を中心に時に東海岸へのツアーも熟していた。
そしてその間、キープニュースはウェスの次期アルバムの構想を考えていた。
「私は長いあいだ、ウェスに相応しい、豊かで充実したサウンドの枠組みを探し求めていた。
とくに、これまであまり注目されてこなかった彼のもうひとつの側面を引き立たせるようなものでね。
近年はウェスの燃えるような即興演奏の腕前や、かつて例のなかったオクターヴ奏法やコード使いに焦点
が集まりすぎて、彼が本来持っている美しいメロディ感や叙情的な感性を持ちながらにも見過ごされてき
た」、と言う。
それを発揮すべくウェスと曲想について話し合うなか、「ならばジミー・ジョーンズだ」と、どちらが先
に言ったのか定かではないと言うが、キープニュースはストリングスをバックにというムード音楽の構想
は既に固まっていたと思う。
当時、ジミー・ジョーンズ編曲・指揮のもと優れた作品を作りたいというプロデューサやミュージシャン
は少なくなかったようだ。
ウェスがこの企画に乗り気になった布石は、彼がツアーでの移動中、専らカー・ラジオから流れ出る音楽
やテレヴィ番組などから養われていたと思う。
1950年中頃から持てはやされたフランク・シナトラの卓越した歌唱力のジャズとポップスを華麗なアレン
ジでシナトラを引き立てるネルソン・リドル・オーケストラのストリングス曲の数々。
そしてジミー・ジョーンズ編曲・指揮にも興味があったようだ。
ちなみに、《Fusion!/Wes Montgomery with Strings》がレコーディングに至るまでのジミー・ジョーンズ
の代表的なアルバムを列挙しておく。
・1958年:ジョー・ウィリアムズ《Sings About You/Roulette R-52030》
・1960年:サラ・ヴォーン《Dreamy/Roulette R-52046》
・1962年:ハリー・ベラフォンテ《The Midnight Special/RCA Victor LPM-2449》
・1963年:ナンシー・ウィルソン《Broadway-My Way/Capitol SM-1828》
ウェスとキープニュースがジミー・ジョーンズに託すという事でまとまった後、ジミーを交えて最初のミ
ーテイングが行われた。
キープニュースは「どうしたいかという話にもなったとき、ウェスはジミーにネルソン・リドルと組んだ
フランク・シナトラみたいな感じに仕上げてくれとハッキリ言ったが、それは決して軽い目標ではなく、
違いはあるにせよ、最終的な出来をかなり的確に言い表していたと思う」、そして「曲のテンポやキーだ
けでなくムード音楽に求められる効果まで細かく論議したが、収録曲の選曲の多くはウェス自身が決めた」
と言う。
ジミーはこのウェスのストリングス・アルバムに対してサラ・ヴォーン、ジョー・ウィリアムス、ハリー・
ベラフォンテなどのアルバム同様に並外れた緻密さとプロ意識をもってアレンジに取り組んでくれたが、
ウェスには一抹の不安もあった。
「ウェスは自分でメロディ・ラインを先に録音し、そのテープをもとにジミーがアレンジを考えてくれれ
ばレコーディングまでに自分の一番いい形が魅せられると言うのでそのようにさせた(※2)が、実際このス
トリングス・セッションの準備にかなりの時間を費やしてしまった。
リズム・セクションはみんな一流のスタジオ・ミュージシャンばかりでレコーディングまでのスケジュー
ル調整が難しくて」とキープニュースは言うが、やっと《Full House》から10か月後の1963年4月18日、
19日のレコーディング日程が決まった。
「いつもは自分に厳しく、神経質なほど自己批判的なウェスも、このときばかりは自分のソロに最初から
満足していた。
ジミー・ジョーンズのスコアは、ウェスの極めて個性的なスタイル・・ブルーズの香りとロマンチックさ
に満ちたギター・・を優雅に包み込む、豊かなサウンド・クッションとして見事に "fusion(融合)" して
いた」、と満足感いっぱいのキープニュースは「特に、テンポの速いマイルス・デイヴィスの〈Tune-Up〉
を、ゆったりとした独特のアプローチで演奏し、その美しいメロディの核心を浮かび上がらせていた」と
絶賛している。
ウェスが・・シナトラのような・・と言うことで全10曲のうち、映画 "抱擁" の主題歌でヒットした
〈All the Way〉、それと原曲は歌曲でスタンダードとなった〈In the Wee Small Hours of the Morning〉
