Wynton Kelly(p) Wes Montgomery(g) Paul Chambers(b) Jimmy Cobb(dr)
B'Cast, "Half Note", N.Y.C.; Jun.25,1965
Surry With The Fringe On Top [5:20] [6:12]
note: from 《Willow Weep For Me/Verve V6-8765》
original from reconstructed version
ここまで《ウィロウ・・・》に関するケリィのソロがカットされた【事情あり】テープのことを
色々と説明してきたが、本アルバムで1曲だがやっとオリジナル・フォームでリリースされた。
これを聴いていただければ解ると思うが、ヴァーヴのした行為がいかに正しくなかったか、またそ
の事情も解っていただいたと思う。
それにしても、本アルバムでこの〈飾りのついた四輪馬車〉の完全復元ヴァージョンがリリースで
きたなと思うのですが、どうせなら全ての曲を聴かせて欲しかったという感じですね。
やっぱりヴァーヴは中途半端なんですよ。
曲 名 | Willow Weep/ V6-8765 | Small Group/ VE-2-2513 | Smokin' Vol.2/ J28J 25117 | Jazz Sides/ 314 521 690-2 |
Willow Weep For Me | 7:42 | 7:42 | 7:36(MC) | 7:35 |
Impressions | 5:01 | 5:01 | 5:02 | 5:03 |
Portrait Of Jennie | 2:45 | 2:45 | 2:56(MC) | 2:45 |
Surrey With The Fringe On Top | 5:20 | | 5:32(MC) | 6:12(MC) |
Oh! You Crazy Moon | 5:27 | | 5:35(MC) | 5:19 |
Four On Six | 9:29 | | 9:29 | 9:30 |
Misty | 6:45 | 6:45 | 7:00(MC) | 6:40 |
赤数字演奏時間はクラウス・オガーマンの編曲指揮がかぶさったもので、本アルバムでは
桃数字演奏時間の〈飾りのついた四輪馬車〉がオリジナル・フォームで挿入された。
本アルバム・ライナー・ノーツで《スモーキン・アット・ザ・ハーフ・ノート》についての記事
が書かれているので紹介する。
《スモーキン・アット・ザ・ハーフ・ノート》はウィントン・ケリィ・トリオとウェス・モンゴメ
リによって演じられた最も素晴らしいジャズ・ギター・アルバムであり【マルチ・グラミ賞】を受
賞したギタリストで作曲家のパット・メセニーにプレイする興味を与えたレコードでもあった。
ドラムスのジミー・コブはこのアルバムに参加したクウォーテット唯一の生き残りメンバーであり
メジャーなジャズ・ギタリスト、ジム・ホールすらの賛辞を思い出した。
彼は、「これこそギター・プレイアーのための完全なアルバムと完璧なリズムセ・クションであっ
た」と言う。
ガンサー・シュラーは現存しないジャズ・レヴュー(1959年9月)でウェスへの賛辞を綴った。
「プレイするに困難なオクターヴ奏法(その功績は1935年にジャンゴ・ラインハルトが考案)はウ
ェスが初めに演ったものではなかったが、リスナーに決定的な印象を与えたのは確かなことだ。
彼は独学のミュージシャンとして、そのことが不可能なテクニックであることを知らなかったから
こそ、完成させることができたと思っている。」
シュラーによる賛辞の35年後に、メセニーはウェスの永久的なギター・ヒーローについてこれら
の洞察を述べてくれた。
「マイルスとコルトレーンが現われた後、ドラマーとベーシストがどちらかと言えばさらにそのこ
とで足を引っ張っていたと思う。
というのはホーン・プレイアーがそうであったように、多くのギター・プレイアーのモダン・リズ
ム・セクションの挑戦に対して本当にリードしていなかったということなんだ。
常にその点で他のインストゥルメンツの陰で虐げられてきたギターではあったが、ウェスは優れた
才能で彼自身がドラマーのようにどちらかと言えばリズミカルにプレイしていたと思う。」
彼の無類のプレイについてはある物語のような流れがあった。
彼の素晴らしい時期、そのサウンドはパーフェクトな鑑賞力を持ち、信じがたい威厳と平静さで、
趣味が良く、実に上手かったね。
しかも、A&Mでそれを覆すような環境に持って来られても、音楽的には素晴らしかったが、それ
も優雅な音楽的なジェスチャー以外の何ものも必要としなかったのだから。
それで、ウィントン・ケリィ、ポール・チェンバースとジミー・コブにウェスを加えた時、本当に
奨めることができるライヴとして、私が話をしている重要性とそのすべての精神が意味するもので
今までに最も偉大なジャズ・ギター・レコードであるものを手に入れた。
このアルバムはモンゴメリの11年間のディスコグラフィ上で、ワーキング・バンドとして最後にレ
コーディングされた "ストレイト・アヘッド "なアイテムで構成されていた。
ジャズ・ファンたちがチャーリー・パーカー以後のコンボ編成に注目しているのは、キャノンボー
ル・アダレイ、アート・ブレイキ、クリフォード・ブラウン&マックス・ローチ、アル・コーン&
ズート・シムス、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、チャールズ・ミンガス、セロニア
ス・モンク、オスカー・ピーターソン(ドラムスのエド・シグペン)、ホレス・シルヴァーのよう
なリーダーの名前を述べた。
ウェス・モンゴメリとウィントン・ケリィ・トリオは確かにこの英雄に属する。」
次にコブが語ってくれた。
「我々は、カリフォルニアから東部へのクラブ・ツアーとして、3〜4カ月間ウェスと一緒にワー
キング・バンドとして演っただけで、65年以降は再び彼と共に組まなかった。
私は彼の兄弟が戻るように迫ったと今でも思っている。」
ウェスが楽しんでいたもので、我々が行ったところはどこも "スーパー・8ミリムーヴィ" を撮っ
て、彼がインディアナポリスに戻ったとき、子供たちに観せていたようだ。
彼が若かったときの約10年間は家族の面倒をみるため1日に3つの仕事をこなしていた。
それら総てのストレスを推測すると、心臓病を患った大きな原因ではあったが、ヘビー・スモーカ
ーは唯一の悪徳であった。
彼は読むことができなかったという理由で、多分楽譜については話をしはしなかっけれど、音感に
ついては素晴らしい耳を持っていた。」
コブはリズム・セクションの仲間や旧友のことについても語ってくれた。
「私が21歳のとき、アルト奏者のアール・ボスティックのバンドで、とても優しい男ウィントンに
会った。
ウィントンはダイナ・ワシントンの伴奏をしていたが、ベーシストにキーター・ベッツが加わった
とき僕も彼女のためにプレイすることになったが、それが最初のトリオ結成であった。
ウィントンは面白い男だった。それが彼の故郷でプレーすることができたから、彼をブルックリン
市長と呼んだものだったよ。
そして彼はそのクラブで非常に人気が高くて、観客にカクテルをおごるためすべての金を使ってい
た。[笑い]
我々のトリオはだんだん良くなって、ウィントンにもましてそのクラブが好きになった。
多分ウィントンが37歳の頃、突然発作を持ち始めたが、それが彼の死因であったと思う。
彼はポール・チェンバースの死因に起こったことと同じということを常に心配していた。」
ウィントン・ケリィ・バンドが残した音楽とは若者たちの心をぎゅっと掴み、そのフィーリングと
スウィング感の全てを伝えるものである。
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