ギャンツェで再会

     
    午前9時過ぎに、シガツェ(日喀則)の宿をチェック・アウトし、宿の前から出ている、ギャンツェ(江孜)行きのミニバスに乗り込んだ。ワゴン車のようなミニバスには、人と荷物が、こんなにも入るのか!って言うくらい、詰め込まれている。俺もあまり身動きがとれない状態だった。

    ミニバスは、しっかりと舗装された、アスファルト道を快調に、走り続けた。
    俺は、音楽を聴きながら、点在する民家と広がる畑と青い空に白い雲、肌色の山々と言う、もう見慣れてしまった、チベットの風景をただ眺めていた。
    しかし、赤茶色の城壁に囲まれたギャンツェが、見えた途端、見慣れない風景に、今まで、ボッーとしていた俺の頭は、目を覚ました。

    街の郊外に広がりを続ける、現代中国的な無機質な街並みを抜けると、ギャンツェ旧市街へと入った。
    そしてミニバスは、20世紀初頭、イギリス軍との戦いの舞台となった、ギャンツェ・ゾン(城)の近くで停まり、僕は、ミニバスを降りた。

     海抜4,040mのギャンツェ(江孜)には、旅立ち前から行ってみたいと思っていた街だったが、旅を続ける内に、もう一つ理由が出来た。
    それは、西寧のタール寺、サンチュ(夏河)のラプラン寺で出会った、巡礼の一団が住む街が、ここギャンツェだった。果たして、みんなに会えるのだろうか?

    宿は、ロータリー付近をリュックを背負って、歩いているときに見つけた『家具厂招待状』と言う、チベット風な宿。1泊=35元(約500円)でトイレ、シャワー共同。シャワーを使わなければ、30元だそうだ。

    ギャンツェ・クンブム(右)がある、パンコル・チューデ

     早速、みんなを捜しに、街を歩いた。
    ラサで、ギャンツェに行ったことがある人が、「ギャンツェは、小さな街だから、すぐに会えるよ。」なんて言っていたが、思ってた以上に、大きな街で、人も多い。ギャンツェは、チベット自治区で6番目に大きな街だと、ガイドブックには、書いてあった。

     僕は、ギャンツェの中心的存在のゴンパ、パンコル・チューデ(白居寺)へと向かった。
    ここに行けば、誰かに会えるような気がしたのと、僕が、ギャンツェで一番行きたい所だった。
    ギャンツェ・ゾンを右側に見ながら、チベット式の家屋と街路樹が、重なり合うような歩道を歩いていると、突然、背後から声を掛けられた。
    何を言われた、解らないが、呼び止めるような感じに聞こえたので、僕は、後ろを振り返った。
    僕は、みんなの名前は知らないが、顔は、ハッキリと覚えていた。
    そして僕は、「おおっー!」と声をあげて、おもわず日本語で「オッチャン!」と叫んでしまった。

    こうして、まずは一人と再会することが出来、オッチャンの家に招待された。
    パンコル・チューデにも行きたかったが、まずはオッチャンの家だ。
    オッチャンの家は、大きくて広かった。家具や調度品を見た感じでは、かなり裕福に見えた。
    僕は、革張りのソファーに座り、ミルクティーを飲んでいると、あれ?オバチャンは・・・
    あなた達が、夫婦だったのですか。

    左:砂で描かれた曼陀羅 右:ギャンツェ・ゾン

    さらには、小さな孫達もやってきて、僕はガイドブックを見せながら、知っている限りの言葉を駆使して、話しをした。ラサに1ヶ月ほどいたことや、どのゴンパに行ったなど。
    話しが一段落したあとは、孫達の写真を撮ったりして、遊び、お昼ご飯までいただいてしまった。
    ご飯は、食堂で食べるよりも、味付けが濃くなくて、美味しかった。

     オッチャンの家を後にした僕は、パンコル・チューデへと向かった。
    このゴンパにある、巨大なチョルテンは、ギャンツェ・クンブムと言って、8層にもおよぶ塔の高さは40mもあるらしい。そして、文化大革命での破壊を免れた、チベットの遺産である。
    塔のデザインの意味は、解らないが、仏教の宇宙観を形にしたものなのだろうか?
    何にしても、メチャクチャ、カッコイイです。