の2曲はシナトラのナンバーとしてよく知られている。
他に、デューク・エリントン作曲の〈Prelude to a Kiss〉、ミュージカル・ナンバーを3曲、そしてウェ
スが自ら出演交渉したというケニー・バレルのアコースティック・ギターとはっきり分かる
〈The Girl Next Door〉や〈God Bless the Child〉にも聞き耳を立てて欲しい。
2日間を3時間のぶっつけ本番の形で3回のレコーディングで終わらせ、試聴用の音源を聴いた人々のあい
だで驚嘆と賞賛の声が上がる一方「この作品は一般には出さないようにする陰謀があるらしい」という内輪
からの噂が立ったことについてキープニュースは、「中傷に満ち事実とは異なっているが、そんな噂話が立
ったのも本当だよ。だけど私たちそれぞれが自分の分担を熟したなか、これまでで最も誇れる制作だったと
言える。
正直に言って、この作品を慈しみ深い親のように見守ってきたということに自信を持っている。
たとえ自分の子が強く、聡明で、やがて大統領にも億万長者にも映画スターにもなり得ると知っていても、
なおもためらいを抱きつつ、子を家から送り出し、世界へと旅立たせる、その親心のような心境です」と、
答えているが具体的な噂話の内容が明らかにされていない。
それはウェスにおいても、リヴァーサイド・レーベルにおいても、何故ジャズを捨ててのムード音楽なんだ
という噂話を想像させられる。
しかし、「完成した今となっては、すべてがうまくいくだろうと確信している。
きっと聴く人もこの音楽を愛し、私たちの誇りが正当なものであったと感じてくれるだろう」、と締め括っ
ているが、まさに賛否両論の中にもウェスを思う気持ちに変わりはないと言える。
キープニュースは、「NYでこのストリングス・セッションの準備にかなりの時間を費やした」というなか、
ウェスがNYに滞在してることで更なるレコーディングを計画した。
それは、ウェスがモンゴメリ・ブラザーズを解散したあと、旧友のメル・ライン(注:メルヴィンという呼び
名は50年代のことで、以前彼にサインを求めたとき、今はメルと呼んでくれと言われた)と、ドラムスのジョ
ージ・ブラウンのトリオで巡演していたが、ドラマーはジミー・コブを抜擢した。
「ジミーの素晴らしいリズム感は時として過小評価されてきたが、ウェスと彼が共演することがレコーディ
ングにおける重要なポイントだ」、それが条件だったとキープニュースは言うが、思えば《Full House》で
の好印象が脳裏に焼き付いていたのであろう。
ストリングス・セッションを金曜に終え週末は仕事から解放し、月曜つまり22日の午後には再びスタジオに
戻った。
この駆け込みレコーディングの主旨は、当時オルガンを含むコンボが受けており中でもマンハッタンではカ
ウント・ベイシーのオルガン・コンボがクラブで引っ張りだこの人気を博していたことから、ウェスもメル
・ラインのオルガンを含む編成だったことが売り物になると考えたようである。
こうして少ない時間を利用しながらもリラックスな雰囲気でのレコーディングも、メル・ラインとの気心の
知れた進行にたったの5時間半で録り終えた。
長い構想でのストリングス・アルバムより、周りの関心は専らこのトリオのレコーディングに注目が集まっ
たことで、1963年6月に《Boss Guitar》として先にリリースし《ストリングス・アルバム》を年末にリリー
スさせる予定にした。
ここから少し飛んで時は1968年『クレッシェンド』誌7月号に掲載されたレス・トムキンスによるインタヴ
ュー記事をまず紹介します。
トムキンスは1965年ウェスがイギリスのロニー・スコット・クラブに出演したときプライベートでライヴ・
レコーディングし、1966年5月《Wes Montgomery Body and Soul/JHAS 604》を "ronnie scott's JAZZ
House" なるインディーズ・レーベルでCDリリースし、そのライナー・ノーツも記載した本人。
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【偉大なジャズマンの最後の言葉 ・・ウェス・モンゴメリ】
初めてストリングスと一緒にレコーディングしたとき、批評家のコメントには本当にがっかりした。
いったい何が気に入らないと言うんだ? 常にハードな音楽だけだと思ってるのか?
