その後まもなく、彼の経歴は不意な徴兵制度によっていきなり
停止させられ、3年間(そのひとつがベトナムで陸軍医療補助
員として)役目を果たした後、1964年に帰ったが、ロックン・
ロールのスタイルが既にドラマチックに変化していたことを知
った。
しかし、彼の技量は変化していなかった。
というのも、ピッツバーグ・オールド・レコード・コレクター
ズ・クラブ ( P.O.R.C.C )でのパフォーマンスから生み出さ
れた物凄い群衆熱意が、その事実を証明している。
ロニー・ヘイグはナッシュビルに出かけていたが、インタビュ
ーのために私は追いかけた:
ステファン:OK、ロン 、あなたのこれまでの35年間はどうだった?
ロニー :どのように答えるの?
ステファン:お好きなように。
ロニー :君も知っての通り〈Don't You Hear Me Calling, Baby〉のあと、インディアナポリ
スで幾つかのショーをしたが、数人の長髪グループがすでにこの土地で成功し多くの
演リ方を変えていたことが分かったんだ。
外国からの長髪グループの進出は私にとって本当に喜ばしくなかった。
ステファン:ビートルズのこと?
ロニー :君が何でもと言ったから話しているが、 好ましくないグループのひとつだったね。
ステファン:それはイギリス人のサウンド侵略といったところ?
ロニー :そう、どのエンタテイナーよりも満足しなかったよ。なぜなら、彼等はたんにやって
来て我々のステージを占領し、音楽までも変えていったんだ。
そして彼らがファンの人気を得て帰った後、何としてもチャック・ベリィのような音
楽に戻そうと努力したが、恐らく前のように広まるだろうと思ったらファンは聴く耳
すらなく完全にビートルズとやらにイカれていたよ。
ところが、私も初めは聴きたくもなかったが、ポール・マッカートニの良さが分って
から、今は彼らのすべての音楽が好きになった・・あれだけ嫌いだったのに不思議な
もんだ。
ステファン:そのことが君にとって経済的に良かったと思うよ。
ロニー :そう言うと思ったよ。(笑い) 発想の転換って奴かな、忙しくなって仕事を得て家族
を養えるんだから。
私は軍隊から帰ったときも決してギターを諦めてなかった。
〈Don't You Hear Me Calling, Baby〉で弾いたギブソンを再び取り出し、3年目に
してやっと肩からストラップで吊るすことができた。が、ストラップが外れ慌ててそ
れを捕えようとしたが、床に落ち破損させてしまった!
ステファン:で、今はどんなギターを。
ロニー :ギブソンES-295だけど、そこのギブソン誌に載っている復刻50本限定で発売されたも
のだが、私はオリジナル・モデルのつもりでいる。
これまでの5年間我々は復刻されるように働きかけたからね。
それがゴールド・メタル・フレークのシングル・カッタウェイ・レス・ポール・モデ
ルというもので、来週には自分の腕に賭けてみるが・・もうこれ以上遅らせることは
できないね!
ステファン:その後君は1964年にプレイアーを辞めたんだっけ?
ロニー :そう、そして "プルデンティアル保険会社" に就職し、20年間働いたがいすれにして
も20年は長かった。
どちらかと言えば自分で決めた事だが、ミュージシャンとしてあるべき姿ではなく、
病院と葬儀会館で働くことに疲れきっていたよ。
ただ友人が、ロン・ヘイグの名前を使って他社のカントリー・ソングのレコーディン
グを紹介してくれたが、A面は〈Comin'on Home〉で、B面は〈Listen to My Music〉
だった。
仕事の殆どはナッシュヴィル、フェニックス、デトロイトだったが、たまに遠い仕事
もあった。
ステファン:そのレコードを聴いたが、確かにカントリー・ミュージックだよね。
ロニー :カントリー・ミュージックも悪くはないし、1957年私はハンク・ ウィルアムス、 レ
ッド・フォレイに耳を傾けていた事があるんだ。
ステファン:私は以前のサウンドが好きだが〈Don't You Hear Me Calling, Baby〉をレコーディ
ングしたとき何才だったの?
ロニー :18歳だったよ。
ステファン:どんなセッションだったの?
ロニー :ちょうど "ボイド・ベネット楽団" で〈Atom Bomb Baby〉という曲をレコーディング
したところで、"ファイヴ・スターズ" と呼ばれるロニー・ラッセルのグループに出
会ったよ。
我々は慈善興行ショーで共演し、バックでギターを弾きたいと言ったら...いいで
すよ、ということになったが結果5曲ほど歌う事になった。
"ファイヴ・スター" は2作目のノートで〈Pickin' on the Wrong Chicken〉と〈D-
reaming〉をレコーディングするためにスタジオに戻る用意が整っていた。
1958年2月、その「セッションでギターをプレイしたいか」と彼が尋ねたので、もち
ろんと応えたが私のどっち (ヴォーカルかギター)が受け入れられたのか分からなか
った。そしてシカゴにある彼らのマネージャーの家へリハーサルに行った。
ステファン:それでどうしたの?
