THE VEW FROM WITHIN / ORIN KEEPNEWS

 そしてウェスが本当の大物になったとき、    こういった話に接して感じるのは、時の経つ 再度三兄弟でバンドを結成したがそれはあく    のはあまりにも早く一分一秒といえど大切な までも千両役者としてのウェスのビッグ・ネ    ものだということである。 ームによって、彼の晩年になされたことであ    私がウェスと仕事を始めた頃から痛感してき った。                     たのは、時間に追われるということがいかに ウェスの生涯を振り返ってみて、そこに多く    肉体的及び精神的への疲労や苦悩の種になる のプレッシャーやストレスの形跡を確認する    か、ということであった。 ことができる。                 ウェスはしばしば神経過敏症について話して 彼のミュージシャンとしてのスタートは遅い    いたけれども、目まいなどの発作に対する医 ものであったし、そもそも正規の音楽的理論    学的な処置を一度ならずも何度となく探し求 も全くといっていいほど受けていないのだ(    めていたのである。 ウェスが18歳を過ぎてからチャーリー・クリ    彼は飛行機に乗るのを非常に恐れていた。 スチャンのレコードを聴きながら独学でギタ    やむを得ず短時間なら乗りはしたが、でも心 ーの練習を行なったという逸話は確かなこと    理的にかなりの動揺を与えた(このような飛 のようだ)。                  行機アレルギーから1965年にヨーロッパへの 彼がミュージシャンとして世に出るまでには    演奏旅行の話が持ち上がったとき、ウェスは かなりの遅れがあった。が、1948〜50年の間    船で海を渡るのならあまり苦にならないと切 にはライオネル・ハンプトンのバンドと共に    出したが、しまいには陸路を通って現地へ辿 長期ロードを経験してきた。           り着く方法を誰かが思いついてくれないのな それが1960年になって(そのときウェスは30    ら自分は行くつもりはない、などといいだす 代半ば)初めてリーダーとしてレコーディン    ほどだった)のである。 グが実現したのである。
 特に最初の頃、『上手く弾けない』とか、    だが、私が一貫して感じたことはウェスが自 『僕は、君を知る以前のほうがもっと上手く    分のプレイに対して抱いていた疑念というも 弾けていた』。とかいう感情を、彼は実に率    のが、実は完璧主義者がよくやる一種の自己 直で淡々と語ってくれた。            批判が少しばかり過度に表現されたに過ぎな そのような自己批評に、私は気分を害したも    いということであって、こういったことはこ のだった。と、いうのも初めてウェスの音楽    れまで私が出会った大物ミュージシャンがそ を体験した時からメロ・ドラマチックであり    ういった傾向にあるのをみている(例えば、 、雷鳴を思わせるサウンドを充分察知してい    ソニー・ロリンズやビル・エヴァンスはウェ たからである。(ここで、既に伝説か昔話の    スと同様、少しばかりのことで自信を喪失し 領域に入ってしまったような話ではあるけれ    てしまうタイプの代表みたいなものだ)。 ども真相について簡単に触れておこう。      実際、ウェスは完璧とはいいがたい時期もあ ある日キャノンボール・アダレイがリヴァー    ったが、我々からみて全くとるに足りない小 サイドの私のオフィスへ駆け込んできていう    さなことだった。 には、『インディアナポリスのコンサートを    そんなことより特筆すべきことは、彼がNY 終え“ミサイル・ルーム”でウェスのステー    のシーンに初めて登場したときどれほど素早 ジを観てたったいま帰ってきた』、というの    く他のミュージシャンらが彼に好意をもち、 だ。                      彼を受入れたか、ということであり非常に重 私は彼の余りの興奮ぶりに心を動かされ、数    要なことである。 日後自分の耳で確かめるべく早速インディア    リヴァーサイド初期におけるモンゴメリへの ナポリスへ飛んだ。               評価は、もしかするとここまで述べてきたの その結果ものの30秒と経たぬうちに私は彼の    とは正反対のものになっていたかも知れない 虜になってしまい、そこで深夜営業のクラブ    。自分の出身地でありとあらゆるサクセス・ が閉店する夜明け前に彼とリヴァーサイド社    ストーリーを重ねてきた男であっても、NY とのあいだにレコーディング契約が交わされ    へ出てきたとたん大都会の海千山千のミュー てしまったというわけである)。         ジシャンらのつるし上げに遭い、ステージか
ら引き摺り降ろされるのが普通だからだ。     それ以外のミュージシャンもウェスとの共演 ところがウェスにはそのパターンは通用しな    を熱望した。キャノンボール・アダレイ、ミ かった。                    ルト・ジャクソン、それにジョージ・シァリ 第一の理由としては、彼が噂にたがわぬ秀逸    ングたちとのレコーディングや、ゲスト出演 なミュージシャンであることが誰の眼にも明    としてのウェスへの出演依頼だけでなく有名 らかであったことが挙げられる。         プレイヤーからプランや要請が彼のもとへぞ だがもっと大切な要因としては、これも同じ    くぞくと寄せられた。このことは前代未聞の くらい明白なことだが彼の態度に思い上った    ことだった。 ようなところが全くないことに加え、他人の    こうしたときに60年代初めのある数週間、当 真似を許さない非凡なプレイアーであったと    時レコーディング器材を所有しているアマチ いうことにある。                ュアがまだ少なかったことはたいへん不運な ウェスとレコーディングするパートナーには    ことであった。 、パーシィ・ヒースであろうがトミー・フラ    というのも、ウェスがジョン・コルトレーン ナガンやハンク・ジョーンズであろうが文句    のバンドに参加し、サンフランシスコの“ジ ひとついわず依頼に応じたものだ。        ャズ・ワークショップ”に出演したがやはり パーシィは本来なら自分と実質的に互角のウ    そういった器材が置いてなかったのだ。 ェスをサイドに招き入れることもできたが、    このために彼らのプレイを私は聴くこともな 自分の腕の不十分さに多少ジレンマもあるだ    かったし、彼らがどれほどピッタリと息の合 ろうが、これらウェスの初期のセッションに    ったプレイをしていたかについてはただただ は私がこれまで係りを持ったもののうちでも    想像を巡らせてみるより他になかったのであ 最高に楽しめるものであり、それらは未だに    る(当時グループにいたマッコイ・タイナー 私の脳裏から消えない。             の話によるとウェスは少しばかり遠慮がちに                         弾いておりそうしたことがとてもいいときも                         あれば、つまらないときもあったそうだ)。

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