美しさっていうのは、いろんな形で現れるものなんだ。
僕にとって、それがその時点で一番の出来だったんだよ。
批評家であれ、リスナーであれ、ひとつの方向だけ聴いてちゃダメだ。
一晩中同じテンポの曲だけ聴き続けるようなもんだ。
ヴァイオリンは美しいけれど・・・って言う人、よく耳にするが、でもその見方は狭すぎるんだ。
例えば、ナット・キング・コール、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、あの連中の誰もがバラッドを
歌えば、そりゃすごいもんだ。それとどう違うんだ?
バラッドはバラッドだ。トランペットであれ、トロンボーンであれ、ヴォーカルであれ、ギターであれ、
それを演じるそれぞれの表現手段に過ぎないんだ。
このアルバムはムードを大事にした作品で、そのとおりのものだった。
確かに、こういうアルバムを作るには自分を変えなきゃならなかったし、適応させることでより多くを学べ
るんだ。
誰かが君に合わせなきゃいけないとき、君は何も学んでなくて相手の方が学んでる。
だから、自分が合わせる立場になると、色んな合わせ方を見つけることができるんだ。
例えば、君があるバンドに飛び入り参加して「何を演りたい?」って聞かれて、じゃあ《キャラバン》って
答えたとする。
「キーは?」って聞かれて君はいつも演ってきた "Fマイナー" で、と答える。
でもキーは何でもいいよと言ったら、相手が「じゃあCメジャーで」(訳注: Cマイナーの間違い)となるか
もしれない。
それは君がどのようにでも演れるから言えることなんだ。分かるかい?
だから思うんだけど、長い時間をかけて音楽に適応することを学んでいくと、ひとつのスタイルに縛られず、
さまざまなスタイルで演れるようになるんだ。
僕は楽譜が読めないから、ヴァイオリン奏者たちとはやりにくいこともあった。
その日のセッションでは、みんな楽譜を手に演奏しているのに僕はギターを持って座っているだけ。
奴らはただ仕事で呼ばれただけで、10曲あると分かれば楽譜通りに弾きこなすだけなんだ。
このアルバムでは、アレンジャー(ジミー・ジョーンズ)に曲名を告げ、そのあと僕が実際に弾いてキーを伝
えたが、それぞれの曲を異なるキーにしたかった。それにより変化が生まれるからなんだ。
レコーディングまであと二日。
当時、僕はツアーに出ていたが自分のトリオ共々一旦インディアナポリスに帰らなければならなかった。(*3)
ジミーが僕から曲とキーを受け取ると、三週間で全ての編曲をし終え、その後僕がスタジオに戻り二日間で録
音をする、という段取りだった。
でも家に帰ってから思ったんだが、どんな感じで書き上げてくれるのか心配になってきたんだ。
帰る前にちゃんと話しておけばよかったんだろうけど、もう半分ぐらい書き終えていただろうけどね。
だから思ったんだけど・・数日早く行って、どのようになっているのか確かめた方がいいと。
つまり、レコーディングの進行を止めないためにね。
行ってみると、ジミーがピアノで大まかな流れを教えてくれた。
でも、セクション全体を弾けるるわけじゃないので、困ったことに変わりない。
そこでジミーに「こうしよう。弾くべきところを教えてくれ。イントロとかエンディングとか、あるいは特別
なオープニングがあるなら、それだけ教えてくれればいい。
だって、ここにいるのは全員一流のストリングス奏者だ。
僕が覚えるまで待たせるなんて、ありえないだろ」、と言った。
いくつかの箇所で、最初は隙間みたいに見えた部分が、実は隙間じゃないって気づいたんだ。
そこにはちゃんと理由があって、チェレスタの一音だったり、スタッカートのヴァイオリンなどがが入るんだ。
〈Somewhere〉では、本来ほかの誰かが演奏するはずのところが抜けていたから、仕方なく僕が弾いたんだ。
で、面白いことに録音を聴き返したら、まるでハープみたいに聴こえた。
でも、自分が弾いたのは確かなんだけど。
2時間半のセッションで6曲をこなした。みんなは「緊張感なくいい感じ」と言ってたけど、僕の頭の中はけ
っこう張りつめていたよ。
ここに座って、ある意味推理ゲームをしているような複雑な感じだよ。
ジミーは「この曲は8小節のイントロから始まる。それから君がテーマに持ち込みテーマを弾いたあと、最後