ロニー :それは "all-black" バンドとの初めての経験で、リハーサルの後に彼れらはジミィ
・コー、プーキー・ジョンソンそれにピアノのヘンリ・キャインを紹介してくれた。
そして、ナプタウン(インディアナポリスの俗語) のクラブではウィル・スコットの
ベースにウェス・モンゴメリがバッキングを演ったよ。
私は彼に一度もピックを使うことを教えることができなかったがね!(笑い)
ステファン:ジミィ・コーはサックスだった、それともコルネット?
ロニー :バリトンだった。 それにアロンゾ・ジョンソンがサックスでハーモニィを吹いていた。
ステファン:他にもいたの?
ロニー :あ!!、そう言えばライオネル・ハンプトンで長い間ドラムスを演っていたアール・フ
オックス・ウォーカーがいたよ。
とにかくいいグループに会えたよ、彼らのマネージャーに私は自分のオリジナルの歌
を持っていると言った。
そのマネージャーとは ジェリ・ハーマンこと、カール・ジェラルド・ハーマンだっ
た。
彼には兄弟がいて、メル・ハーマンはインディアナポリスで "ノート・レコード" を
経営していた。
それで私が書きあげた歌を聴いて、レコーディングする事になった。
ジェリは「我々は金曜の夜まではインディアナポリスにいるが、来週の火曜の夜はシ
カゴにいる」そして、「私と契約書が交わされるだろう。あなたはここでサインしな
ければならないだろう」といってたよ。
ステファン:それでレコーディング・セッションを演ったわけだ。
ロニー :我々は真夜中から午前6時まで、ふたつのセッション・リハーサルをした。
すでに〈Pickin' on the Wrong Chicken〉と〈Dreaming〉は"ファイヴ・スターズ"
のために計画されており、終始私はギターを弾いたが、次の私のセッションでは "フ
ァイヴ・スター" がバック・アップ・ボーカルを務めてくれたんだが、そこで午前3
時に一旦休憩をとった。
ステファン:そこはチェス・スタジオだよね、続けて。
ロニー :そう、それでプロデューサーが50コのホット・ドッグを買わせるため、道の反対側に
ある南ミシガン通り2100にウェスと一緒に使いにださせた。
ここは犯罪の多い地域で夜間はとても危なく、もし事件に遭遇したらウェスに親指は
必ず守ってあげるといった。
それで二人がスタジオに戻ってくると、何人かの背の高い黒人が来ており、そのひと
りはスエット・シャツにジーンズ、それから昔〈fruit-boots〉と呼ばれた黄褐色の
高価なスエードの靴を履いており、「君のギターを少し使わせてくれないか」といっ
て来たので、いいけれど高いギターなんだから注意しろといった。
私はホットドッグをつかみ2階のサウンド・ルームに居る、サウンド・ボードのエン
ジニアで魔術師といわれるジャック・シェルダンへ雑談しに上がった。
彼はしばらくするとギター音楽を流し始めた、しかしミュージック・テープは見当た
らないので誰が弾いてるのと尋ねると「君のギターを弾くチャックだ!」という。
チャックって、チャック・ベリィのこと? あの有名なロックン・ロール歌手の?
ガラス窓を通して階下を見下ろすと確かに私のギターを抱え足組みで腰掛けていた。
マジかよ!・・突如病人のように重い足取りで階段を降り、チャックさんですか?
と尋ね、無礼な態度を謝ったが本当に決まりが悪かった。
彼は借りたギターを返しながら、「君はウェスのようなギターが弾けるか」と尋ねる
と横からウェスが「出きるが、使いこなすまでにかなりの月謝がかかるよ」と口を挟
んだ。
スタジオの全員が私にジョークを仕掛けたことが分かって、みんなでおお笑したよ。
(以下略)
Q:ロニー・ヘイグのことがよく分かりましたが、ウェスが参加したというレコーディングは?
A:ロンによると、ウェスは追加のギター演奏が必要とされたとき、すぐ仕事を得られるのでスタ
ジオにはしょっちゅう来ているといっていた。
1958年5月ジミィ・コーのリーダ作 "Note-10013" の〈Wazoo〉と〈Shuffle Stroll〉なんだが
コンピング(伴奏)に徹し、次がロン自身の "Note-10014" の〈Rockin' With Rhythm And Blues〉
と〈Money Is A Thing Of The Past〉でこのときもコンピングしたと説明した。
一時的ではあったが、ウェスは我々ファンが考えもしなかった経歴を残していたことで、ハンプト
ン時代のブルーズ・セッションに続いて再び驚かされることとなった。
このことは彼の音楽にたいしての良い意味での貪欲さであり、敷いては後年の成功につながる【フ
ァンを大切にした活動】へと展開したことがここに立証されたと感ずる。
というのも、ジャズが衰退する中、ウェスは諦めることなく絶えず何か新しいものへの挑戦を繰り
返し、「人から何と言われようと構わないさ」と言っていたように、何事においても信念を持って
やれば必ず開花するという好事例として、改めて考えさせられたような気がした。
どうですか、ウェスに係わった二人の旧友がこのようにして私に、しかも偶然に出会えた事で本当
にウェスの隠された一面が判明したという事実、「もーたまりまへんわ」。
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