    本堂の中では、僧侶達が、砂曼陀羅を描いていて、初めて見た光景に、嬉しくなった。
    なんか、メッチャ新鮮。チベットでは、行くところがゴンパばかりで、少々飽きてきていたが、ギャンツェでは、砂曼陀羅や、ギャンツェ・クンブムの外観や内部の壁画など、全てが新鮮だった。
    巡礼者一団とも、まだ二人にしか再会していないが、来て良かったです。

    左:ギャンツェの街 右:住宅街にいた牛

     2時間ほど、パンコル・チューデにいて、写真もたくさん撮ったなと、満足しながら、通りを歩いていると、住宅の2階から、僕を見つめている人がいて、その人と目が合った。
    「ああっー!お婆ちゃん!」お婆ちゃんは、僕に手招きして、入ってこい。と促す。
    木の扉を開け、中に入ると、1階には家畜の牛が2頭、飼われていた。
    2階は住居となっていて、階段を上がり、中へと入った。

    この家には、お婆ちゃんが一人で暮らしているらしく、僕が来たことをすごく喜んでくれていた。
    そして僕は、バター茶を飲みながら、4人のお婆ちゃんの子供達の話しを聞いていた。
    2人の子供は、シガツェで働いているそうで、もう一人は、上海へ。そしてもう一人は、どこかのゴンパの僧侶だと言っていた。
    僕は、あまり会話が出来る方ではないので、僕が分かったのは、それくらいだけだ。
    そして、もう一つ、お婆ちゃんは、とても寂しいということだ。
    何とも言えないものがあったが、僕は、ここを後にしなければならない。


     再び僕は、カメラをぶら下げて、街散策へとくり出した。
    途中、カメラ屋に、先ほど撮ったフィルム(ネガ)を出した。プリントの質が悪いことは、ラサで証明されていたが、このフィルムには、オッチャンとオバチャンと孫達が写っているので、ギャンツェを出る前に、渡せればと思っている。

    再会した人達

      僕は、メインロードを逸れて、ブラブラと住宅街を歩く。
    家の脇には、牛がロープで繋がれていたり、きれいな花壇を作っている家もある。
    どの家も、チベット式の家屋で、どこからでもギャンツェ・ゾンが見える。
    すれ違う人達もチベットの民族衣装のチュパを着て、女性は、カラフルなエプロンのようなパンデンと呼ばれる前掛けを付けている。
    そんなすれ違う人達のなかで、見覚えのあるオバチャンとすれ違い、お互いに「あっー!」と偶然、バッタリと会った。

    今日一日で、4人の人達と再会できたなんて、嬉しい。と、僕は、オバチャンの家へ行き、ミルクティーを飲みながら、オバチャンと娘さんと3人で、筆談などを使い、会話をしていた。
    そして、外へ出て、近所の人も加わり、記念撮影をして、再会は終了した。
    明日も、誰かに会えればいいのに。

     翌日、僕は、朝一番から、ギャンツェ・ゾンへ登った。
    標高が4,000m以上もあるなかでの、山城登りは、少し登だけで、息が切れ、心臓が圧迫されるような思いで、やっと登り切った。登った甲斐だけあって、ここからの眺めは、非常に気持ちよく、ギャンツェの街並みと、まわりに広がる、畑を見渡すことが出来た。
    そして、周囲には、誰もいなかったので、僕は、大きな声を出して、思いっ切り叫んだ!
    もう、メッチャ気持ちいい!