の8小節もとる。
我々は4小節で締めくくる(*4)」と、だけ説明してくれた。
でも、そんな単純な話じゃないんだ。
イントロの後の16小節を、ただメロディを弾くだけじゃ済まされない。
だから、後ろから聴こえてくるメロディのコードに合わせてプレイしなければならないんだ。(*5)
でもジミーはそれを説明できない。「ここは誰かが13度上げた音を使っている」なんて言えないんだ。
僕はコード名を書かれた紙を見ても分からないし・・聴かなないと・・聴くことでイメージが掴めるんだ。
でも考えてみてよ、その場で聴いて、即座に相手のプレイに合わせないといけないんだ。
スタジオではそういう感覚をつかむまで繰り返している時間なんてないし、だから、どこで休んでどこで入る
かを頭に叩き込んでおいて、しかも入ったら演っていることに合わせなけれはならないんだ。
ジミーがアレンジを始める前に、僕が自分なりの解釈でテープに録って渡そうかという話もしたが、結局やら
なかった。(*2)
自分の考えを押しつけ思考を混乱させないためにも、自由に書かせてやらないとね。
それに、事前に練習していても本番でその通りできるかどうかわからないし、というのも僕は特定の演り方に
慣れていないので、間違えてしまうこともあるし、ならばジミーのやり方で進めてもらう方がいいと思った。
スタジオのストリングスの響きで構成音が聴きとれるから、あとはタイミングよくプレイすればいいだけだ。
イントロを何度も外してしまうことだってある。
自分で決めたイントロなのに、弾きながら心の中では「別のことを演れ」と言われているんだ。
これはもう、僕の性分なんだよ。
だから「レコードで聴いたあのフレーズを演ってくれ」なんて言われるのが辛くてね。
どんなラインを弾こうと、4小節ごとに同じコード進行が繰り返され、そこでは毎回違うフレーズを演っても、
ちゃんと納めればそれでいいんだ。
これこそがジャズなんだよ。
物事をひとつのやり方でしかできないなんて、僕には考えられない。
ひとつのやり方を持つこと自体は悪くないけど、それに拘るのは良くないと思う。
僕は "幅" というものを信じているんだ。
よく弾く曲でも、時には別の音域で聴こえてくることがある。
同じコードでも、もっと高いところで響いてくることもある。
もし完全な自由がなかったら、あるいは自分を一本調子から解き放つことを許せなかったら・・ああ、そんな
ことは考えるだけでも恐ろしいよ。
An interview with Les Tomkins/published in CRESCENDO Magazine July 1968
(*1)1963年の時点でインディアナポリスの市民簿にウェスの名前はなく、妻スリーンはコーネル17番地に住み
ハイグレードな食肉工場で包装工として働いている。
(*2)事前録音の証言がキープニュースとウェスの話が食い違っている。
(*3)レコーディングは、リヴァーサイドの《Fusion!/Wes Montgomery with Strings》のことで、録音データ
はニューヨークの "Plaza Sound Studios,; Apr.18 and 19,1963" で、この時期の記事がある。
「ダウンビート誌の人気投票で受賞した名手ウェス・モンゴメリが、コンボを率いて春の華やかなダンス・
パーティに登場します。日時:3月29日(金)夜。会場:プリンス・ホール・メーソニック・ロッジ
(653 N. ウェスト・ストリート)。ウェスが地元で一般向けのダンスのために演奏するのは、非常に珍
しいことだ。」とのこと。(INR-1963/03/30記事参考)
(*4)〈Somewhere〉はストリングスのイントロ8小節の後、AABAのテーマ32小節にエンディングとして4小節
が加わっている。
(*5)ウェスが「後ろから聴こえてくるメロディ・・」に合わせてというのが "B" メロの部分で、オブリガー
ト(オブリ、セカンド・メロ、サブメロ、カウンター・メロディなどと呼ばれることもある)を弾くこと
を言っている。
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このようにキープニュースもウェスもこのストリングス・アルバムに賭ける意気込みがこのインタヴュー記事
