その記事でウェスは "スチューデンツ" と呼ばれるロック・グループのレコーディングに参加し ていると書かれてあり、データは次の通りだ。 The Students: Leroy King(lead-tenor, vocal) Richard Johnson, John Bolden, Roy Ford, Dorsey Porter(vo) accompanied by Jimmy Coe and Orchestra:  Jimmy Coe(ts) Wes Montgomery(g) others unidentified.        Chicago "Chess Studios" : prob. July, 1958 J9OW-4996 Every Day of the Week Note 10012, Checker 902, Argo 5386, Roots RTS 33021 J9OW-4997 I'm So Young Note 10012, Checker 902, Argo 5386, Roots RTS 33021 J9OW-4998 Wazoo!! Note 10013 J9OW-4999 Shuffle Stroll Note 10013 ノート、チェッカー、アーゴの各レーベルはいずれも45回転シングル盤、ルーツ・レーベルはCD だが、私はチェッカー盤(Checker 902)を入手した。 The Students/Checker 902 しかし、A面はウェスのようではないがB面〈 I'm So Young 〉はウェ スだと思う。 あなたは今までにこのセッションについて聞いたことがありますか? 恐らくこの情報であなたは驚いていると察するので、後日カセット・テ ープを送ります。」

と、言った内容のものだ。要は "スチューデンツ" のバックを務めたジミィ・コーのグループにウ ェスが参加していたということだ。 もう驚きを通り越して必死になってその情報の真意を探った。 先ず "スチューデンツ" と呼ばれるロック・ヴォーカル・グループはシンシナティ出身のミュージ シャン達でチェス・レーベルと契約したあと、ジミィ・コーのグループでリハーサルをするためイ ンディアナポリスに移動させられ、シカゴのチェス・スタジオでノート・レコードのレコーディン グ・セッションを行った。 "ノート・レコード" はインディアナポリスに設立され、ジェリーとメル・ハーマン兄弟が所有し、 メルが "スチューデンツ" のマネージャーとなった。 ある情報によるとマトリックス・ナンバー、タイトル、日付などからみてRCAレコードがノート ・レコードをプレスしたと解説しているが、 "スチューデンツ" のパーソネルにも若干の間違いが あると思う。 ノートとチェッカー・レーベルは、1958年8月に同時リリースされ、アーゴは1961年3月に出現して いるが、《Roots of Doo Wop/Roots RTS 33021》は1990年代にリリースされたCDにもかかわらず 探しに探しまくったが全く見つからなかった。 次にジミィ・コー(ジェームス・R・コー)のことについて説明するが、恐らくウェスと接した最初 の人物と思われ彼を介して "スチューデンツ" 等のグループに接していったようである。 通称ジミィは1921年3月20日にケンタッキ州のトンプキンヴィルで生まれた。 一家は1922年にインディアナポリスに引っ越してきたが、第2次世界大戦 (1943-1945)での徴兵期 間以外は全てこの地に落ち着き、インディアナポリス公立学校で何年も音楽を教え、その間にジャ ズとR&Bの両方をこなし、サイドとしてもプレイし続けた。 レコーディングはナプタウン (訳注: インディアナポリスの俗語。そう言えばウェスの作曲で《ゴ ーイン・アウト・オブ・マイ・ヘッド》に〈ナプタウン・ブルーズ〉というのがある) だけでなく それ以外にも残されており、彼の4回のリーダ・セッションのうち3回がシカゴで録られている。 一流の会社で役割を果たすジミィの才能については早くから認められており、すでに20歳でジェイ ・ムクシャンンと一緒にロードの経験をしている。 1942年4月、彼はNYCのアポロ劇場で誰もが羨むぐらいの "ジェイ・ムクシャンン・バンド" の アルトとして短期間だがチャーリー・パーカーの代演をこなしたことがある。 