    ギャンツェ・ゾンから見た、ギャンツェの街並み。

     この後、パンコル・チューデの裏側に位置する、ラァセェ・ゴンパなども行き、街を歩き続けたが、今日は誰とも会えなかった。
    まだギャンツェに居たい気持ちもあったが、今後のことやビザの期限を考えると、ゆっくりとはしていられないなと、昨日、フィルムを出した写真屋へ行き、写真が出来上がったので、オッチャンの家へ行き、写真を渡すと、すごく喜んでくれたのが、とても嬉しかった。

    11人中、4人としか再会できなかったが、再会できて、嬉しかった。
    みんなが、僕のことを覚えてくれていたことが、すごく嬉しかったし、こんな旅も有りだなと思った。
    たった、2泊3日の滞在だったが、久しぶりに僕らしい、旅が出来た。
    ギャンツェから、ラサ行きのバスが出ていたが、僕は、明日、予定通り、シガツェへ戻ることにする。




    ヒマラヤ越え(ラサ〜ティンリ)

    シガツェ(日喀則)へ戻った翌日、再びラサ(拉薩)へと戻った。
    そして、再びスノー・ランドにチェック・インした僕の部屋は、前回と同様に、208号室。
    「うわっ!懐かしい。」たった5日間、空けただけだったが、そんな気持ちでいた。

    スノー・ランドの住人は、僕が出ていったときと、あまり変わっていなくて、tinaさんをはじめ、テルドム温泉へ一緒に行った面々とも再会することが出来、宿でボーダー(国境)行きのバス切符も無事に購入して、ラサ再出発の前日には、みんなで楽しく中華料理の夕食を食べた。

     そして翌日。いよいよチベットとのお別れの時が、近づいてきた。
    バスの出発は、午後からだったので、荷物整理を終えた僕は、バルコルを歩いた。
    ラサに来て、最初に歩いたのも、バルコルだった。
    本当に、今日、ラサを離れるのかと思うと、メチャクチャ感傷的な気持ちになり、色んな事を思い出してしまい、勝手に涙が出てきた。

    出発の時間が近づき、僕は、バスに乗る日本人数人と一緒に、スノーランドを出て、ジョカン前に停まってあった、バスに乗り込んだ。これで本当に、もうラサには、戻れない。
    乗客は、日本人9人と欧米人6人の計15人だ。
    日本人が多いのが、気になったが、これもお国柄なんでしょうか?
    僕は、誰とも喋ることなく、窓側の席に、一人、座った。

    そして、ついにバスは午後12時過ぎに、出発した。
    サヨナラ、ラサ。多くの旅人との出会い、忘れられない街、ラサ。
    人が、メチャクチャ感傷的な気持ちになっているのに、バスはガソリンを入れたり、色々なホテルを寄り道したりしたせいで、ラサの街を出るのに、1時間以上もかかった。
    おかげで、感傷的な気分も、すっかり冷めてしまった。

    ヒマラヤ越えの道中にて。

     この後も、バスはチンタラと走り続け、シガツェまで、ローカルバスで、9時間かかる道中を、このバスは、2時間プラスという、11時間という大記録を更新した。
    バックパッカーで有名な宿、テンジン・ホテルに到着したのは、午後11時過ぎ。「シガツェまで、11時間!、遅すぎる。」
    荷物満載の大型バスよりも遅いなんて、怒りを通り越し、呆れてしまっていた。

    テンジン・ホテルには、ギャンツェから戻ってきたときに、泊まった宿だったので、そのとき知り合った日本人男性が、まだ居るのかと思い、ドミトリールームのドアを開けると、いました。
    彼が、今回の旅で、赤い糸で結ばれてるのかと思うくらい、行く先々で出会うことになる、同じ歳の旅人、ko君である。
    自分の部屋(ドミトリールーム)に戻った僕は、シャワーも浴びずに眠った。

     翌日、ko君も、このバスに乗ることになり、計16人を乗せて、バスは午前8時に、シガツェを出発。
    昨日は、シガツェまで11時間という、記録を作ってくれたが、そんなこと、まだまだ序の口だったとは、ここにいる全員が、予想しなかった。


    聞かされていた予定では、今日、ネパールとの国境の街、ダム(樟木)に到着する予定であるが、バスは、そんな事は、何処吹く風。あいかわらずチンタラと、マイペースに走っています。
    別に、バスが悪いわけではなく、運転手の兄ちゃんが、マイペースでチンタラとしているだけである。
    そんな、運チャンに、僕達は、最後まで振り回されてしまうのだが・・・