で強く感じられたと思う。ここから話は、《Boss Guitar》のリリースを終えた後に戻ります。・・
そんななか、相変わらず人気の高いオルガン・コンボにあやかりキープニュースはウェスのトリオで再度レコ
ーディングを計画した。
ウェスは「ならば、今度は巡演中のレギュラー・ドラマーを使いたい」、と申し出た。これこそウェスがメン
バーを大事にする思いやりで、押し付けのメンバーを恐らく初めて断るようなことをキープニュースに告げた。
キープニュースは「普段ならば編成やメンバーについての要望は聞き入れないのだが、この時は何故か受け入
れてしまった」、と言う。
「リリースを間近に控えているストリングス・アルバムのこともあるし、このトリオでのレコーディングの準
備も考えなくてはならないが、ともかく今ほかに考えなくてはならないことがたくさんある」、と付け加えた。
それはリヴァーサイドの経営状況がこの頃から悪化し始めキープニュースはこれらの立て直しに奔走しなけれ
ばならなかった。
見通しのつかないまま1963年10月10日レギュラー・トリオ、ウェス、メル・ライン、ジョージ・ブラウンでの
レコーディングが始まった。
キープニュースは「私好みの〈Moanin〉を初め全5曲を録り終え、ベスト・プレイだったと思った何曲かの中
に、潔癖症のウェスが満足できないと言ったことをハッキリと覚えている。
それで再レコーディングを設定することになった」、と不満げに話す。
ウェスの過密スケジュールの合間を縫って10月27日に2回目のレコーディングが行われた。
この日は奇しくもケネディ大統領が暗殺された事件から1週間も経っておらず、しかも感謝祭の前日でもあり
ウェスは巡演を終えインディアナポリスの自宅にも立ち寄らずNYのスタジオに駆け付け、10月10日の録り直し
と新たに6曲がレコーディングされた。
12月になり、録り溜めたマスター・テープからストリングス・セッションのタイトルを
《Fusion!/Wes Montgomery with Strings/RM-472》とし、リリースさせた。
恐らくキープニュースはこれで幾分かの経営不振の立直しになるだろうとの腹積もりはあったと思うが、不幸
にも同じくして会社の共同設立者で営業面を背負っていたビル・グロウアーが心筋梗塞で急死したのである。
そのことで本来の業務が遂行できなくなり、明くる64年7月に名門リヴァーサイド・レコードは倒産を余儀な
くされた。
その前月となる6月にダウンビート誌は《Fusion!》の評価を★★1/2とした。
「ウェスのプレイは確かに心地よいものの冒険心はほとんどなく、唯一彼のオリジナル〈Pretty Blue〉で興
味深い瞬間が見られた。
ジミーの職人的なアレンジはムード・ミュージックとして完璧に仕上がっているが野心的な試みは一切感じな
い。
ウェスもジミーもキープニュースももっと高い目標を持ってもらいたかった」、とウェスとキープニュースの
思い入れとは反しての過小評価となった。
ダウンビート誌の評価とはいえ、あくまでも個人的要素が大きく、私自身も「耳の穴かっぼじってよーく聴い
てみろ。普通のムード音楽じゃなく、ウェスが弾いているんだ、こんな贅沢なアルバムどこにもない!」、と
言いたい。
僭越ながら、私とウェス・モンゴメリの出会いはヴァーヴ・レコードの《Tequila/Wes Montgomery/ V6-8653》
が入門編となったことから、彼のストリングス・アレンジを取り入れた作品群の良さは十二分に理解してい
る。
こうしたアルバムは、心地よいストリングスの響きがウェスのギターを包み込み、流麗な融合サウンドを生み
出しているが、とくに寛ぎの中で聴くと、より一層の癒しと安らぎをもたらしてくれることに確信をもって言
える。
リヴァーサイド・レコードが倒産した後の話を少ししておきます。
ビル・グロウアーの死後、約半年間活動停止の状況が続き、「なにも手を付けることができなくなり、マスタ
ー・テープも含め全てが銀行の管理下に置かれ新しいオーナーに権利が移行された」、とキープニュースは説
明している。
事実としては7月20日倒産、以後レーベル名は残しつつもオルフェウム・プロダクションが継続させることと