彼はその公演の間に初めてアルトでソロを演ったが、のちにチャーリー・パーカーが観客席で観て いたということを聞かされた。 本来 "ジェイ・ムクシャンン・バンド" でのジミィの担当はバリ・サクだったが、スタジオ・セッ ションで演ったものが放送され、保管されていたという。 最後の10年間で彼は"オン・タイム"というレーベルでビック・バンド・セッションをレコーディン グしている。 このジミィのサイトにはもうひとつ "ドジー・ボーイズ" というグループが紹介されている。 "ドジー・ボーイズ" はヴォーカルとインストゥルメンタルのグループで24年間活動した。 パーソネルは、ギターが Eugene Teague(1928-1958)、ベースとアレンジが Cornell Wiley(1929年 - )、そしてBenny Cotton(1929年- ) は厳密にいうと歌手として出発したがドラマーに転向した。 時折、そのメンバが Bill Minor, Frank Bell, Joe Boyce, Bobby Blevins, Pee Wee Branford, Truxton Kingslow, ウェス・モンゴメリ, Clifford Scott, Jerry Hubbard らとも組んだ。 彼らがピアニストを必要としたとき、1950年のセッションでは King Fleming、1948年のセッショ ンではSonny Blount(aka: Sun Ra)を迎えたことは承知のことである。 "ドジー・ボーイズ" の大部分はそのピアニストのサイドで聴けるが、馴染みやすいヴォーカルは 【スウィング 時代】の伝統を引き継いでいる。 その50年代後期に彼らはロックン・ロールに取組む努力で巡業を重ね、1970年まで活動し続けた。 彼らが今までに契約したレーベルは "アーイストクラット"、"チェス"であるが、中でも"ユナイテ ッド" ではゲスト・サックス奏者のタブ・スミスをフィーチュアする伴奏は、他のレーベルよりジ ャズと、ドゥ・ワップの熱烈なマニアからの注目に値すると紹介されている。しかし肝心のウェス とのレコーディングは今の段階では確認されていない。 このようなことから、とにかく我武者羅に "スチューデンツ" のノート、チェッカー、アーゴの45 回転シングル盤のうちどれでもいいから入手するためアメリカ各地にコンタクトした。 その結果、「確かに "スチューデンツ" とウェスは共演したことはあるが、あなたが探しているレ コードにウェスは参加していない」と言いきる人物に出くわした。 コンタクトを繰り返した1ヶ月ほどあとのことだが、この人物が意外な展開を示してくれることに なる。 その人物とは親友であるロニー・ヘイグというロック・ギタリストのサイトを開設し、自らは "J- AN CEE MUSIC" のオーナーでもあるステファン・ジェイ氏である。 Q:何故そんな確かなことが言えるのですか? A:私はインディアナポリス住む親友のロニー・ヘイグにあなたからの情報をチェックするよう電 話した。   当時、ロン(ロニー・ヘイグ)はノート録音の多くのレコーディングにギタリストとして、また 作曲家としてかかわっており、彼は「ウェスは1958年2月のスタジオ・セッションに顔は見せ ていたが、結局 "The Students/Note-0012" の2曲のレコーディングには参加しなかったよ。 」といってましたね。 ロンはこの〈Every Day Of The Week〉と〈I'm So Young〉のイントロをギブソン "ES-295" を使ってプレイし私はそのプロデュースとプロモーションに係わり、ピッツバーグ、ペンシル ヴァニアにある "WLSWラジオ" でナッシュビル、テネシーで有名なDJ "John R" にこのレコ ードの紹介をお願いした。    ステファン・ジェイは自分のサイトでロニー・ヘイグについて次のように書いている。 ロッキン・ロニー・ヘイグは消えたと時と同じぐらいの速さでロックン・ロールのシーンに戻って 来た。 1958年のヒット曲〈Don't You Hear Me Calling, Baby〉は、インディアナ州インディアナポリス のノート・レーベルの第2作目としてリリースされたが、彼のリーダー作は4曲2枚分のシングル がレコーディングされた。
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