    ティンリへ向かう途中の風景

     バスは、中尼公路を走り続け、シガツェから155キロ進んだところにある街、ラツェ(拉孜)で昼食。
    時間を持て余すほどの、昼休憩もやっと終わり、やっと出発。
    出発して、すぐに検問があったが、パスポートをまとめて提示して、事なきを終え、さぁ!ダムに向かって行くぜ、なんて思いきや、やっぱり、チンタラと走り、挙げ句の果てには、バスが故障した。なんてことを言い出し、今日はティンリ(定日)泊まりになってしまいました。

    それでも、ティンリに到着したのが、午後8時。いくら日が暮れるのが遅い、チベットでも、シガツェから、12時間経って、まだここかと思うと、呆れ返るのを通り越し、開き直り、この状況を楽しむ他はない。
    と言う、心境になった人は多いはず。

     こういう状況になると、必然的に、リーダーシップを執る人が登場するが、僕達16人も例外ではなく、チベット語を巧みに操り、ペットボトルに入った地酒のチャンを飲む、イギリス人の兄ちゃんが、ティンリでの宿の手配などをしてくれて、僕らをまとめてくれたが、実は、彼はホモで、彼の相棒(恋人)は、スキンヘッドでタトゥーを随所に施した、厳つい兄ちゃんで、彼等二人は、俺の前の席に座っていた。
    道中も彼等は、お互いにキスをしたり、肩を寄せ合ったりと、愛のヒマラヤ越えの真っ最中。

    そしてこの欧米人の中には、疑わしきホモのイスラエル人もいた。
    このイスラエル人は、メガネを掛けた太っちょ君で、ko君の隣に座っていたが、ko君曰く、「あいつ、やたらと体を引っ付けてくる。」と言い、ko君は、ついに席を離れ、俺の隣に座るようになった。

    そして何故だか?5人部屋のドミトリールームでの部屋割りは、愛のヒマラヤ越え真っ最中の二人と疑わしきイスラエル人と、ko君と俺だった。

    ティンリの手前にて、この山のどれかが、チョモランマらしい。

     日も暮れ、夜になったティンリは、標高が4.390mだけあって、かなり寒く、俺は、ラサで買ったチュパを防寒服代わりに着て、外に出て夜空を見上げていた。
    本当に、チベットの夜空は、キレイだ。
    今度は、いつ、こんな夜空を見ることが出来るのだろうか?
    なんて想いに更けながら、部屋へ戻ると、ko君が、いない!荷物も無い!・・・逃げた。
    ko君は、昼間の出来事もあり、他の日本人がいる部屋へ移ったのだった。

    えっ!そしたら、この部屋にいる、男?って、俺だけ?
    俺の頭には、一瞬、“まな板の上の鯉”“四面楚歌”など、逃げられない状況の言葉が浮かんだ。
    俺一人になった、部屋には、3人のホモが(イスラエル人は、やっぱりホモだった。)、チュパを着ている俺に向かって、「ビーティフル。」なんて言い、目を輝かせている。しかもウインクまでされると、もう身の毛もよだつ。

    俺も、ここから逃げ出したいと考え、チャンスをうかがったりもしたが、どうせ何もないだろうと、考えを変え、俺は、ホモ3人と一つ屋根の下で、眠ることに決めた。
    就寝前、欧米人3人は、このクソ寒い中、上半身裸になる。下は、下着を着けていたが、股間を両手で隠し、恥ずかしそうな顔をされても、なんて返せばよいのか、分かりません。
    そして、ロウソクの明かりは消えた。

    結局、何事もなく、俺はグッスリと眠っていた。
    朝の暗い中、部屋が暗くて、コンタクトレンズが入れられない俺のために、ロウソクを点けてくれたり、色々と気を遣ってくれて、コイツ等3人、特に愛のヒマラヤ越えカップルは、とても優しくて良いヤツだった。

    バスは、早朝6時半にティンリを出発した。