なった。
不本意な倒産ながら、録音整理もつかないまま気がかりとなっていた10月10日と10月27日のレコーディングを
リリースできなかったことが唯一の心残りと察するが、その心配をよそに、66年1月になって
《Portrait of Wes/Wes Montgomery Trio/ RM-492》、66年10月に
《Guitar on The Go/Wes Montgomery/ RM-494》とウェスの人気に便乗し利益優先に2回に分けてリリースさ
れた。
勿論、キープニュースは関われなかったが、ただキープニュース自身は選りすぐって1枚のアルバムにする予
定だったというが、その収録された曲を端的に言うと・・
・没テイクとなったもの;
・ベストテイクを編集したもの;
・2枚のアルバムにしたことでリリース済みの曲で補填したもの;
・曲名、作曲者名の間違ったもの;
等々レコーディング事情を知らなかったとは言えオルフェウムの好き勝手な無茶振りに、「会社倒産後に2枚
のハチャメチャな内容でウェスのアルバムがリリースされてしまった」、と怒る気力さえ失くした思えるほど
キープニュースの無念さが伝わる。
レーベル的に説明しておきます。
リヴァーサイド・レコードが64年7月に倒産した訳ですが、そのあと直ぐにオルフェウム・プロダクションが
全面介入したということではなく "その直前" ということから恐らく65年末ぐらいまで移行期間が設けられた
ようです。
"RIVERSIDE" というレーヘル名は継承させつつもロゴの所有権を巡る法的問題があった可能性があり、その
期間中奇妙な形でのリリースが見られる。
それは従来のツイン・リールとマイクのロゴは使用せずブルー地にシンプルな文字デザインで
"Bill Grauer Productions Inc. New York City" と表記されている。

Fusion! オリジナルラベル
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Fusion! ロゴ無しラベル
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Portrait of Wes オルフェムラベル
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Guitar on The Go オルフェムラベル
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結果的に、ブルー地に "RIVERSIDE" の銀文字、ツイン・リールとマイクのロゴのラベルデザインも
《Nippon Soul/Cannonball Adderley/ RM-477》が最後となり、66年初めにリヴァーサイド・レコードの全カ
タログは投資グループに完全売却され、多くの重要タイトルの再発と一部の新譜リリースが進められるととも
にツイン・リールとマイクのロゴは廃止され "RIVERSIDE" はシンプルなテキスト文字と
"Orpheum Productions Inc. New York City" の表記に置き換えられた。
そこでウェスに関するアルバムだけを列記すると《Fusion!》までがビル・グロウアー・プロダクションとなり、
《Boss Guitar/Wes Montgomery/RM-459》 録音:Apr.22,1963. 発売: 6/1963
《Fusion!/Wes Montgomery with Strings/RM-472》 録音:Apr.18,19,1963. 発売: 12/1963
次の2作品はオルフェウム・プロダクションとなる。
《Portrait of Wes/Wes Montgomery Trio/RM-492》 録音:Oct.10, Nov.27,1963. 発売: 1/1966
《Guitar on The Go/Wes Montgomery/RM-494》 録音:Oct.10, Nov.27,1963. 発売: 10/1966

Boss Guitar Riv. RM-459
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Portrait of Wes Riv. RM-492
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Guitar on The Go Riv. RM-494
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そして "RIVERSIDE" レーベル名として最後のリリースがリヴァーサイド・ブックからも確認できる《RM-499》
は、ヨーロッパで62年に録音されたことから《Cannonball in Europe/Cannonball Adderley Sextet/RM-499》と
して64年にフォンタナ・レコードからリリースされていた。しかし、このアルバム番号《RM-499》はウェス1960
年のセカンド・アルバム《The Incredible Jazz Guitar of Wes Montgomery/RLP 12-320》のリイシューとなる
《Vibratin'/Wes Montgomery Quartet/RM-499》として1967年2月にもリリースされている。
オルフェウムの好き勝手な無茶振りと言ったが、その管理さえなされていない状況に、同年、思うがままにかき
回したオルフェウムの権利がABCレコードに移行された。

Vibratin' Riv. RS-9499
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The Complete Riverside Recordings Riv. 12RCD-4408-2
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1992年、キープニュースはファンタジー・レコードより
《Wes Montgomery The Complete Riverside Recordings/Riverside 12RCD-4408-2》をウェスの集大成としてタイ
トル通り12枚組のCDにまとめ、リリースさせた。その自身によるライナーノーツで「29年前、いま私はウェス・
モンゴメリとの最後のセッションを取り戻すべく懸命に努力した結果、それらベスト・テイクとなった曲をこの
アルバムで示せると同時に、ウェスが受け入れなかった没テイクを排除させることができた。
レコード業界に絶えまず携わることで最高の仕返しができたと思う」、そして「輝かしいウェスの短くも華麗な
レコーディング・キャリアを言及するならば、リヴァーサイドで小編成によるジャズの名盤となった作品を私が
プロデュースしたあと、クリード・テイラーがヴァーヴやA&Mで大編成によるポップ路線で成功を収めたというの
が大筋なところだ。
ウェスがヴァーヴで素晴らしいクウォーテットのライヴ・アルバム《with the Wynton Kelly Trio》をリリース
したことも知っているが、私がウェスの最初のストリングス・アルバムを手掛けたことを誇りに思っている」と、
強調しているがウィントン・ケリー・トリオのライヴ・アルバムというのは、
《Smokin' at the Half Note/Wynton Kelly Trio-Wes Montgomery》の事なのか、ウェスの死後にストリングス編
集されグラミー賞を獲得した《Willow Weep for Me/Wes Montgomery》の事なのか紛らわしく語られているが・・
そう言えばキープニュースは「ジャズのインスト・シングルがポップスのように成功させることは困難だが、2か
月前モンゴ・サンタマリアの〈Watermelon Man〉がビルボード・シングル・チャートで10位を獲得したことで、
このストリングス・アルバムからもシングルカットさせたい」との意気込みも語っていたが、いずれにしても
ストリングス・セッション "fusion(融合)" をヒットさせるに至らなかった。
だが、先を見たキープニュースのプロデュースは真に★★★★★の評価に値することであったと断言する。
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